東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

『ザ・ビーチ』,2000,UK/USA 映画

2008-12-07 22:35:04 | フィクション・ファンタジー
こちらは、もっと時代が下ったバックパッカーを題材にした映画。
はっきりいって、超くだらない映画だった。
『エマニエル夫人』のような1970年代なら、まあ笑ってすませていもいい気がするが、これは2000年の制作ですよ。
最初、まさか単純にヒッピーもどきを肯定する映画じゃないだろう、と思ってみたのだが、なんと、まさに単純にヒッピーもどきの集団を肯定する映画であった。
原作小説は映画とは異なるという噂もきくが、めんどくさくて読む気はしない。

ちょっと考えてもわかるが、タイ王国は人口6500万をこえる国ですよ。
無人の地や、観光客が法規を無視して暮らせる場所があるわけないでしょうが。
それに、どうしてこの映画の製作者や監督が無視できたのかふしぎだが、電気も水道もない所で暮らしたら、のんきにマリファナなんか吹かしていられないでしょうが。冷蔵庫もないし洗濯機もないんだよ。

映画の途中まで、上記のような疑問・矛盾が噴出して、最後になんらかの解決があると思って見ていたのだが。
旅行者だけのコミュニティーが崩壊の原因は人間関係のトラブルばかりで、肝心の水や食料をどうするか、皿洗いや洗濯をどうするのか、という問題はぜんぜん描かれない。

もっとも、住民を無視した旅行者だけのコミュニティーというのは、映画のアイディアとしては悪くないと思う。しかし、警察もいないし、軍隊もいない、医者も病院もない、それにテレビもインターネットもないんだよ!、物語の進行に必要なディテールが完全に欠落している。
念のために言っておくが、この話は、非現実的な寓話やファンタジーではないのだよ。

しかし、この映画はヒットしたようで、映画のロケ地のピィピィ島は、いまやタイ国内でナンバー・ワンのバカンス地として脚光を浴びているようだ。(某インターネットの旅行サイトでは、最高の目的地にランクしている。)
まあ、津波の被害から回復するのに、この映画が役立ったのなら、それでいいんですが。

原作について、ジョー・カミングズという人物がコメントしている。

ジョー・カミングズというのは、原作小説の中で主人公(映画でデカプリオが演じた)に「ぶっとばしてやりてえ」と言われた人物、つまり、ロンリー・プラネットのタイ・ガイドの著者なのである。
つまり、こういうことだ。
小説の中で、デカプリオ演じた主人公は、誰も行ったことのない、観光客に汚されていない、無垢のビーチを求めている。しかし、ロンリー・プラネットのガイドに紹介されるいなや観光客が押しよせ、堕落した観光地になってしまう。だから、このガイドの著者をぶっとばしてやりたくなるわけだ。

それに対し、当の著者は、こう応えている。
西洋人でありながら、西洋人が訪れたことのない、秘密の場所を見つけようとする矛盾、まったくおかしい。
同じ観光客、バカンス客といっしょに楽しむのもいいじゃないか。たくさんの観光客が行く名所もいいし、便利なリゾート地も悪くないぞ。
そして、もしも、ほんとに〈西洋人に汚されていない、ピュアな〉アジアを求めるならば、そんなことは簡単だ。
タイでもどこでも、ちょっと観光コースからはずれた小さい町や村に行ってみな。西洋人なんていないし、キミは、そこでただひとりの西洋人であろう!

と、まあこんなことを言っている。(以上 Joe Cummings, "The Final Word" in Planet Talk JUL-SEP 2000 より、ロンプラが発行していた印刷のニューズレター)

さてさて、今年の冬は、キャンセルも多く、「ザ・ビーチ」ごっこをするチャンス!もっとも、新聞やテレビのニュースとは違い、これがチャンスとタイ旅行の計画を立てている人は世界中にいっぱいいるだろうから、ピィピィ島へ行ってもきっと観光客で溢れているだろう。みんなといっしょに楽しもう!

『エマニエル夫人』,1974,フランス映画

2008-12-07 22:31:30 | フィクション・ファンタジー
〈熱帯の豊穣に包まれ、官能に目覚める美貌の人妻〉なんて謳い文句で公開されたソフト・ポルノ(ソフト・ポルノってどういう意味かなんて訊かないでくれ、たいした意味はない)。
わたしは公開当時にみたが(←あほか)、つまんない映画だなあ、という漠然とした感想しかもたなかった。

しかし、わたしは知らなかったが、当時の東南アジアに関心をもつ人々の間では、傍若無人に振舞うヨーロッパ人、それに憧れる日本人、という文脈で、そうとうな批判があったようだ。
東南アジアを官能に萌える白人男女の背景としかみない植民地主義的映画、野蛮で従順な現地人という見方、などなど批判の的はいろいろあった。

しかし、わたしを含め当時のほとんどの日本の観客は、この映画が東南アジアのタイで撮影された、ということすら意識しなかった。
IMDBのサイトによれば、ロケはインド洋のセイシェル島とタイのバンコク、チェンマイで行われたそうだ。(セイシェルの場面なんてまったく記憶にないのだが。)
考えてみれば、1974年、まだ米軍のR&Rの保養施設ぐらいしかなかったタイに注目し、おしゃれ(死語!)でハイソ(これも死語)なリゾート地として描いた先駆的な映画であったわけだ。なんせ、ウタパオ航空基地から北ベトナムへ爆撃機が飛んでいた時代から間もない頃なのである。

その後、タイは全世界から観光客・リゾート客が押し寄せる第一級の観光国になった。売買春観光が過度に強調されるけれども、大半はカップルや家族連れでのんびり滞在し、ヨーロッパ並のインフラが整った快適な旅行地として楽しんでいる。
この映画で描かれたような、緑豊かで、従順な召使いがいて、ちょっと危ない要素もオマケにつく、というタイプのバカンスを楽しみたい方にも最適。
そういう意味でタイの観光開発を予見したような作品。

というものの、以上の記事はすべて記憶に頼って書いている。いくらなんでも、あのつまらない映画を再見する意欲はない。(だいたい主演のシルビア・クリステルって、わたしの好みじゃないんだよな。)
ネット上で、『エマニエル夫人』がリメイクされる、という情報があるのだが、やっぱりタイを舞台にするのでしょうか?エマニエル・ブームが起こり、タイの観光産業が活性化することを願う。

今年の正月休みは、キャンセルが相次いで、航空券が取りやすいかもしれないから、エマニエルごっこなど、いかがでしょうか?もっとも、テレビや新聞の報道とはまったく逆に、これはチャンスだ、と予約しているバカンス客が世界中にいっぱいいると思う。

映画『敵中横断三百里』,1957大映

2008-03-29 19:16:00 | フィクション・ファンタジー
映画の話ではなく、第二言語学習の話のつづき。第二言語学習に映画を活用しよう!という主張ではなく、わからないこともあるのだ、という例である。

たとえば、『ターミネーター』(第1作1984)で最初に標的であるサラが狙われるシーンを思いだしてほしい。(以下、未見の方には少々のネタバレが含まれますが、超有名な作品だからいいだろう。)
サラが正体不明の追っ手からのがれてナイトクラブにはいる。(うーん、この「ナイトクラブ」も和製英語化して元の意味からズレているが。)
そこで、他の客や従業員がなんかがやがやしゃべっているのだが、これはほとんど無意味。というより、危機迫る標的であるサラにはぜんぜん聞こえない発話であるはずだ。
一方、殺人機械ターミネーターにとっても、店内の会話などまったく処理する必要がないノイズである。(まあ、厳密に考えれば、並行処理できる高性能マシーンであるだろうけれど)

つまり、映画をみる観客としても、この店内のざわざわは、聞き取る必要がないのだ。
それが吹き替え版で、いちいち翻訳される。ひじょうに耳障りである。
映画のセリフは、演劇と違い、すべてのセリフを観客がキャッチするようにはつくられていない。
それをいちいち、不自然な日本語に訳されたセリフで理解するのは、おかしい。

*****

で、この『敵中横断三百里』である。
黒沢明と小国英雄が脚本。
セリフまわしが不自然だが、まあ黒沢・小国コンビだからしょうがない。
つまりだ、映画のセリフってものは、けっこう不自然なものなのだ。特に黒沢明の脚本は、セリフがぎごちない。この人が日本以外で評価が高いのは、この不自然なセリフが気にならない人たちの評価じゃないか?

しかし、この映画でみごとなのは、ロシア語や中国語で話される内容が、隊長(彼だけが、ロシア語と中国語が理解できる。)がキャッチした部分だけ字幕がはいるってこと。
あとは、観客も、偵察隊の隊員も理解できない。斥候隊が向かう土地の住民は当然ながら中国語(マンダリン)を話している。敵兵はロシア語を話している。それにほとんど字幕がつかないのだ。隊長以外は敵のことばがわからないという設定。
テツロク(鉄嶺)の駅のシーンなどたいへんスリルがある。
この設定はいい。

つまりだ。映画のセリフってのは、状況によって、登場人物だって理解していない場合があるってことだ。
それを、不自然な吹き替えでしゃべられと、その部分だけ際立ってしまうのだ。

というわけで、吹き替えの映画を見るのは止めるように。
理解できない聞き取れない音が発せられている、ということを知るべし。

わたしの若いことは吹き替えの映画なんてものは、幼児向け以外に存在しなかったのだ。
テレビで吹き替え映画が放映されるようになって、あの不自然でヒステリックなセリフがひろまり、当然のように捉える観客も増えていったってことでしょうね。つまり、おおげさに言えば、異文化に接する機会が減ったということだ。

******

なお、この映画そのものは……

モノクロで野外シーンは遠景が多い。この当時に海外ロケができるわけないから、北海道あたりで撮影したのだろうか。
騎馬シーンは、俳優たちがぎごちないが(スタントも使っているだろう)、まあ日本人の騎馬だと思えばかえってリアリティがある。

ストーリーの説明は略すが、今風のアクション映画を期待すると、完全に肩すかしになる。はでな撃ちあいや残酷シーンはまったくない。
ハリウッド式の、最後に山場があって主人公はみごと危機を脱出、という構成ではないのだ。

雪と寒さの描写は、やっぱりしょぼい。
監督・森一生、原作もちろん山中峯太郎。主要登場人物ばかりでなく、地元住民にもまったく女がいない、全員男だけの世界です。

宇月原晴明,『安徳天皇漂海記』,中央公論新社,2006

2008-01-18 18:06:44 | フィクション・ファンタジー

帯に〈書き下ろし歴史長篇〉とあって、そんなあ、これが歴史小説かい、と思ったものの、本書のような作品こそが正統派歴史小説となる日も近いかもしれない。いや、もうすでにそうなっているのか?

吾妻鏡と金槐和歌集をリミックスした第一部 東海漂泊―源実朝篇、ひょっとして、現在の歴史学からすると正統派に近い読みかもしれない。
作品中のあちこちにちりばめられたアナクロニズムを解きほぐす読みは、わたしには不能。
この場合のアナクロニズムというのは、当時の世界に住む人々が知りえなかった情報、認識できないアイディアを登場人物が見たり考えたりしている、という意味であるのだが、これを作者が読者に仕掛けたイタズラとしてニヤッとするか、こりゃ作者のケアレス・ミスではないか、とつっこみをいれながら読めれば読書の楽しみは倍増するだろう。残念ながらわたしにとって未知の領域で、おてあげだ。

第二部では、帯の文句のようにマルコ・ポーロを中心に、大モンゴル・ウルスと南宋遺臣軍の戦い、港市ザイトンの描写、さらなる南海への航海が描かれる。

作者が記しているように、小林秀雄『実朝』、太宰治『右大臣実朝』、澁澤龍彦『高丘親王航海記』、花田清輝『小説平家』の四作品を換骨奪還、自家薬籠中のものに変化させた作品である、ようだ。
うーん、残念ながら、これらも『高丘親王航海記』意外、読んだことないので、なんとも言えない、とほほ。

高丘親王については、南進論との関わりで20世紀前半にかなり注目された人物であるようだ。(宮崎市定も書いていたと記憶するが、今確認できず、失礼)
澁澤龍彦の年代では、常識として知られていた人物であるようだ。その時代の伝説を蘇らせながら、まったく異なるファンタジーに結晶させたのが『高丘親王航海記』であったのだが、本作品は、シブサワズ・チルドレンの一人のオマージュということ、でしょうね。

未読の方のために、詳しい結末は書かないが、わたしとしては、マレー半島やスマトラ、インド洋あたりまで話を広げてほしかったなあ。そういう意味で、潮盈玉(しおみつたま)・塩乾玉(しおひるたま)の使用法も不満だなあ。もっとスケールのでかいシーンで使ってほしかったのだが。

押川典昭 訳,プラムディヤ選集4・5,『すべての民族の子』,上下,めこん,1988

2007-12-27 23:01:58 | フィクション・ファンタジー

『足跡』の項で、全4部作の第2部で中断と書いたが、この第2部『すべての民族の子』も無事読了。
これで全4部を通読した。
みなさまがたは、ちゃんと、1部2部3部4部と順序よく読むように。
というか、それがあたりまえですね。

オランダ東インド政庁というのは、日本の江戸時代のような身分制社会だったと納得。
それを崩すには、フランス革命思想や自由民権、共和制という西洋伝来の魔法を導入しなければならなかった、というのも納得。

蒸気機関車や自転車というような、まがまがしく、人々を幻惑する魔法も同時に伝わる。


プラムディヤ,『ガラスの家』,コメント2

2007-12-18 20:10:53 | フィクション・ファンタジー

プラムディヤ・アナンタ・トゥール,『ガラスの家』の構造についてのコメントとして、〈ビッグ・ブラザー〉の訳語について。

オーウェルの『1984』(「一九八四年」"Nineteen Eighty-fore")の〈ビッグ・ブラザー〉の訳語についての話だが、山形浩生が書いてる記事があった。
cruel.org/jindex.html
≪オーウェル『一九八四年』をはじめた。やってみると、ビッグブラザーがカタカナなのがちょっとかんに障る。これは「兄貴」と訳すとか(あーっ!版)、「お兄さま」と訳すとか(萌え版)したいところだが、まあこれはいずれ。(2006/9/25) ≫

このジョークは、すでにアンソニー・バージェスの小説に原型があるのだが、山形浩生さんは、これを読んでいるのか?(あの人だから、読んでいそうだが……)

「お兄ちゃんが見てるぞー!」というと、なんか萌え系のセリフみたいだが、これはバージェスの小説中では、
Si-Abang Memandang Awak
というマレー語として登場する(小説の時代ですでにマレー語に翻訳されていたわけではないだろう)。マレー語のニュアンスでは、「お兄ちゃんが見てるぞー」にしかならない。独裁者のスローガン「ビッグ・ブラザー・イズ・ウォッチング・ユー」も、マレー語にするとこうなってしまう、というジョーク。(このバージェスの小説は、全編ブラック・ユーモアとパロディでマレー半島の架空の州を舞台に、独立直前のドタバタを描いたもの。)

マレー半島の架空の州の長官、スルタンに次ぐ位にあるアバンは、国中に自分のスローガンを載せたポスターが貼られる状況を夢見る。
しかし、彼の住民は、ポスターの意味を理解できないだろう。国民意識がない状態では、独裁者になる意味はない。スローガンは、マヌケな意味しかもたないだろう。

オーウェルが監視する側を人格のない無色透明の存在にしたことは、この作品『1984』を、なんにでも適用できる、普遍的な作品にする結果になった。そういう意味ではみごとだ。

一方、プラムディヤの『ガラスの家』は、監視する側を語り手にし、その葛藤を描く。
付録としてはさまれているしおりに、白石隆による「パンゲマナンとは誰か」という小文が載っている。
白石隆によれば、小説の時代である1910年代に、パンゲマナンのような存在、思想調査、政治警察のような組織は存在しなかったという。つまり、この『ガラスの家』のパンゲマナンという人格はフィクションである。ミンケの存在が早すぎた民族主義者であるように、パンゲマナンも早すぎる監視者である。

このように、フィクションとしての思想警察・政治警察のトップに、ミナハサ出身でフランスのソルボンヌ大学へ留学した〈混血児〉を設定した、というのがこの作品の視野をどーんと深く、広い世界へひろげる。
この監視者は、無人格の血の通っていない冷血漢ではない。単純な倫理主義者でも啓蒙主義を信奉する人物でもない。自身のコンプレックスを隠すため、暴力行為にはしるテロリストでもない。
それどころか、プリブミの覚醒を呼びかけるミンケを師とあおぐ。ミンケのまわりのイスラム同盟のプリブミや東インド協会のオランダ人よりもずっと深くミンケを理解する人間。
そのパンゲマナンは、開明的な政策を宣伝する東インド政庁の内部で、汚れた仕事を担う。
政庁にとって危険な民族主義、ジャーナリズム、労働運動を監視し、しかるべき手段を講ずるのが彼の任務である。

タイトル『ガラスの家』とは、植民地権力による監視の網、透明なガラスの中を示す。
植民地政庁の内部のパンゲマナンの上司たち、彼らはさまざまな意味でプリブミに理解を示すヨーロッパ人である。その中でパンゲマナンはひとり卑しい汚い仕事を受持つ。しかしまた、彼こそが一番パンゲマナンを理解しようとし尊敬している。内心の葛藤がこの第4部の焦点である。

******

バージェスの小説は邦訳なし。1956年から59年に発表された。
Anthony Burgess, The Long Day Wanes A Malayan Trilogy, Norton Paperbacks, 1992
『ザ・ロング・デイ・ウェインズ』というタイトルで、三作がひとつにまとまっている(まだ全部読んでいないので詳細はそのうちに)

プラムディヤ選集7『ガラスの家』へのコメント

2007-12-10 21:45:17 | フィクション・ファンタジー

前々項のオランダ解放百周年について、別のテーマから描かれる。

1913年、オランダ東インドでは、オランダ王国の解放百周年を祝う祝典が大々的に開催されることになる。100年前の解放とは、次のような次第である。

1811年、オランダはフランスの一部となり、皇帝ナポレオンの弟であったルイ・ボナパルトは併合を歓迎した。
東インドでは、フランス領となった植民地を狙うイギリス軍の侵攻にそなえ、原住民の犠牲のもと要塞と軍用道路が建設された。
総督ダーンダルスはナポレオンに召還されてロシア遠征へ加わる。
後任の総督ヤンセンスのときイギリス艦隊の攻撃があり、ジャワとスマトラはイギリス領となる。
1813年、ヨーロッパ諸国軍がナポレオンを倒すとオランダは〈フランスから解放された〉。その百周年が、1913年である。

以上が地の文で解説される。
これでは、つまり、オランダは、すすんでフランスに併合され、そのどさくさに東インドはイギリスに占領された、ということではないか。東インド総督ダーンダルスはみずからオランダ旗を下げ、ナポレオンに協力してロシア遠征へ。

植民地政庁の官僚であるフランス人R氏は、〈フランスからの解放〉というお祭り騒ぎに憤懣やるかたない。彼にすれば、ヨーロッパ文明を最初に作りあげたのがナポレオンである。
不満をぶちまけられた語り手パンゲマナンは、
「お国のフランスはオランダと東インドを支配した。わたしは、オランダ人として、原住民を支配する側に加わった。そしてオランダに追従した原住民として、同胞を監視することになった。これ以上なにか言うべきことがありますか。」(p289)

フランス人R氏の怒りは、御用新聞が煽る祝典のバカ騒ぎに向けられるべきだ。しかしR氏は、むしろ、祝典を批判する東インド党の新聞へ怒りの穂先をむける。
混乱している。

一方、パンゲマナンは、R氏を相手にした場合は混乱していない。
自分は、プリブミ(原住民)であり、植民地側の官僚になって、プリブミを監視する職務である。それだけだ。
しかし、ミナハサ生まれのカトリック、フランスに留学し妻もフランス人、息子たちをフランスに留学させている人間として、オランダ東インド政庁が〈フランスからの解放〉を祝うのは、文明化されたプリブミとして素直に納得できるものではないはずだ。

*****

『足跡』の中で、ミンケの母のセリフ。(p90 - 95)
「もし人間がみな同じ権利だとしたら、母親のわが子に対する権利はどうなるの」
「たしかにヨーロッパ人は、自分のことはなんでも自分で背負い込むものなのでしょう。でもあなたにはこの母がついているのに、そんな必要はありますか」
「フランス革命をそんなに信じてはなりません。あなた、その革命のうたい文句はなんだと言ったかしら。自由、平等、博愛? それがみな真実なら、このジャワにいるオランダ人の立場はどうなるのですか……」

『ガラスの家』で、パンゲマナンの自宅を訪れたR氏へ、子供たちが蓄音機でレコードをかけて聴かせる。
フランスで流行の歌を聞いてR氏は、
「パリ!人間がつくったものでパリほど美しいものはない!」
「そして、フランス人歌手の声ほど美しい声はない」
と感激する。
しかし、実は、この歌手は、第3部『足跡』で、一度ミンケと婚約した少女、フランス人傭兵とアチェ人女性の間に生まれた〈混血〉である。
フランスこそは、オランダ東インドと同様に多民族を武力で、あるいはもっと強力な文明の魅力と魔力で結びつけた国家である。

押川典昭 訳,プラムディヤ・アナンタ・トゥール,『ガラスの家』,めこん,2007
以上、断片的なコメント

押川典昭 訳,プラムディヤ選集7,『ガラスの家』,めこん,2007

2007-12-09 18:55:59 | フィクション・ファンタジー

無事読了。あいだ4日間ぐらいあいたが、正味15時間ぐらいで読んだ。

前々回の疑問は解けなかった。
小説は、アジビラでも論説でもない。膨大なテーマを飲みこんで読者に投げる。だからこの『ガラスの家』であつかわれるさまざまな問題も、作者が解答するものではなく、読者が考えるべきもの、というわけ。

めこんのサイトに、池澤夏樹・本橋哲也・高地薫(JICA専門家、この方知らない)森山幹弘(南山大学教授、この方も知らない、失礼)の書評が載っている。
うーむ、池澤夏樹さんや橋本哲也さんの書評では、あたりまえすぎて、ああそうですか、という感じ。
もっと全然ちがう方面からの、たとえば目黒考二さんとか、大森望さんとか、まったく違う方面からの批評がないものか!!

*****

1999年、プラムディヤがミシガンに行った時のインタビュー記事
www.umich.edu/~newsinfo/MT/99/Sum99/mt9j99.html

インタビュワーはミシガン大学のスタッフ(本作品の翻訳者が通訳)。
アメリカ合衆国で、どんな観点から読まれているかわかっておもしろい。

映画化のオファーがあったが、主人公をミンケではなく、アンネリースにして……という話だった。うーん、なにを考えているのだ。ノーベル賞候補といっても、この程度の理解なのかよ。
映画化はインドネシア国内の撮影が可能になれば簡単だろうが、ことばの問題をきちんとやってくれないと意味ないと思う。
つまりだ、この小説ほど、登場人物が○○語で言った、しゃべった、という断り書きが多い小説は、(わたしの狭い了見では)ほかにない。
登場人物が、何語で家族と語り、学校で学び、演説し、新聞を発行するか、というのが大きなテーマであるのに、これを全部ひとつの言語(たとえばインドネシア語)でやられたら、意味ない。しかし、そうすると、全編字幕入り、ということになる。これでは、一般観客をよべる映画にはならないよなあ。

*****

年表をみればあきらかなことでも気づかずにいること、その関連をおもいしらせてくれる小説だ。
ジェパラの乙女(実在のカルティニをモデルにする)は日露戦争の直前に死亡する。
カルティニによりもはるかに広い世界を知る美少女・安山梅(メイ)、上海のカトリック修道院で育った孤児であり、オランダ東インドに密入国したテロリスト、物語中では、主人公ミンケとイスラム式の婚姻をすませる。中国人女・メイは、
「ロシアも日本も、巨体を犯す梅毒=トレポネマ・パリズムのようなものよ。」と、看破する。
梅毒菌は、ちょうどこの時代、ドイツ人医師フリッツ・シャウディンとエーリッヒ・ホフマンが淋菌とは別の病原菌として同定していた。

中心人物ミンケは、海域華人世界のソン・イッセン(孫文)のように、医者の道から政治とジャーナリズムの世界へ身を投ずる。
海域華人世界からジャワにやってきたメイ(安山梅)は、英語世界を知る女テロリストだ。

一方で、ジャワ語は、外の世界から閉ざされた、自由なコミュニケーションを妨げる言語とみなされる(少なくとも第1部から第3部までの語り手のミンケの描き方からは)。世界に開かれていないことは当然として、オランダ語による支配を補填する、反啓蒙的で暗愚な支配層の言語。(しかし、それはミンケと母をつなぐ唯一の言語である。)

物語中で〈ジェパラの乙女〉と呼ばれるカルティニ。実在のカルティニと彼女をめぐる事件を忠実に描いているのか(つまり、フィクションが混ざっているのかいないのか)判断できないが、この〈ジェパラの乙女〉は、オランダ語の読み書きを学び、オランダ語を広い世界を知る窓として、文通による表現を開始する。
〈ジェパラの乙女〉が、オランダ東インドの枠の中でオランダ人の開明派(倫理政策派)に利用され、からめとられていく……と、小説は描いている。(この点は、わたしの勝手な判断ではないよね。)

以上のような事情が、インドネシア現代史の中で、言語の問題、言語政策がおおきな論点となる背景である。
外界のニュースを伝える新聞も、医学のような新技術も、オランダ語経由でしか伝わらない。ジャワ語は、礼節を重んじ、ワヤン劇の宇宙を語る言語、新時代に対応できない不自由な言語、と規定される。

こうした中、主人公ミンケは、マレー語(マライ語、その中でも教科書的マレー語ではなく、市場マレー語といわれる口語)の新聞を発行する。このへんは、当事の複数のジャーナリスト・政治指導者をモデルとしてストーリーにしているようだ。

では、オランダ支配体制を揺るがし、プリブミが主体となる政治・社会をつくるためには、ジャワ語を捨てるべきか。
オランダ領東インドの住民でも、ミンケの悩みは少数派である。
物語が進行する時代、つまり20世紀初頭に東インド政府軍に敗れたアチェーやバタック、ずっと前に支配下にはいったアンボンやミナハサの者たちにとっては、共通語としてマレー語を使うことは当然であり、ジャワ語にはなんの未練もないし拘束されていない。
一方でジャワ貴族層・商人層もジャワ語の使用を当然とかんがえている。

さらに、〈プリブミ〉という枠におさまらない者たち、〈アラブ人〉〈中国人〉は、〈プリブミ〉勢力に先立って組織をつくり、外の世界の動きを知り、東インド内で商業や教育の基盤をつくりはじめている。

そして、〈インド〉とよばれる、〈オランダ人〉と〈プリブミ〉の〈混血〉たち。
この、一番不安定な、プリブミには妬まれ、オランダ人に利用されて軽蔑されるものたち。

そして第4部『ガラスの家』の語り手は、プリブミでありながら、フランス人の家庭の養子になり、ソルボンヌに留学しヨーロッパ思想を体現した男。ミナハサ生まれでカトリック、フランス人の美しい妻を持つ男。

上記のスケッチは、この小説のごく一部であるので、この方面にテーマだけにこだわらないように!

土屋健治,「「原住民委員会」をめぐる諸問題」,1997

2007-12-09 11:17:12 | フィクション・ファンタジー

岡崎京子の「トーキョー・ガールズ・ブラボー」にこんなシーンがあったっけ。(現物が今手元にないので、記憶にたよる。)

主人公のアーパーな少女が東京の学校に転校してくる。転校第一日めの自己紹介で、「ショーライのユメはガイジンになることでーす!」と宣言する。
あほか……。

オランダ領東インドに生まれた少女・カルティニが、級友のオランダ人に「将来なにになりたい?」と訪ねられたとき、カルティニはそれまで感じたこたがないような混乱を感じた。
狼狽して家にかえったカルティニは、母親に級友の問いを告げたという。
母親は笑って、幼い子を抱きしめた。
幼い原住民のカルティニには「ガイジンになることでーす!」という考えは、まったくおもいもよらないことであった。その後カルティニは、オランダ語を通じ、啓蒙の時代の精神をいくのだが……。

彼女の死後、オランダ領東インドの原住民で、「ガイジンになったら」と考えた者がいた。

スワルディ・スルヤニングラット、彼は、
「もしも私がオランダ人であったら」というパンフレットを執筆した。

その結果どうなったか?
ジャワ人であるスワルディは、ジャワ追放、島流しの刑を宣告された。
あはは!どうして、ガイジンであったら、なんてアーパーな文を書いただけで島流しになったんだろう?

以下、
土屋健治,「「原住民委員会」をめぐる諸問題」,『東南アジア研究』15巻2号,1997年9月(http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/seas/15/2/150201.pdf)
に基づく。パンフレットの日本語訳もついているので、ここで要約しない。

スワルディが罰せられたのは、そのパンフレットの内容が違法だったからではない。
そうではなく、彼の執筆したパンフレットが、東インドの秩序と安寧を乱す、と見なされたためである。あくまで、内容ではなく、その結果の秩序の乱れを阻止しようという、植民地官僚の実務的な対応である。(と、土屋健治は分析している。)

植民地官僚たちは、原住民のスワルディに、このような高度な論説、「やつし」と「風刺」を駆使した文章が綴れるとは考えなかった。
おそらく、オランダ人混血の跳ね上がり分子であるデッケルの差し金、デッケルの論旨のオウム返しのコピーぐらいだろうと、考えた。
原住民にこのような高度な論旨と風刺が独創できるわけがない。これは、一部の悪質なオランダ人の影響をうけた原住民の猿真似であろう。

つまりこういうことだ。
カルティニの場合は、原住民の貴族の子が(それも女の子が)じょうずにオランダ語を綴り、すなおに西洋文明を賛美した、植民地政庁にとって安心できる存在だった。しかも、彼女は、旧弊な婚姻慣例の犠牲になり、こどもを生んだとたんに産褥で死亡する。ジャワの旧弊の犠牲者、西洋の文明の光を浴びたとたんに逝ってしまった不運な子、と宣伝され、解釈された。(こういう見方に対する批判は山のようにあり、土屋健治自身も『カルティニの風景』の中でも書いている。また、当事の状況はプラムディヤ『足跡』にくわしい。)

土屋健治は、スワルディの文章からジャワ伝統のワヤンに登場する道化の語りを読みとる。サントリ(クシャトリア階層)やバラモンを皮肉り、観客を笑わせ、ワヤン劇の神聖な構造をかっくんと骨抜きにする存在。
スワルディは、ジャワの伝統をオランダ語で表現した先駆的な知識人(グル)であり、道化であった。

しかし、オランダ植民地政庁は、内容を理解することなく、秩序を乱す存在として、実務的に処理して切り抜けようとした。

というのが、土屋健治の分析だ。

プラムディヤの『ガラスの家』では、この事件が描かれるが、「もしも私がオランダ人であったら」には言及されない。
そのかわり、別の面から、実務的に処理せざるをえないユーラシアンの官僚・パンゲマナンと、はらわたが煮えくりかえるような怒りを感じるフランス人官僚R氏を描いている。

押川典昭 訳,プラムディヤ選集6,『足跡』,追加

2007-12-01 18:43:21 | フィクション・ファンタジー

小説の内容に関する言及あり。
先入観なしに読みたい方は、以下、無視してください。

まだ、『ガラスの家』にとりかかってないので、その前に気になること。
ひょっとして、第4部で追求されているのかもしれないが……

ミンケをめぐる三、四人の女性について。
第1部から3部まで、語り手であり中心人物であるミンケは三人の女性と結婚する。
最初が、絶世の混血美少女・アンネリース
つぎが、上海で育ち東インドへ秘密結社の活動のため上陸した、これも美貌の梅(メイ)。
三人目が、カシルタ島(マルク)から父王と共に流刑中の〈プリンセス〉。

リアリズム小説(といっていいか?)にあるまじき(?)美少女・美女の連続。
それ以外に、フランス人画家にして東インド政府軍の傭兵であったジャンとその敵であるアチェ人女性の間に生まれたメイサロとは一時婚約。
〈インド〉(東インド生まれのユーラシアン)弁護士の妻・オランダ女性のミルとの間で***。

第一部から三部まで登場するニャイ・オントロソ、この女性は主要登場人物の中で、もっとも精彩をはなつ人物で、ジャワ人である。この女性のみジャワ人。あとは、みんなジャワ人ではない。

おっと、最重要人物(?)を忘れていた。語り手のミンケの母。ジャワ女性の典型のような、いや、典型そのものである女性だ。

この母、その母の期待を裏切り続ける息子、息子の妻たちは、みなジャワの伝統のかけらもない異人である。
物語は、母のとまどいと悩みを無視して進行するのだが。このことは、小説のテーマとして、第4部で扱われるのか、それとも、無視して進行するのか??

というわけで、第4部へ!