東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

押川典昭 訳,プラムディヤ選集7,『ガラスの家』,めこん,2007

2007-12-09 18:55:59 | フィクション・ファンタジー

無事読了。あいだ4日間ぐらいあいたが、正味15時間ぐらいで読んだ。

前々回の疑問は解けなかった。
小説は、アジビラでも論説でもない。膨大なテーマを飲みこんで読者に投げる。だからこの『ガラスの家』であつかわれるさまざまな問題も、作者が解答するものではなく、読者が考えるべきもの、というわけ。

めこんのサイトに、池澤夏樹・本橋哲也・高地薫(JICA専門家、この方知らない)森山幹弘(南山大学教授、この方も知らない、失礼)の書評が載っている。
うーむ、池澤夏樹さんや橋本哲也さんの書評では、あたりまえすぎて、ああそうですか、という感じ。
もっと全然ちがう方面からの、たとえば目黒考二さんとか、大森望さんとか、まったく違う方面からの批評がないものか!!

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1999年、プラムディヤがミシガンに行った時のインタビュー記事
www.umich.edu/~newsinfo/MT/99/Sum99/mt9j99.html

インタビュワーはミシガン大学のスタッフ(本作品の翻訳者が通訳)。
アメリカ合衆国で、どんな観点から読まれているかわかっておもしろい。

映画化のオファーがあったが、主人公をミンケではなく、アンネリースにして……という話だった。うーん、なにを考えているのだ。ノーベル賞候補といっても、この程度の理解なのかよ。
映画化はインドネシア国内の撮影が可能になれば簡単だろうが、ことばの問題をきちんとやってくれないと意味ないと思う。
つまりだ、この小説ほど、登場人物が○○語で言った、しゃべった、という断り書きが多い小説は、(わたしの狭い了見では)ほかにない。
登場人物が、何語で家族と語り、学校で学び、演説し、新聞を発行するか、というのが大きなテーマであるのに、これを全部ひとつの言語(たとえばインドネシア語)でやられたら、意味ない。しかし、そうすると、全編字幕入り、ということになる。これでは、一般観客をよべる映画にはならないよなあ。

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年表をみればあきらかなことでも気づかずにいること、その関連をおもいしらせてくれる小説だ。
ジェパラの乙女(実在のカルティニをモデルにする)は日露戦争の直前に死亡する。
カルティニによりもはるかに広い世界を知る美少女・安山梅(メイ)、上海のカトリック修道院で育った孤児であり、オランダ東インドに密入国したテロリスト、物語中では、主人公ミンケとイスラム式の婚姻をすませる。中国人女・メイは、
「ロシアも日本も、巨体を犯す梅毒=トレポネマ・パリズムのようなものよ。」と、看破する。
梅毒菌は、ちょうどこの時代、ドイツ人医師フリッツ・シャウディンとエーリッヒ・ホフマンが淋菌とは別の病原菌として同定していた。

中心人物ミンケは、海域華人世界のソン・イッセン(孫文)のように、医者の道から政治とジャーナリズムの世界へ身を投ずる。
海域華人世界からジャワにやってきたメイ(安山梅)は、英語世界を知る女テロリストだ。

一方で、ジャワ語は、外の世界から閉ざされた、自由なコミュニケーションを妨げる言語とみなされる(少なくとも第1部から第3部までの語り手のミンケの描き方からは)。世界に開かれていないことは当然として、オランダ語による支配を補填する、反啓蒙的で暗愚な支配層の言語。(しかし、それはミンケと母をつなぐ唯一の言語である。)

物語中で〈ジェパラの乙女〉と呼ばれるカルティニ。実在のカルティニと彼女をめぐる事件を忠実に描いているのか(つまり、フィクションが混ざっているのかいないのか)判断できないが、この〈ジェパラの乙女〉は、オランダ語の読み書きを学び、オランダ語を広い世界を知る窓として、文通による表現を開始する。
〈ジェパラの乙女〉が、オランダ東インドの枠の中でオランダ人の開明派(倫理政策派)に利用され、からめとられていく……と、小説は描いている。(この点は、わたしの勝手な判断ではないよね。)

以上のような事情が、インドネシア現代史の中で、言語の問題、言語政策がおおきな論点となる背景である。
外界のニュースを伝える新聞も、医学のような新技術も、オランダ語経由でしか伝わらない。ジャワ語は、礼節を重んじ、ワヤン劇の宇宙を語る言語、新時代に対応できない不自由な言語、と規定される。

こうした中、主人公ミンケは、マレー語(マライ語、その中でも教科書的マレー語ではなく、市場マレー語といわれる口語)の新聞を発行する。このへんは、当事の複数のジャーナリスト・政治指導者をモデルとしてストーリーにしているようだ。

では、オランダ支配体制を揺るがし、プリブミが主体となる政治・社会をつくるためには、ジャワ語を捨てるべきか。
オランダ領東インドの住民でも、ミンケの悩みは少数派である。
物語が進行する時代、つまり20世紀初頭に東インド政府軍に敗れたアチェーやバタック、ずっと前に支配下にはいったアンボンやミナハサの者たちにとっては、共通語としてマレー語を使うことは当然であり、ジャワ語にはなんの未練もないし拘束されていない。
一方でジャワ貴族層・商人層もジャワ語の使用を当然とかんがえている。

さらに、〈プリブミ〉という枠におさまらない者たち、〈アラブ人〉〈中国人〉は、〈プリブミ〉勢力に先立って組織をつくり、外の世界の動きを知り、東インド内で商業や教育の基盤をつくりはじめている。

そして、〈インド〉とよばれる、〈オランダ人〉と〈プリブミ〉の〈混血〉たち。
この、一番不安定な、プリブミには妬まれ、オランダ人に利用されて軽蔑されるものたち。

そして第4部『ガラスの家』の語り手は、プリブミでありながら、フランス人の家庭の養子になり、ソルボンヌに留学しヨーロッパ思想を体現した男。ミナハサ生まれでカトリック、フランス人の美しい妻を持つ男。

上記のスケッチは、この小説のごく一部であるので、この方面にテーマだけにこだわらないように!


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