東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

村井吉敬,『スンダ生活誌』,日本放送出版協会,1978

2012-12-02 16:06:57 | フィールド・ワーカーたちの物語

NHKブックスの一冊。

1975年1月から約2年バンドンに滞在した記録。ちなみに、妻といっしょの滞在と書かれているが、その妻が内海愛子という女性だということは、いっさい書かれていない。わたしはずっと、この村井吉敬と内海愛子という人はどういう関係なのかと疑心暗鬼だったのだが、たんなる夫婦であります。ちゃんと書いてくれればいいのに。

さて、その暮らしであるが、大家の婆さんとのトラブル、家政婦とのトラブル、窮屈な人間関係、寄付や物乞いや賄賂や意味不明に要求される金銭の問題が著者を悩ませる。留学生として入学した大学でも、わけのわからない金を要求される。これが異国で暮らすことなのか。たいへんな生活である。

本書を読んで、インドネシアでベチャと値段交渉するなど不可能だと思った。彼らベチャ引きは、日本人の百分の一ぐらいの現金で生活しているのである。反失業状態の彼らにとって、時間は無限にある。仲間うちでの束縛と助け合いの慣習ががっちり彼らを縛っている。同郷や同業の仲間の掟をまもらずに、外国人を安く乗せることなどできない。10分ほどで行けるところに、30分でも1時間でも交渉する余裕がむこうにはあるのだ。急ぐときにベチャなど乗ってはいられない。では、最初から、えーい持ってけドロボーと高額の金額を提示したらどうなるか。やっぱり彼らはさらにふっかけるだろう。やはり30分でも1時間でもねばるのである。充分高額な言い値だから納得するだろうというのは、こちらの勘違いであって、持てるものからは、よりいっそうふんだくらなくてはならない。

だからいつまでたっても金がないのだ、もっと合理的に考えられないのか、と腹をたてたくなる。腹をたてるのももっともだが、彼らに、経済的な合理性を求める根拠がわれわれにあるか?そして、合理的に勤勉に競争原理で働いたら、彼らは豊かになるか?そんなことは、ありえない。

と、著書が書いているわけではない。

著者はぎりぎりの生活をしている農民や農村からはみでた半失業者の現実を描いているわけだが、解決の道はとうていみつからない、絶望的な状態である。読んでいて暗い気持ちになる。

著者は日本製のオートバイの普及にあまり良い印象をもっていないようだが、本書を読むと、インドネシアの比較的裕福(といっても、日本の基準からみてかなり低い所得の層)が、オートバイに憧れるのも理解できる。公共交通が機能せず、インフラの不足を自前で補わなくてはならない層にとって、オートバイは素晴らしい資本財だろう。おまけにかっこいい。著者には、どうも、このカッコよさに憧れる欲求不満の若者の心情が理解できないところがあるように思える。いや、本書全体の欠点ではないけれど。


藤原新也,『全東洋街道』,集英社,1981

2012-12-02 16:06:08 | 旅行記100冊レヴュー(予定)

初出 PLAYBOY日本版 1980年7月号から81年6月号。

文庫 集英社文庫1982 上下2巻。

装幀 杉浦康平。目次の反転した(地球の内部から見上げたような、しかも南を上にした)地図がすごい発想(装幀者の発想ではなく著者の発想)。

1980年2月4日から81年3月12日まで402日間の旅

イスタンブール 冬海峡/アンカラ 羊の腸のスープ/地中海アンカラ 薔薇の日々/黒海 夢海航路/シリア・イラン・パキスタン イスラム思索行/カルカッタ 東洋のジャズが聴こえる/チベット 深山(みやま)/ビルマ 金色の催眠術/チェンマイ 草の娼楼/上海 神なきカテドラル/香港 満月の海の丸い豚/朝鮮半島 紅の花、黒い雪/高野山・東京 旅やがて思想なり

毎日芸術賞受賞の作品であるが、芸術のわからないわたしから見ると、何が写ってるのかわからない写真多し。文章と写真が関係ない、つまり、写真がなくとも成立するんではないか?と思える写真集である。芸術写真のわからないアホの見方だと笑ってくれ。

よくもわるくも、ある種の方向付けを示した、画期的ともいえる作品ではあるのでしょう。

暗い景色、ブレた写真。雪と雨、暗い室内。酔っぱらい、娼婦、乞食、僧侶、市場。著者の文章には、おめでたい繁栄に酔う日本人への呪詛のような言葉がほとばしる。このあと、さらにバブルのお祭り騒ぎが始まるとは、著者も予想していなかったろう。

一読の価値あり。

10年前だったら、読むのはいいけどマネをしないでください、と注意書きをつける必要があったかもしれないが、今じゃマネをしようとする若い者はいないかな……。


吉川公雄,『サバ紀行』,中公新書,1979

2012-07-07 18:59:26 | 旅行記100冊レヴュー(予定)

大阪市立大学東南アジア学術調査隊の第一次で梅棹忠夫・石井米雄といっしょにカンボジア・ベトナム・ラオスを調査した人である。専門は昆虫学、医学博士でもある。

その大阪市立大学東南アジア学術調査隊の第三次、第四次の記録が本書。発行は1979年であるが、調査は

第三次が1964~65

第四次が1966~67

書名が誤解をまねくが、マレーシア半島部、サバ、サラワク、ブルネイも含めた記録である。

第三次調査隊はカンボジアをめざしたが、南ベトナムとカンボジアの国境紛争で調査は許可がおりず、マレーシアへ転進することになる。その過程とマレーシアでの予備調査が本書の前半である。

1964年、65年というのはすごい時代であった。64年トンキン湾事件、65年アメリカ直接介入となるのだが、カンボジア(シハヌーク王の王国である)は北ベトナムを支持、それが南ベトナムとの紛争となる。一方、インドネシアとマレーシアの関係が悪化、一時国交断絶となる。その後、65年にはインドネシア九月三十日事件、シンガポール分離独立、という時代である。

そういう時代のマレーシアであるから、数名の商社マン以外日本人はおらず、ほとんどまったく情報がない時代である。著者を含めた研究者は英語の学術書が頼りであるが、その入手もむずかしい時代なのである。写真もなし地図もなし、もちろん映像やカラー写真などない。旅行記は戦中の堺誠一郎、里村欣三のものぐらい。もちろんまだ文庫化されていない。五里霧中の状態で、たまたま入国可能になったマレーシアで予備調査するのが第三次の記録である。

とっても親切(おせっかいな?)マレーシア人に案内されて動きまわり、人脈が不思議なほどつながる。ちなみに、ブミプトラ政策などまだない時代であって、インド系もマレー系も華人もみんな親切で日本人を歓迎する。みんな西洋化されている。西洋化されていない著者たちは四苦八苦。

後半は書名どおり第四次のサバ調査で、キナバル山登山、ラナウ高原地区、セピロック保護地区、サンダカン、内陸行政区(ケニンガウを中心とする)。キナバタンガン川流域調査は涙をのんで断念。

書かれている内容自体は、今現在読むと、あまりにもあたりまえのことが多いように感じるが、当時はまったく情報がない地域なのである。当時の調査研究を知るため、マレーシアの状況を知るために一読の価値あり。

 


遠藤秀紀,『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』,光文社新書,2010

2012-06-12 22:42:00 | 自然・生態・風土

読みやすく、たいへん参考になった。ただし、書名が意味不明で、ニワトリの進化の性選択の話かと思っていた。家禽としてのニワトリの話です。

興味をもったのは以下の三点。

1.ニワトリの先祖であるセキショクヤケイの分布

2.セキショクヤケイを家畜化(家禽化)するにあたって、人類の意志、興味をあつかったところ。「こころのエネルギー」と著者が名付けた家畜化への動機。

3.東南アジアから世界各地への伝播。さらにヨーロッパ品種のアジアへの伝播について。

1.について。セキショクヤケイは地質学的にみてスンダ陸棚海の周辺に分布する。(ただしボルネオにはいない。)家畜化の中心域もこのへんであると推定される。バナナやサトウキビとともに、大陸部東南アジアで栽培化された生物なのである。タイ・ラオス・ベトナムあたりが核心域とみられる。(遺伝学・考古学の詳しい解説あり。)

2.そして本書でセキショクヤケイがいかに家畜化に適さない鳥であるのかが論じられる。食用の家禽として数々の難点があるのに、なぜ、人間はこんなめんどくさい鳥を飼いだしたのか?

この論点について、著者は、食肉としての効率やタマゴの数ではなく、闘鶏用が起源だという推測を述べる。そして、さらに、家畜化の初期には、実用性や効率性よりも、おもしろさ、楽しさ、飼う苦労がモチベーションになるのではにかと推測している。(大雑把なまとめなので、直接本にあたってくれ。)

もちろん、占いや生贄としての起源もあったと推測される。家畜の起源はすべて宗教的な要素があって、宗教的な動機が起源である推定するのは、なにも説明したことにならない、という批判もあるそうだ。

東南アジアでは、よい声で鳴く鳥を飼う文化と姿かたちの珍しい鳥を飼う文化の両方があるが、闘鶏というのは気がつかなかった。ちなみに、闘鶏は世界中にあるらしいが、フィリピンの闘鶏はラテンアメリカ経由のヨーロッパ的な闘鶏であるそうだ。

それから東南アジアのいなかに行くと、いろんな種類のニワトリのほか、ウズラや七面鳥などが飼われている。あんなにいろんな種類のトリを飼うのは実用というより趣味ではないかと思ったことがある。タマゴなどもウコッケイのような青みを帯びた殻のタマゴなどいろんな色がある。(青みを帯びているから値段が高いわけではないようだ。)

やはり、実用性や効率性よりも、ネコやペットを飼うような趣味性があるのではないか、と思っていたのだ。本書によれば、ニワトリ愛好家には、声のよさを愛でるもの、姿かたちのヘンテコな品種を交配する楽しみもあるのだそうだ。

3.全世界への伝播について。

ニワトリ文化について多方面の民俗学的・食品化学的・解剖学的・考古学的なトピックが満載だが、航海用の食料として世界中の品種が伝播したのではないかという可能性は述べられていない。

p220に日本の長尾鶏が西洋でyokohama,と呼ばれるのは白人のきまぐれ、と述べられているが、本書に登場するニワトリの品種名はほとんど港の名前ではないのでしょうか?ロードアイランドやミノルカ、プリマスロックなど。コーチンもマレーも当然、地域の名というより港や海域の名前だろう。このへん、もっとつっこんでほしかった。

ともかく、バードウォッチングやバードイーティングの手引きとしてひじょうに参考になる本であった。


中村とうよう 死去

2011-07-22 17:27:39 | その他;雑文やメモ

自殺だそうだ。うーん。ショックといえばショックだが、とうようさんらしいと言えば言えなくもないな。あの人は、完全に宗教を否定していた理性の人だから、天国にも地獄にもいかず、ニルヴァーナにも至らず、もちろん冥土で迷うこともなく、たんなる物質として自然界に還元されるであろう。

 

とうようさんについては、影響を受けた人がそれこそ万単位でいるだろうが、インターネット上には、あんまりきちんと反映されてないみたいだ。活字や(そういえば、ミュージック・マガジンは、かなり遅れてオフセットに移行した雑誌だった)雑誌やラジオという、20世紀特有のメディアに慣れ親しんだ老人層が影響を受けた人物なんだろうね。わたしもそのひとりであるが。

そして、とうようさんが紹介し、アジり、ひろめたポピュラー・ミュージックも、20世紀特有のメディアにのった文化だったのだ。

とうようさんが、自嘲気味に、あるいは悲観的に、あるいは挑発的に書いた、〈ポピュラー・ミュージックは21世紀に滅びる〉という予言も、10年、20年前は「そりゃ、とうようさん、あんたが好きな音楽がなくなるだけでしょ?」と思ったりもしたが、ジャンルや形式に関係なく、〈ポピュラー・ミュージック〉という枠組み自体が滅びるような気がする。

われわれ、とうようさんより20歳ぐらい下の世代の幸運は、中村とうようという知性を日本に持ったこと。不幸は、中村ようとうに匹敵する音楽を語る知性が、中村ようとう以外いなかったことだ。

中村とうようがほんとうに好きだった音楽は、知的な想像力を必要とする音楽でもなく、中産階級の消費財ではない。文化人類学的な知的好奇心を刺激する音楽でもない。

そうではなく、港町の半失業者や、プランテーションの半失業者や、あやしげな商売女やピンプや麻薬中毒の低学歴失業者が、ありあまるほど暇で欲求不満の日常に聞く娯楽音楽だった。

しかし、その魅力を、日本に住む若者に伝えるには、知的な語り、歴史的バックグラウンドを語る必要があったのだと思う。

そこに、彼・中村とうようのいらだちがあったと思う。

音楽はブテッィクで買ってくるようなもんじゃないんだ!スノッブな半可通のものじゃないんだ!と叫んでも、若いもんたち(つまりわれわれの世代)は、やはり知的好奇心を刺激するもの、あさはかなファッションにもひかれるのである。

そして、日本の音楽ジャーナリズムの中で、孤高の存在であり続けた。もうひとりやふたり、中村とうようクラスの論者がいればよかったけれど。知性を持った人たちは、大衆音楽を聞くような暇はないのだろうね。

***

あらゆる方面で論争をした人であるが、じっさいは温厚であるという話もある。じっさいに見たことがないので、ほんとうのところはわからないが、湯川れい子さんや亀渕昭信さんのような、音楽の趣味ではあんまり接点なないような人でも、現実生活では、けっこうつきあっていたようである。ジャズファンの間で悪名高いスイングジャーナル元編集長の岩浪洋三氏などとも会えば話ぐらいするあいだがらだったようだ。

数々の論争やケンカの中で、わたしが記憶しているものに次のようなことがある。

ちょうどサルサがニュー・ミュージック・マガジンでプッシュされていたころの話だ。

イラストレイターの河村要助さんや『ザ・ブルース』周辺の人たちが、ニューヨーク・ラテンの世界を描いたドキュメンタリー映画『アウア・ラテン・シング』をさかんに評価した。この映画こそ、アメリカ合衆国に暮らすラテン系の生活を活写したものだ、というふうに持ち上げた。

それに対し中村とうようは、以下のように、へそ曲がりな論評をした。

アメリアに住むカリブ海やラテン文化圏からの移民の生活感情、リアルな心情なんてものは、おれは、レコードを聴いただけでわかった。

音楽の力こそが、彼らの生活・心情・アメリカ合衆国に住む現実を如実に表現しているではないか。

映像の力に頼る必要はない。おれが音楽評論という仕事をしているのも、音楽こそが民衆の感情・生活感覚をいちばん確かに伝えるものだからだ。『アウア・ラテン・シング』を見て、ラテン・ピープルの実態がわかったなんていうのは、音楽から何を聴いていたんだ?

というような調子だったと思う。記憶さだかでないが。

こういう具合に、なんにでもいちゃもんつけていたけれど、やはり正しかったのだよね。

いや、それにしても、何でもおれが一番最初だったんだ!というような、ある種パンクな意地を張る人だったねえ。そこが好きだったんだけど。

***

北中正和さんあたりが、伝記を書いてほしいね。中村とうようと敵対もせず、腰巾着でもなく、ちゃんとした文章を書ける人は、北中さんぐらいしかいないだろうな。

出版社は平凡社だな。





布野修司,『カンポンの世界』,PARCO出版,1991

2010-09-25 19:24:16 | コスモポリス
建築研究者によるインドネシア、スラバヤのフィールドワーク。学術論文は、

布野修司,「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究――ハウジング・システムに関する方法論的考察」,1986

本書はその調査過程から論文の中身まで一般向けに書いたもの。といっても住居、建築や都市計画に関した部分は後半三分の一だけ。前半はスラバヤのカンポンの住民の生活、都市スラバヤの歴史、ジャワ文化の文脈からカンポンの分析など建築学プロパーをはみだした本である。
つまり〈カンポンの住民の生活宇宙を描き出すことをテーマ〉にした本。

それではカンポンというのは何かというと、いわゆる都市のスラムである。
著者はインドネシアの研究者らとともに、カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)という再開発プログラムの分析をおこなう。住民の相互扶助・自治によってある種の秩序が保たれていたカンポンを、行政の介入に再開発したわけであるが、強権的な押し付けではなく、住民の慣習とのおりあいで、批判もあるものの一応成功したプログラムとみる。

ちなみにKIPはイスラム圏のすぐれた建築を表彰するアガ・カーン賞を受賞している。そのアガ・カーン賞の審査委員である日本の高名な建築家が受賞に反対したそうだが、この高名な建築家って誰なのだ?(ウェブで調べたが不明)

ともかく、著者のみかたは、KIPの成果を肯定的にとらえるとか批判するとかではなく、カンポンの世界を肯定的にとらえ、その住民を理解しようという地域研究のみかたである。
東南アジアの都市について書かれたものでは、バンコク・マニラ・ジャカルタ・シンガポールなど巨大首都についてはけっこう多いし、ハノイやスラカルタやマラッカなど歴史の長い都市についてはそれなりの文献があるが、このスラバヤについての書籍・研究はひじょうに少ない。
戦前はオランダ領東インドで最大の都市であり、クジャウエン(=ジャワらしさ)の中心地であるスラバヤを知るのに最適な著作である。

**********

で、本書の底流となっているのが、西洋の学者が〈インヴォリューション〉、〈貧困の共有〉としてとらえたジャワの風土の都市を、肯定的にクジャウエン=ジャワらしさとして理解しようとする姿勢である。
スクオッター(不法占拠地域)やスラムではなく、人々の相互扶助・スラマタン(安寧)の慣行を維持し、多民族が共生し、さまざまな家内工業もあり、人の移動もあるいきいきとした社会として描いている。

わたし自身は日本の読者として、このようなひとつの狭い家に複数の家族が間借りしたり、血縁の者や同じ村から来た者が共同でくらす、ということをかろうじてイメージできる最後の世代かもしれない。
そして、やはり読んでいて、息苦しく堅苦しい親密な社会だなあと思わざるをえない。こんな世界から逃げてもっと風通しのいい世界に住みたいと、若いものなら激しく思うのではないだろうか。しかし貧しいものはお互いに助け合い、依存しあって暮らさざるをえない。
ルクンという価値について、簡潔に書かれているが、

〈感情的な軋轢を避け、妥協を通じて、たとえ見せかけであっても満場一致の問題解決に達するほうが理想とされる。意見や感情のあからさまな対立がない場合、集団はルクンの状態にある。〉というものである。

ゴトン・ロヨンという相互扶助活動はデサ共同体(農村)では、

村人の死、不幸に際しておこなわれるもの
感慨水路の改造、モスクやランガーの建設修理
婚礼や割礼の際の祝宴
先祖の墓の掃除や世話
屋根の修理や井戸掘り
農作業
溝清掃や橋などの修復

が含まれるが、都市のカンポンでも農作業以外は現在でもおこなわれている。

グローバリゼーションが吹き荒れる現在、市場経済に依存しない自治的共同体の生活、ひとびとがお互いに助けあう世界、貧しくとも心が豊かな生活(昭和三十年代的?)として、無責任に賞賛されるパターンそのものじゃないか。
みんな、こんな生活がいやでいやでたまらないから、グローバリゼーションの掲げる自由な世界に憧れ、そして、むざむざと市場経済の餌食になってしまうのである。

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以上、ちょっと横道にそれた感想を書いたが、スラバヤの生活を描いた本として、インドネシアの都市の歴史として、ばつぐんにおもしろい。
地図・イラスト・写真も豊富、〈PARCO PICTURE BACKS〉というシリーズの一冊であるが、オシャレな本ではなく学術的にしっかりした本である。
参考文献が注のかたちでびっしり載っている。インドネシア語を中心とした索引(五十音順カタカナにローマ字綴り付き)あり。

なかがわ みどり・ムラマツ エリコ,『ベトナムぐるぐる。』,JTB,1998

2010-09-18 22:43:24 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
文庫は角川文庫,2005 (加筆があるようだが未見)

イラストや絵本、キャラクターグッズのデザインを共同でやっている女性2名による旅行記。書き下ろし。著者たちのサイトは

http://rose.ruru.ne.jp/kmp/

1997年暮から98年のテトにかけての長期旅行ながら、前作『エジプトがすきだから。』より旅行期間は短いのだそうだ。

マンガ風イラストと細かい文字と写真を組み合わせたタイプの旅行本で、同じような体裁のものが続々と出版されているが、本書は高品質の部類。最後に著者たちの旅行中の記録やメモが載っているが、本文の脱力&きままなムードとは違ってかなり几帳面に記録をとっている。ちなみに、この頃はデジカメではなくフィルム写真だろうが、写真を撮るのが目的ではない旅ではきれいな写真を残すのはむずかしいことがわかる。光源が弱い写真やぶれた写真が多い。

最後の「あとがきのじかん。」に、〈ベトナムについては他の本がいっぱいでていて、今さらガイドブック的なこと入れる必要もなかったから、思い切り自分たちの旅や、体験したことをかけったかな。〉という発言がある。え?1998年だと、まだまだベトナムに関する本って少なかったような気がするが。
ともかく、ベトナム自体の変化がはやいのと、旅行書のブームの変化がはやいのがあわさって、本書の記載が当時どれほど新鮮でめずらしいのか、もはや把握できないほどである。

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著者たちとほぼ同じ頃に短期の旅行をしたことがあるが、ふむふむそうだそうだと頷く点も、ちょっと違うだろと思う点、両方ある。

たとえば、p28-29 に載っている安宿の写真だが、知らない人がみると、ずいぶんぜいたくなホテルに泊まっているように見えないだろうか。ベトナムは基本的設備や建付けが悪いわりに写真に撮ると豪華にみえる宿がけっこう多いのである。
あるいは、p-100-102 の食べ物の写真。ふつうのスナップ写真では、うまいものもまずいものも、安いものも豪華なものも、ほとんど判別できない。

暑さにかんしては、わたしは雨季にしか旅行したことがないので、暑いと思ったことはない。著者たちはそうとう暑かったようで、午後は宿のクーラーで涼むという行動パターンであったようだが、雨季はクーラーなんてほとんどいらなかった。

**********

著者たちが旅行した当時から、ボラれる、シクロは怖い、バイクびゅんびゅん、というのがベトナム旅行のイメージだったのだろうか?

わたし自身の感想としては、ボラれる、というのは東南アジアにかぎらずどこにでもある習慣だとおもう。ご近所の人がカフェでコーヒーを一杯飲む値段とよそ者が飲む値段がちがうのはあたりまえなのだ。ご近所でなくても、怖いヤクザもんや、うるさい政府関係者なら、ご近所値段以下あるいはタダでサービスするのではないだろうか。

ヤクザ者でもなく党関係者でも公安でもない旅行者ならボッタくられるのは当然のような気がする。
たんなる旅行者としては、ヤクザ者や公安料金ではなく、多少ボッタくられるのもがまんすべきではないだろうか。普通の人として扱われているのだから。

ボッタクリ以上にすさまじいのが、海外からの観光客向けのツアーである。とくに、日本語ガイド付ツアーになると信じられないような価格である。
ちょっとバイクの運ちゃんにチップをはずんで10USドルぐらいで済むものが、10倍20倍あるいは50倍の値段になっている。
わたしのような旅行者が数日でばらまく金額だって、都市生活の家族が一か月に使う金に相当するだろうに、日本語ガイド付ツアーなんてのは彼らの年収に相当する金額を一日で使うのである。
ふつうのベトナム人にとってこんな観光客は、非現実的な富をかかえてやってくる宝船のようなものだ。

タイやマレーシアなら、むかしから日本以上に市場経済・異文化移入の波をかぶっているが、鎖国のような状態が続いたベトナムでは大金を持った観光客がおしよせるのはほとんどの人にとって初めての体験だろう。
農村のがんじがらめの習慣にしばられ、外国人に対して疑心暗鬼だったベトナム人がよそ者からボッタくる千歳一隅のチャンスなのだ。

もうすこししたら、ボッタクリもなくなって、なんだかベトナムに来た気がしないなあ、てな感じになるかもしれない。

金井重,『シゲさんの地球ほいほい見聞録』,山と渓谷社,1991

2010-09-14 20:46:40 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
改題して
『年金風来坊シゲさんの地球ほいほい見聞録』,中公文庫,2000

年くってから長期海外旅行をしたいと思っている方は必読。
蔵前仁一さんや下川裕治さんのバックパッカー旅行記も楽しいが、彼らは若いときから出かけたベテランだから、あまり真剣に参考にしないほうがいいように思う。

さて、著者のようなひとり旅の長期海外歩きが誰でもできるか?著者はドジで他人の世話になりっぱなしの旅行のように書いているが、行間を読むとかなりむずかしいのがわかる。

1927年生まれで1980年で退職。世間の人間関係から逃れ自分のすきなことをやるためにまずアメリカに向かう。そこから、メキシコへ向かい、スペイン語を勉強し、南下してブラジルまで足をのばす。だいたい、スペイン語を勉強しようという意欲自体ない人も多いのである。著者は外国語がダメなどと書いているが、字面どおりに受けとらないように。
バックパッカーにとって難関の南米をすいすい歩いてしまったように書いてあるが、そうとうに体力もスキルもある人である。

この1920年代生まれの人たちというのは、丈夫な人とひ弱な人の差が激しいように思う。健康な人は30代40代に負けないくらいに丈夫。人生の辛酸をなめ、社会の荒波にもまれているので、ひ弱な若者には耐えられないことも耐えられる。

一方、日本社会に順応しすぎたひとは、海外旅行などまったくダメである。上下の身分、職種、学歴、男女の別、世間体などに凝り固まっている人は、海外の人にコミュニケートできないし、日本人の若い人とも話ができない。自分のスキルが低いのに要求だけ大きいので周りからきらわれる。

著者・シゲさんの場合は組織の中でまじめに労働する一方で、組織以外の場で行きぬく力も養っていたように思える。
それになんといっても丈夫で体力がある人だ。アンナプルナ・ベースキャンプまで行ってしまうのである。

というわけで、くれぐれも本書のような旅がかんたんにできると誤解しないように。情報収集もしっかりやっているし、怪我や病気の対策もちゃんとやっている。ネパールで骨折したり、タイでパスポート・TC・航空券を盗まれたエピソードがあるが、こういう事態にも対処できる人なのである。

見習うべきところは、飽くなき好奇心と、日本の堅苦しい世間からはなれたいという強固な意志である。それに、この方、独身だ……。世話すべき家族はいないようだし、旅行に反対する家族もいないようだし。

平岩道夫,『東南アジアひとりある記 : 韓国からシンガポールまで 』,白陵社,1969

2010-09-12 21:19:05 | 実用ガイド・虚用ガイド
『平岩父娘のアフリカとっておき : ケニア・タンザニア訪問一〇〇回記念・傑作写真集 』『香港・マカオ・台北の旅』『ローマレストラン・ショッピング案内』『趣味の切手ハンドブック : 集め方から鑑賞まで 』『韓国・台湾・香港男の旅』
など多数の著作をもつ方。
同姓同名かなと思ったが、NDL-OPACでも同一の個人著者標目としているし、本書の奥付にも同様の記載があるので、同一人物とみてまちがいなし。

初出『デイリースポーツ』1968年9月から150回連載。

一九六八年から六九年の正月休みに海外へでかけた日本人は一万三千人。うち八割がなんと東南アジアだったという。

8割?
実は、本書で扱う東南アジアとは、韓国・沖縄・台北・香港・マカオ・バンコク・クアラルンプール・シンガポールである。
うーむ。韓国・台北はともかく、沖縄も東南アジアとは、なんと歴史的・風土的に的確な認識であろうか!

小見出しをひろってみよう

韓国
ゴキゲンな"カジノ・プーサン"
居ながらにして三拍子が手にはいる
娯楽場ウォーカーヒル
カタコトの日本語で愛敬ふるまくホステス嬢
夜十二時から朝四時までは外出禁止
礼儀正しいキーセンたち
ボーイが女性のオーダーとりに

沖縄
那覇のバー街"桜坂"
温泉マークいっぱいの"男の天国"
赤線地帯"十貫寺"
コザには"吉原"がある
南国の楽園"石垣島"
"男子一生の恥……"?

台北
華やかすぎる"台北の夜"
"酒家"は美人ぞろい
"珈琲庁"とはおさわり専門喫茶
台北セックス旅行
情こまやかな待応生
新北投だけではの女のコが足りない
高砂族の"烏来"

香港
クツの値段のはなし
"クツずれ"に注意しよう
水上レストランは竜宮城
裏通りに密集"売春宿"
ゴキゲンな"飲茶"
大丸百貨店のレストラン
連れ出し自由のダンスホール
香港のリベート合戦
日本語学校大繁盛
豪華なミラマーホテル
香港の赤線と青線
奇妙な"女子美髪庁"
サンパンが並ぶ水上遊郭
豆電球が営業中の合図に
ヒヤカシ程度が賢明

マカオ
公認のトバク場とドッグレース場
中式と中西式の二通りがある

バンコク
名物"トルコぶろ"
ソコまで懇切ていねいに
微妙な快感"リイマ"
水上マーケットの旅
驚くほど安い果物
ガラス越しにホステスを選ぶ
"温泉マーク"がいっぱい
大もての日本人ホステス
ものわかりのいいコばかり
バンガローとは……
試食したいタイ料理
日本料理店も多い
ゲイボーイのはなし
オカマや映画・実演も
タイみやげのお買い得品
日本語を話す店員もいる
南京街の遊びの名物は
以外に多い青線
茶室で美人あんまがサービス
サムローは荒っぽく危険
チェンマイは美人の産地

クアラルンプール
典型的なアラビア風建築
ハッピー・マッサージ
電話一本でホテルへも
プロの女性に不自由しない
ダンスホールのはなし
指名料払えばぴったり相手に
冷房施設のあるホテルを
リキシャでの見物はいかが?
錫の露天掘り

シンガポール
人気ナンバーワンはワニ皮製品
宝石は日本の半値
アナ場は"ワールド"
ホステスの連れ出し自由
バーは日本と同じシステム
人口二〇〇万の美しい町
楽しいマレーダンス
うまい物いっぱい
試食した"露天料理"
一一階建てのホテル・マレーシア
豪華な"機内食"
一食分うかせるのが常識

などなど、若い諸君には意味不明の語句も多いだろうが辞書で調べるように。
これらの小見出しは、ジョークでも露悪趣味でもない。もちろん告発でも皮肉でもない。
まっとうに正直に観光案内を書いているのである。ほんと信じられない。別にわたしは道徳的にどうのこうの言っているのではない。当時のふつうのサラリーマンにとって(いや、サラリーマンという身分は当時まだ普通ではなかったのだよ)半年分以上の月給を使って行くのに、こんなどうでもいいことしか興味ないのか?とアゼンとしてしまう。

ちなみに本書によれば、東南アジアのいたるところ日本語が通じるようだ。

つまり、これは実用的ガイドではなく、単なる読み物、夢のようなはなしなのだろうか。
随所に間違いやデタラメがあって笑えるが、頭をかかえるような記述もある。

一般に韓国女性は、バストがみごとなほど発達しているが、これは子供のころからチマ(下着)で適当に圧迫し、刺激しているかららしい。

シンガポールでは、
ゲテモノ趣味の向きには、
ボルネオの洞窟でとれる馬の巣!!
がある。誤植とも思われない。なんで馬の巣になったのだ??

それにしても、こういうガイドを書いていた方が、ケニアやタンザニアに行って野生動物の写真をとり、観光親善大使になっているとは。マサイの子供たちの小学校に寄付し教育支援活動もやっているんだそうだ。

兼松保一,『貧乏旅行世界一周』,秋元書房,1961

2010-09-11 18:53:31 | 旅行記100冊レヴュー(予定)
覆刻版が日本ユースホステル協会,1990
文も写真もまったく同じ覆刻と思ったが、NDL-OPACによればページ数が異なる。原本未見だが、たぶん文章の部分に修正や変更はないみたいだ。
ちなみに小田実『何でも見てやろう』と出版年同じ。

著者は1927年生まれ1998年死去。
国際ユース・ホステル連盟執行委員などつとめる。
1954年パート・ギャランティ渡航。パート・ギャランティとは、渡航費用は自前だが、受入れ先の大学などで滞在費用が保証されるもの。フロリダ州立大学修士課程でレクリエーション学専攻。この時点ですでに日本に妻子あり。

アメリカでのユース・ホステル運動の創始者となるモンロー・スミス夫妻の援助・協力により、帰国途中にヨーロッパ・中東・アジアをまわる旅行が可能になる。
1956年9月5日カナダのケベック発、57年4月3日、帰国。

予算はどうしたかというと、カナダからヨーロッパまでは大学研修の一環としての船とトラックでの移動。この間モンロー氏の助手というかたちで、大西洋横断航路の旅費のみで参加した。一行とローマで別れる際に、モンロー氏から400ドル(約144000円)もらう。この資金で中東・アジアをまわり帰国する。

かなり珍しい、ラッキーなケースである。
当時の日本の物価からみて、1ドル360円というのは、現在の5000円ぐらいの価値があると思っていいだろう。しかしそれぞれ国の物価がよくわからないので、400ドルという金額がどの程度すごいのかどうか、よくわからない。当時はアメリカ合衆国だけが圧倒的に金持ちで、敗戦国のドイツやイタリアも、中東の国も日本もたいして変わらなかったのかもしれない。

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われわれの世代からみると、ユースホステルなんてのは内務班と民青をたして二で割ったような(←こらこら、若いもんにわからない喩えを使うな)、規則ばかりうるさくて、たいして安くもない宿泊施設というイメージである。
しかし、ヨーロッパと北米の間でも事情は異なるようだし、1950年代の日本では、ヨーロッパ的な憧れの施設だったのかもしれない。いずれにしろ、安いとか貧乏旅行向けというより、中産階級の青少年向けという感じかな。

そういう時代であるので、著者の写真も実際に旅行中も背広をきてネクタイをしめるというスタイル。その後のバックパッカーとかヒッピーとはまったく異なるのである。

さて、著者はどんな国へいったと思います?
これが驚くのだ。おそらく1957年の時点で、これほどの地域・国へ行けたのは稀有ではなかろうか。

ヨーロッパはフランス・ルクセンブルク・西ドイツ・オーストラリア・スイス・スペイン・ポルトガル・イタリア。それにモロッコにも。

ひとり旅になってからは
レバノン・ヨルダン・国境のエルサレム・シリア・イラク・アラビア湾を渡ってパキスタン(西)。陸路でインド横断。

さらにカルカッタから航空便で、
ビルマ・タイ・イギリス領香港のあと、なんと中華人民共和国

なぜ中共(と表記、日本と国交なし)に行けたかというと、周恩来首相あてに、世界各国の体育事情を視察しているのだが、中国の事情も見たいと手紙を書いたのだそうだ。(ローマから発信)
すると、入国許可の電報がカルカッタに届き(アメリカン・エキスプレスの事務所)中華全国体育総会の負担で旅行できることになった。香港から中国旅行社の係員の指示に従い入国。広州・上海・天津・北京などを国賓待遇(?)で視察できた。

中華人民共和国内では体育活動・スポーツ施設の見物が多いが、ほかの国でもその種の写真が多い。
たとえば、ダマスカスでの女子軍事教練、スカートをはいてバレーボールをするバグダッドの少女たち、イラクのガールスカウトなど貴重な写真もあり。

各国の査証の値段や移動方法もちゃんと書かれており、そうとうに珍しい旅行記である。

しかし、現在の立場から文句をいうのもなんだが、これほど珍しい地域・国へ行けたのだから、もっといろんなところを見ればいいのに、読んでいて歯がゆい。
スエズ動乱直後のエルサレムとか、アラビア湾を船でバスラからカラチまで航海、ラングーンとバンコックにも滞在。

そう、東南アジアはラングーンとバンコクだけ数日の滞在。ああ、もったいない。
中国の招待旅行で行くところが制限されるのはしょうがないにしても、ほかの国ではもっとおもしろいところがありそうなのに、観光名所だけなのである。

つまり、1950年代というのは、金銭的にも貧しかったが、それ以上に知識が乏しかったのだ。情報が限られているため、今からみるとありきたりの観光地しか見てないのである。