◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

◎承前/「栗原中尉御遺族の願い」に寄せて◎

2022年10月18日 | 末松建比古
「末松太平事務所」を開設したのは 2006年1月18日だから 16年以上も昔のことになる。
「事務所開設の意図は《二・二六事件》の記憶を持続させるためです。既に、事件から65年以上の歳月が過ぎ・・・」
あれから今日まで「880件」の記事を書き連ねてきた。

「2,26事件 一般社団法人仏心会」の公式ホームページが開設されたのは 2018年6月のことである。
「公式」だから(当ブログとは)重みが違う筈。でも「公式」は(2020年4月以降)休眠状態になっている。
「(前略)この本は 現在入手は極めて困難と言われています。事件関係22士の経歴について教えてほしいとの要望が多く寄せられていますので この度 仏心会のホームページを立ち上げ これら要望に応えようというものです」
この本は《河野司著「二・二六事件」日本週報社刊》のことだが この本に「仏心会の歴史」は書かれていない。
「公式」の欠落部分(仏心会の歴史など)を補う役割として これからも「末松太平事務所」を続けるしかない。



河野進サンが配布した小冊子には「昭和29年7月12日 19回忌法要の折」という写真が掲載されていた。
「墓石左端が栗原勇氏。この年の10月に同氏は他界された」と説明されている。墓石前の二人(相沢中佐令嬢と末松太平)が主役というわけではない。
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栗原勇氏の遺稿「二・二六事件」には「待望の二十二霊合同埋葬と建碑」に関する事柄が丁寧に報告されている。

◎二十二霊御分骨埋葬の件。
7月11日午後4時 賢崇寺にて読経の後、梅雨そぼ降る合間に滞りなく御埋葬を了し、新しい墓所に永遠の眠りにつかれました。
参列書 腹・垂井・丹生・西田・白井・河野・外に宇治野時三氏。
◎「二十二士之墓」完成の件。
連日の梅雨のため工事進捗せず焦慮致しましたが、雨を冒して強行の結果 当日の12日朝完成を見まして安心致しました。自然石の台石、墓碑の調和感も良く、曹洞宗管長禅師の御揮毫も一入映えて二十二士に相応しい落ち着いた姿です。
◎十七回忌法要及び二十二士之墓開眼法要の件。
7月十二日午後2時より予定通り取営みました。降り続いた雨も幸いに夜明けから降り止み、曇天の却って涼しい安定した天候となったので、午前中から会員の方々初め旧部下の方々の御応援を得て万全の準備を整えました。一時頃から相次ぎ定刻には150名に近い御参列者がお集まり下さいました。

1/導師入場 藤田導師以下3名の僧侶入場さる。
2/開会の辞 大蔵栄一氏が開会を告ぐ。
3/読経 藤田師のいとも厳粛なる読経の声は流れる。
4/祭文 施主代表として河野司氏が祭文を奏す。
5/当時の同志を代表して末松太平氏が切々たる弔詞を朗読さる。
6/弔電弔文披露/多数の弔電と弔文を大蔵栄一氏より披露さる。
7/読経 再び読経が続き、最後に二十二士の俗名、戒名が読上げられ、一同粛然合掌、粛然の気 堂内に溢れる。
8/焼香 仏心会代表栗原勇氏に続いて遺族一同焼香、次いで参列者に移り 真崎甚三郎元大将を初めに参列者全員の焼香を終える。
9/遺族挨拶 遺族を代表し栗原勇氏立たれ、声涙共に下る感激の挨拶を述べらる。遺族席の嗚咽頻りに、堂内の感激頂点に達した。洵に劇的の幕切れであった。
10/導師退場。
11/閉会の辞 大蔵栄一氏閉会を告げ 次の開眼供養まで暫時休憩を願う。

本堂での「法要」を終えて 境内新墓所に場所を移して「開眼供養法要」が行われた。掲載した写真は「開眼供養」の直後に撮られたものである。この後 本堂に戻って「追悼茶話会」が開かれ 5時半に散会したという。
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今年の6月15日に《中公文庫「私の昭和史」在庫ゼロ》に関する諸々についてを記した。
そして 中央公論文庫編集部の橋爪サンからのメールに「新しい企画提案書」が添付されていたことも報告した。
橋爪サンに「全て一任」と回答した後に 安倍元首相は銃撃され 私と妻は新型コロナに感染し ここには書けないストレスにも遭遇した。
10月7日。橋爪サンから「中間報告」メールが届いた。「企画」は順調に進行して 2023年1月10日に結実する予定という。(末松) 
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