17.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170206)
水上源一さんのこと(その16)
水上さんのお話が、長くなり申し訳なくも思いますが、記憶をたどれば、水上さまの長女、宣子さんから、父親のことを調べてほしいと言われたのは、今から12年前,私が55歳のときでした。その後東京地検に裁判資料閲覧の許可を申請。三度目の審査を経て東京地検より得たのは、11年前。簡単に水上源一論をまとめられると思いながら、閲覧作業を行っていたのですが、これが結構大変で、実際の事件の法務上の処理を書き写すという作業は、生半可でなく、かてて加えて、仕事がとても忙しくなり、海外出張の連続。その後、小生の60歳定年、定年延長さらには関連会社への出向転籍などや、体調の不振。などが重なりました。
然し、正直に振り返ってみると、根本的には、水上さんの行動や気持ちが今一つ理解できず、心の中で、水がせき止められてしまった様でした。
しかし、今回、このブログで書きながら、改めて、収集済みの資料を再読していると何かが見えたような気がいたしました。
そのような気持ちに立つと、ここまで書いたのは、実に序章の序章で、まだ大量にある資料を見乍ら、67歳の自分に残された寿命の短さにぞっとしております。然し乍ら、父と同期の池田俊彦さんが「生きている二・二六」を書かれたのが73歳だと想起すれば、いやいやまだやれると思う気持ちにもなれます。
さて、水上源一さんのことを考えると実に多くの遺墨、手紙、遺品があります。遺品には柔道着とか、写真や日大の卒業アルバムとか、補充電信兵として応召したときに与えられた実印の入った貴重品袋、奉公袋、軍隊手帳、教育を受けた際の手帳など、また、多くの遺墨を書いた紙は、障子紙で、「美濃本場 御障子紙」書いてある包み紙まであります。
で、それをしっかりと持っていたのは、奥様のはつねさまであり、それを、引き継いだのは、宣子様であり、この保管のことを考えただけでも、強い愛情や同志の思いが伝わってまいります。
賢萗寺のお墓は、「水上源一家の墓」となっており、はつねさまが建てられたものです。
写真は、水上源一一家三人で撮られたものです。 又、お墓の写真は仏心会の安田様がお参りしているものです。いずれも掲載許可をいただきました。
水上さんは日本のために「捨て石」となられました。然し、そのお名前は歴史に残り、お墓の中で今は奥様と、そして天から宣子様を見守り、いつの日か、あたたかく、一家揃って、お過ごしになるのだろうと思います。
長くなりましたが、とりあえず筆を擱きたいと思います。
私が実際に接した水上源一さんのご長女、宣子様は、私に新しい二・二六事件の新しい理解のきっかけをくださいました。いつまでたっても御報告が出来ないことに対し、ここに改めておわびするとともに、その一部を書かせていただきました。
源了院剛心日行居士 昭和十一年七月十二日 水上源一 二十九才
初了院妙観日光大姉 平成五年七月二十二日 水上初子 八十二才 注:はつねさまのこと。
水上源一さんのこと(その16)
水上さんのお話が、長くなり申し訳なくも思いますが、記憶をたどれば、水上さまの長女、宣子さんから、父親のことを調べてほしいと言われたのは、今から12年前,私が55歳のときでした。その後東京地検に裁判資料閲覧の許可を申請。三度目の審査を経て東京地検より得たのは、11年前。簡単に水上源一論をまとめられると思いながら、閲覧作業を行っていたのですが、これが結構大変で、実際の事件の法務上の処理を書き写すという作業は、生半可でなく、かてて加えて、仕事がとても忙しくなり、海外出張の連続。その後、小生の60歳定年、定年延長さらには関連会社への出向転籍などや、体調の不振。などが重なりました。
然し、正直に振り返ってみると、根本的には、水上さんの行動や気持ちが今一つ理解できず、心の中で、水がせき止められてしまった様でした。
しかし、今回、このブログで書きながら、改めて、収集済みの資料を再読していると何かが見えたような気がいたしました。
そのような気持ちに立つと、ここまで書いたのは、実に序章の序章で、まだ大量にある資料を見乍ら、67歳の自分に残された寿命の短さにぞっとしております。然し乍ら、父と同期の池田俊彦さんが「生きている二・二六」を書かれたのが73歳だと想起すれば、いやいやまだやれると思う気持ちにもなれます。
さて、水上源一さんのことを考えると実に多くの遺墨、手紙、遺品があります。遺品には柔道着とか、写真や日大の卒業アルバムとか、補充電信兵として応召したときに与えられた実印の入った貴重品袋、奉公袋、軍隊手帳、教育を受けた際の手帳など、また、多くの遺墨を書いた紙は、障子紙で、「美濃本場 御障子紙」書いてある包み紙まであります。
で、それをしっかりと持っていたのは、奥様のはつねさまであり、それを、引き継いだのは、宣子様であり、この保管のことを考えただけでも、強い愛情や同志の思いが伝わってまいります。
賢萗寺のお墓は、「水上源一家の墓」となっており、はつねさまが建てられたものです。
写真は、水上源一一家三人で撮られたものです。 又、お墓の写真は仏心会の安田様がお参りしているものです。いずれも掲載許可をいただきました。
水上さんは日本のために「捨て石」となられました。然し、そのお名前は歴史に残り、お墓の中で今は奥様と、そして天から宣子様を見守り、いつの日か、あたたかく、一家揃って、お過ごしになるのだろうと思います。
長くなりましたが、とりあえず筆を擱きたいと思います。
私が実際に接した水上源一さんのご長女、宣子様は、私に新しい二・二六事件の新しい理解のきっかけをくださいました。いつまでたっても御報告が出来ないことに対し、ここに改めておわびするとともに、その一部を書かせていただきました。
源了院剛心日行居士 昭和十一年七月十二日 水上源一 二十九才
初了院妙観日光大姉 平成五年七月二十二日 水上初子 八十二才 注:はつねさまのこと。
水上源一さんの長女、宣子さんから依頼を受けて
12年。序章とは言え、お書きになられてよかったですね。環境の変化やお身体の不調を乗り越えて
この年月が必要だったように思われます。
これからも、御自愛の上お書きくださいますように。お祈り申しております。
ご丁重なるメールに心より恐縮しております。ありがとうございました。これからもメモ程度でお恥ずかしいのですが、書かせていただく所存ですので高覧賜れば幸甚に存ずる次第です。今泉章利拝