◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

湯河原光風荘(3)

2008年12月06日 | 今泉章利
(続き)
私の訪れた日の湯河原は、紅葉が見事で観光客も多かった。この光風荘は、土日に開放されていて、ボランティアの方が朝早くから訪れる人たちに説明をされていた。
しかし、それにしても、事件は、正確には何時から何時までであったのだろうか。午前5時前には到着していたが、水上さんの公判記録には、5時20分ごろ襲撃開始、7時頃引き揚げと述べられているが、もう少しの分析と検証の必要がある。
建物は、門(と裏木戸)以外の出入りはできず、もし生きていれば、門から人は出てくるはずだった。袋小路の建物であった。1時間半、さまざまなドラマがあったはずである。山本さんのお話では、護衛の警官は4人いたが、残りの3人は、門のすぐ手前の、三階建て施設で寝ていたのである。これは、一階がビリヤード場で、二階と三階がが宿泊施設になっているものであった。このことは今まで聞いたことはなく、書物に出てくる内容と裁判記録と、山本さんのお話(岩本さん以外の方の証言も記憶されている。)と実際の状況、、この4点を合わせて考えねばならない。
写真は、小さいが、タンクの向こうに見える平屋と二階建ての建物が、伊藤屋旅館である。手前の平屋の左の部屋が、渋川さんたちが泊って偵察をした19号室であるとのこと。(今)
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湯河原偵察 (渋川明雄)
2008-12-14 11:40:25
湯河原襲撃事件は、その前段として渋川善助氏による牧野伯偵察から始まると思う。善助さんは、2月23日に村中孝次氏から牧野伯の偵察を依頼され、その日の夕刻絹子夫人を伴い湯河原に向かったとされる。(渋川憲兵訊問調書・村中公判調書)(絹子夫人談話「二・二六事件」松本清張)しかし、直心道場長大森一声氏は、20日から(内政史研究資料第7集)三角友機氏は22日(新勢力・1973.7)という。当初蹶起日が25日(常盤稔、中橋基明憲兵訊問調書)だったことを考えると、23日暗くなって湯河原に着き次の日には偵察の結果を報告するには余りにも時間がなさすぎる。また、佐藤光佑の偽名で泊まったという。(二・二六事件裁判の研究)伊藤屋旅館に当時の宿帳があればと思い、今年の3月に旅館を訪ねました
。館主伊藤伸之氏御夫妻と一時間余りお話しすることができましたが、宿帳はありませんでした。そして、渋川さんが泊まった部屋にご案内しましょうということで、2階にあるその部屋を拝見させて頂きました。その本館の建物、部屋はほぼ当時のままで、今でも客室として活躍しています。部屋から外を見ますとほぼ正面に光風荘が見え、まる見えでした。部屋にいながら監視できる絶好の部屋でした。当時の写真を見るとこの部屋の前だけ庭にある高い木がありません。
横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)によれば、火災で負傷し町内の病院に入院中の伊藤屋主人は経過良好(昭和11・3・3付)伊藤屋旅館で故皆川巡査慰霊祭が行われた(同3.17付)故皆川巡査の追悼式が昨日行われた、と。(同3.24付)(新聞記事目録第一集・湯河原町)
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