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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

6月14日

2012年06月14日 | 日々のあれこれ

 1学年だより「見返り」

 10の努力をしたら、必ず10の見返りがあるということはない。
 10努力して1の結果しか出ない場合もある。
 結果がマイナスになることさえ、ないとは言えない。
 人生の局面ごとにおいては、10努力して2か3の成果があれば御の字程度に考えておくのが妥当かもしれない。
 しかし人は、10も努力すると20の見返りを求めてしまう。
 客観的には3しかしてないのに、10ぐらいはしている気分になり、20の見返りを求め、それが得られないと運が悪いと嘆いたりする。
 そもそも努力の見返りとは何をさすのだろう。
 目に見える見返りはたしかに存在する。
 「がんばって勉強した → 志望大学に受かった」「毎日死ぬ気で練習した → 県大会で優勝した」というように。
 損得で考えるならば、「ほどほど勉強した → 志望大学に受かった」「週に二回健康的に練習した → 県大会で優勝した」方がコストパフォーマンス(費用対効果)は高い。
 そして、「がんばって勉強した → 志望大学に受からなかった」「毎日死ぬ気で練習した → 一回戦で敗退した」というのは、全く価値のないことになってしまう。
 でも、価値とは結果によってのみ生まれるのだろうか。
 志望大学に受からなかった人、一回戦で負けた人は、何も残らないのだろうか。
 純粋な努力不足がその結果の原因ならば(そういうことも多いけど)仕方ないことだ。
 でも、最初に書いたように、努力と結果は正比例しない。
 長い目でみれば、努力と結果の相関関係はかなり高くなるが、2年や3年のスパンの場合、なかなかそういかないことも多い。
 じゃあ、努力するのは意外とコスパが低いと言えるのか。
 そうでもなさそうなことには、みんなも気付いているだろう。
 がんばることは時にけっこう辛い。
 目標が大きければ大きいほど、苦労を強いられる。
 しかし、がんばることは「快」か「不快」かどちらにあたるのかと考えた場合、たぶん人間にとっては「快」側に針がふれるもののはずだ。
 そうでないとここまでの人類の歴史が説明しきれないから(話が大きくなりすぎた)。
 結果がどうあれ、「がんばって勉強した」「毎日死ぬ気で練習した」ことは、その人の身になる。
 そういう経験をしたという事実が、その人のからだに刻みつけられる。
 そこには、コスパでははかれない価値が存在する。
 結局は、どんな思い出を作りたいか、どんな思い出で自分という器をうめていきたいかということではないだろうか。

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