Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

無名であることの発見

2010-08-28 08:49:08 | 日記


薄くてありふれた<本>がおそるべき本であることもある。

いま書店の棚を見れば、“新書”はたくさんある。
ぼくが若かった頃は、岩波新書、中公新書、講談社現代新書であったのが、現在では、ほとんどの大手出版社が“新書”を出している。

ぼくの本棚や部屋にも新書はたくさんある。
しかし読み終わった新書は少ない。

新書は、あまりよく知らない領域への手軽な入門書、概説書であろうか。
しかし時に、同じ新書でありながら、くっきりとした“個性”をそなえている本がある。

たとえば高橋睦郎『読みなおし日本文学史』を加藤周一『日本文学史序説』に“匹敵する本”と言ったら、加藤ファンは怒るだろうか。

加藤周一の本は、上下2冊本であり、そこに述べられた“本(日本文学の情報)”はたくさんある。
そこに記入された<本>の数だけでも加藤氏の“教養”のすごさを知るには充分である。
もちろん、そこには、情報の“量”だけがあるのではなかった。
その情報の量を“文学史”として記述する加藤周一の視点があった。

それにたいして、わずか220ページで語られる高橋睦郎の“文学史”は、情報的に劣っているのだろうか。
それは、たしかに詩人の“直感”である。

しかしこの直感が、日本文学史という膨大な情報を射抜くこともあるように思える。

すでに高橋氏の直感は、この新書の“はじめに=<無名であることの発見>”に端的に表明されている、引用する;

★ わが国の文学史は、歌、連歌、俳諧を中心に、歌の運命の歴史、さらにはっきりいえば歌の漂泊の歴史、さすらいの歴史と捉えることができる。もちろん、歌に従って歌びとも漂泊した。その漂泊は歌を表に立てての読人しらずとしての、無名者としての漂泊だった。

★ 歌の漂泊はどこから始まったか。大陸から先進文化の詩が入ってきた時からだ、と私は考えている。新来の詩は‘からうた’と意識され、それまでただ‘うた’と呼ばれていた歌は‘やまとうた’となった。かつて神の歌のいた位置に人間の詩が坐り、神の歌はかつての位置を追われてさすらわなければならなかった。歌はさすらいながら多くの作品となって残った。

<高橋睦郎『読みなおし日本文学史』(岩波新書1998)>



ぼくが今こういうことを書いているのは、“小沢一郎がどうしたこうした”というこの“世相”と関係がある。

また“個人的に”、近日『物質的恍惚』を中心にル・クレジオを読んでいることにも、関係がある。

すなわち、“文学”や“文学史”が(そう呼ばれるものが)、“政治”や“社会”や“世間”に関係がないことなど、まったくない。

わたしが“この世間の愚劣な喧騒”に嫌気さし、<文学空間>に遊離しようとすること自体が、<政治-社会参加(アンガージュマン!)>であるからである。

たとえば、上記引用で<神>と呼ばれている“もの”と、キリスト教の<神>はまったく異質である。

しかし、それは<国粋主義>を意味しない。







It is the evening of the day
I sit and watch the children play
Smiling faces I can see
But not for me
I sit and watch
As tears go by

My riches cant buy everything
I want to hear the children sing
All I hear is the sound

Of rain falling on the ground
I sit and watch
As tears go by

It is the evening of the day
I sit and watch the children play
Doing things I used to do
They think are new
I sit and watch
As tears go by

<M.Jagger&K.Richards“As tears go by”>