Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

”なつかしいミシェール” b

2010-08-23 14:06:30 | 日記




★ 質問
「なつかしいミシェール
きみがここの家に、近いうちまた登ってきてくれるといいんだが。覚えているかい、下で岬に沿って競走しただろう、あのとき以来きみには会っていない。(・・・・・・)
僕はヴィラの塀の根もとのやまももの繁みの中に、死んだ白ねずみを一匹見つけた。そいつがくたばったのは、もういい加減前に違いない。埃に似た血の斑点を除けば、すっかり黄色くなっていたよ。そして眼のまわりには小さな同心円のしわがよっていた。閉じたまぶたはX型をしていた。(・・・・・・)


★ 答
「なつかしいミシェール、
今日もまた、夏もそのうちに終わるだろうと考えたよ。夏が終わって、もうそれほど暑くなくなり、太陽は隠れ、雨水が、絶え間なく、一滴一滴と、あらゆるものを蔽いつくすのが見られるとき、何をすればよいのかと僕は思ったのだ。


★ 答
「なつかしいミシェール
今や間もなく雨が来そうに思われ
今や太陽は一日一日と、光線の一筋ごとに弱って行き、ついには雪の玉に変身してしまいそうで、僕の方は、デッキチェアに窮屈な姿勢ではまりこんで、その冷却を跡づけて行く必用が生じそうに思われ、
(・・・・・・)
それじゃあきみは、僕みたいに、
最後に残った光のただ中に来て眠りたいとは
思わないのか。
きみはほんとにここに来て、ビールかお茶を飲みながら、物音が窓辺を過ぎるのを耳にしながら、僕に静かなお話をしてくれる気はないのか。僕たちはそれから裸になって、お互いの体を眺め、指で何かを数え、同じ一日を千たびも生き直すだろうに。

<ル・クレジオ『調書』(新潮社1966、2008)>




“なつかしいミシェール”

2010-08-23 14:02:00 | 日記


★ ワイシャツのボタンをはめもせず、アダムは毛布の間から一種の黄色い学生ノートを取り出した。その最初のページには、見出しに、手紙でするように、こう書き込んであった。
なつかしいミシェール


★ 「なつかしいミシェール
・・・・・・他のことなんかどうでもいいんで、何がどうなろうとこっちは想像力に充ちみちてるし、こんな詩だって書けるんだ
      今日はねずみの日、
      海に溶けこむ前の最後の日。
きみはといえば、幸いなことに、きみはきっと記憶のうず高い堆積の間から見分けられるはずだ、ちょうどかくれんぼをしていて、きみの眼とか手とか髪の毛が、葉の茂みの丸いすき間からのぞいているのが見つかり、いっぺんにそれとわかった僕が、もう葉っぱなんかにだまされずに、かん高い声で、<見つけた>と叫ぶときみたいに」

<ル・クレジオ『調書』(新潮社1966、2008)>




なつかしいミシェール






ル・クレジオとロビンソン・クルーソーの鸚鵡(オウム)

2010-08-23 12:48:20 | 日記


さて、またまたル・クレジオである(笑)

Doblog以来のこのブログの“愛読者”というひとが、ひとりでもいるならば、warmgunが夢中になりやすい人であることを知っている。

たとえば<このブログ>においては、以下の名前が頻出した;

辺見庸、中上健次、村上春樹、大江健三郎、柄谷行人、大澤真幸……マルグリット・デュラス、マイケル・オンダーチェ、グレン・グールド、ベンヤミン、サイード……ル・クレジオ。


ル・クレジオがノーベル文学賞をとった“後に”、新潮社は、ながらく絶版だった『調書』を再発行した。

このル・クレジオのデビュー作の故豊崎光一氏による翻訳は1966年に新潮社から出た。
2008年の翻訳新版を、今日Amazonマーケット・プレイス経由で入手した。

装丁は(当然)変わっているが、“中身”は同じである、1966年の豊崎光一氏による解説“ル・クレジオについて”(1966年8月の日付がある)もそのまま収められた。

かくして、ぼくは1966年8月から、44年を隔てた8月にこの本を手にしている。

この新版の“帯”には、3人の人物によるこの本への称賛の言葉がある;池澤夏樹、加藤典洋、青山南である。

池澤夏樹は言う;《最初に読んだとき、アダム・ポロはぼくだと思った》
加藤典洋は言う;《1966年は、わたしにとって『調書』(豊崎光一訳)の年だった》
青山南は言う;ル・クレジオの言葉はさながらまぶしく熱い光の粒だ》

これらの“キャッチ・フレーズ”は、書店で<この本>を手に取った人々の購買意欲を駆り立てるであろうか?

もちろんこの“帯”で、いちばん大きく印字されているのは;《ノーベル文学賞受賞》である(笑)

もちろん“世の中”には、ノーベル賞を取ったから、芥川賞をとったから、三島賞を取ったから、その作家の本を買ってしまう人もいるのである。

どうでもいいことである。
どうでもよくないことは、加藤典洋のような、ル・クレジオと対極にある(と現在ぼくに思われる)ひとが、“青春の本”として『調書』を思い出してしまう(宣伝してしまう)ことの不可解さ(不条理!)である。

すなわち、“青春の日の本”を、その後のその人の“生き方(様)”が裏切ってしまうことの不可解(不条理!)である(笑)

まあ、“だから”<文学>は、“単純でない”のであった。


例えばこの“帯”で、加藤典洋は、『調書』と並べて、5冊の本の名を列挙している;『嘔吐』、『異邦人』、『日々の泡』、『奇妙な孤独』、『荒れた海辺』である。

しかし(ここがこのブログのポイントである;笑)、これら5冊の本と、『調書』(この字をぼくは拡大、強調文字にしたいが、できない)にいったいどんな<関係>があるのだろうか?


関係なんか、ない、それがル・クレジオの<位置>(=価値、意味)である。

ようするに、“これらの本”を並べてしまえる加藤典洋(“下等転用”と変換!)には、センスがないだけでなく、<文学>がわからない。

そういうひとが、大学で“ブンガク”を教えたり、メディアで“文芸時評のお仕事”をしてしまえることが、<文学の死>をもたらしたのだ。
加籐典洋が、村上春樹をいつまでも持ち上げていられるような、“頭脳硬化症”が、ニッポン・ブンガクの“死に至る病”なのである。


まさにル・クレジオは、単に“日本の作家ではない”どころではなく、まったくの<外部>なのだ。

ル・クレジオは、“フランス”に対しても、“ヨーロッパ”に対しても<外部>である<場所に>に歩み行った。

そのことがわからなくて、どーして、ル・クレジオを“読める”か?

最近のル・クレジオは(ぼくも“これから”読むのだが)、自分の<自伝>にこだわっている。

そもそも彼の“家系”や“出自”や“家族”が複雑である。
彼は、少年期にアフリカで暮らしている。
さらに、ニースというフランスの都会から“出て”、メキシコへ渡り、ペルーなどでインディオと遭遇し(彼らの神話を“翻訳”し)、ベルベル人女性と結婚している。

この閉鎖列島の大学で聞きかじり学問を垂れ流し、メディアに雑文を垂れ流し、たまに“おフランス”に遊学している“ニッポンおフランス文学者”とか、“マネッコ知識人”とは決定的に<異質>である。

決定的に異質である。

だから、無知蒙昧(ムチモウマイと読む)で、“おフランス語”なぞ、ちっとも読めない、ぼくが、ル・クレジオを“読める”(理解できる)かドーかは、まったく疑わしい。

まったく疑わしい、のである。

しかし、ぼくは<読む>。


この直観を信じて読む。

それ以外に、読むことはない。



★ 鸚鵡だけが、私のお気に入りでもあるかのように、ひとり口をきくことを許されていた――ロビンソン・クルーソー(ル・クレジオ『調書』扉に掲げられた言葉)






現在を象徴する言葉

2010-08-23 10:28:34 | 日記


A:“もったいない”

例文:▼冒頭に戻って、今度は暑苦しい言葉をあげるなら「西日の鬼瓦」はいかがだろう。赤銅色に照る鬼瓦氏の労を思いつつ、手づくりの涼を喜ぶのも悪くない。空調一辺倒で「消夏法」を死語にするのは勿体(もったい)ない。(今日天声人語)


B:“なつかしい”

例文:◆「男の夢をかなえる車・日産ブルーバード」、「あなたの心まで豊かにします・トヨタカローラ」。東名高速が開通した69年の広告には、成長ハイウエーを疾走するこの国の高揚感そのままの惹句が並ぶ。政治も経済も社会も、先が見えない渋滞の中にある今だから馬力とスピードを無邪気に追い求めた頃がなつかしい。(今日読売編集手帳)




ああ、もったいない、もったいない、もったいない、もったいない、もったいない、もったいない……

ああ、ああ~なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい、なつかしい……(あ~あ)


というように使用する。


朝日新聞社説は、

《米軍のイラク撤兵―重い教訓に向き合うとき》  である。

このクソ暑い時、だれが“イラク問題”に関心を持つのであろうか?

そもそも朝日新聞等の“メディア”が、イラク戦争や日本の戦争加担に本気で反対したことがあったのであろうか?

イラク戦争ももはや、“なつかしい”。

その戦争をめぐって費やされた<言説>の山々は、“もったいない”。


もちろん、これらの無駄な言葉で、家族を養うことができたのは、朝日新聞など“メディア”関係者だけである。

しかも、“朝日新聞=読売新聞社経営者や社員”は、自分の子供たちを“メディア”に就職させ、自分の一家(のみ;笑)の安泰を図るのである。

かくして<歴史>は継続する。

“ああ、なつかしねぇー”なぞと言いながら。

紙、インク、電波、デジタル信号などなどは、ハイテクノロジーとしての進展を遂げる。

やれデジタルだスリーDだアイパッドだと姦しく(女3人寄れば、かしましい)、<商品>を売りつける。

しかしそれら商品の中身は、死んでいる。

言葉が死んでいるからだ。

踊る阿呆に、躍らせる阿呆。

どうせ阿呆なら、踊らにゃ、損、損。


ああ、もったいない。