今日も昼すぎから仕事に出る、“街”は耐えられるほどの暑さであろうか?
というような、いまの気分を“つぶやく”ことは、できる。
いつでも、どこでも、(たぶん)できる。
“つぶやく”というのは、なにか人を説得するようなメッセージを発したり、自分の“意見”のただしさをクドクドと“論証”することではない。
そういう意味では、“自然”であったり、“肩に力が入って”いなかったり、“感じが良い”のである。
しかし、ここでぼくが“書きたい”のは、タイトルに掲げたことである。
最近、つくづく“本を読む”というのは、奇妙な行為(習慣、仕事、務め、快楽―?)だと思う。
なぜ本なぞ、読んでいるのであろうか?
たぶん、“本”から実用的知識を得ようとしているひとにはこのような疑問は生じない。
その本が、自分の目的に沿う“知識”を本当に提供してくれるか?という疑問が生じるにしても。
ぼくの読書は、まったくそのようなものではない(あたりまえだ)
ぼくの読書は、まったく“拡散的”である。
さすがに、“これはまずい”と思い、ぼくは何度も、“集中する作家(書き手)”とか、重点を置く“ジャンル”や“テーマ”を絞ろうと考えた。
ぼくは“拡散的”であるのに、“A型的整理癖”とでも呼ぶべきものも、けっこうあるのである。
たとえば、現在、マジで、“もうル・クレジオだけ読んでいればいいのではないか”と思う(下記ブログ参照)
あるいは、前にブログに書いたが、“哲学者”は、メルロ=ポンティ“だけ”でよいのではないかと、思う。
ル・クレジオとメルロ=ポンティ“だけ”でも、ぼくの残りの人生で読み切れないことは、明瞭である。
にもかかわらず(笑)、こう思ったとたんに、石川文康『カント入門』(ちくま新書1995)の最初にあるアンチノミーに関する“解説”が気になる。
カントという人は、なんということを考えたのだろう!という感嘆である。
これは、近代哲学の、基礎の基礎、初歩の初歩である。
ぼくは“いまさら”これに驚いている。
ル・クレジオを読んでいると、“読みかけ”のデュラス『北の愛人』が気になる、中断していた60ページから、また数ページを読む(これは昨夜のこと)
今朝、下のブログを書き、朝食を食べてから手にとったのは、読了し、再読しはじめ、中断したデュラス『愛人』である(笑)
ぼくが今手に取っている『愛人』は河出文庫版である。
そしてたまたま発行年を見たら、“1992年2月初版発行、1995年8月63刷発行”とある。
この文庫の初版が何冊“刷られたか”明瞭でないが、“63刷”というのは、やはりすごい数字ではないだろうか。
もちろん(たぶん)この本がこれだけ売れたのは、“ポルノ期待”によるものだろう。
それはそれで、ある種の問題を示しているだろうが、現在のぼくはそれを論じる“気分”ではない(このブログの“テーマ”は、<本を読む>ことであった;笑)
この文庫の最初に何枚かの<写真>がある。
そのなかに、《わたしは4歳、母は中央にいる》というキャプションの写真がある。
本文ではこの写真について、以下のように語られている;
★ 縁(つば)が平らで幅ひろの黒いリボンのついた紫檀色の帽子を買ってくれたのは、この女(ひと)、ある写真に写っている女(ひと)、わたしの母だ。
★ 母がどれほど居心地が悪いか、微笑もせず、はやく終わらないかとどんなに待っているか、わたしには手にとるようにわかる。やつれた顔、身なりにうかがわれるある種のだらしなさ、眼差しのけだるさから、この日が暑い日で、母が疲労困憊して気力をなくしている、とわかる。
★ すでに現前していた父の死だったのか、それともその一日が死んでしまったように思えたためか?この結婚が、この夫が、この子供たちが疑わしく思えたのか?それとも、より普遍的に、こういった所有そのものがまるごと疑わしくなったのか?
★ ……理由なんかこれっぱかしもない、父がすでに死に瀕しているというのに、あるいは縁の平らなあの帽子、娘があんなに欲しがるんだもの、あの金ラメの靴も同様。あるいは何もない、あるいは眠る、死ぬ。
(以上引用)
ああ、やはりデュラスも、読まずばなるまい(爆)
もちろん(フランス語が読めなくても)デュラスの文体は魅力的である。
清水徹氏(訳者)の“文体”も。
さて<本を読むこと>について、ぼくは何かを“述べ得た”であろうか?