★ 前章までの考察が含意していることは、<私>に孕まれている過剰性こそ、<私>が人を愛し得ることの根拠になっており、またもうひとつの自由、<自由>の可能条件にもなっていた、ということである。<私>が、決して見通すことができない<他者>を愛することができるのは、<私>が自分自身に対して不透明であり、<私>がすでに<他者>だからである。前章に論じたように、<自由>を構成する能動性と受動性の間の循環――マゾヒズム的転回――は、求心化作用と遠心化作用の相互的な反転の中から出現するのであった。<私>が<他者>に見られることを、<他者>の受動的な対象であること自体を欲望するのは、<私>に帰属する求心的な能動性が、<他者>の方へと遠心的に反転するからである。要するに、<私>が<私>であることの核心に、<私>の透明な意志に服さない<他者>が孕まれているからである。
★ 本論の展開を通じてわれわれが徹底的に確認したことは、自由(や責任)は、骨の髄まで社会的現象だということだからである。他者が、他者としての他者が、主体性をもった他者がいる世界でなければ、自由は存在しない。しばしば、他者は、自由にとって阻害的な要因であるかのように語られるが、そうではない。他者なしには、自由ということが成り立たないのだ。
★ 無論、自由が社会的現象だとして、問題は、どのような意味において社会的か、ということである。われわれは、本論の中で、二種類の自由を、古典的な「自由」ともうひとつの<自由>とを抉出した。両者は、異なった意味において、社会的であり、他者を要請している。それゆえ、自由の擁護者は、同時に、人間の複数性の頑固な擁護者でなくてはならない。
<大澤真幸『<自由>の条件』(講談社2008)>