今日の読売編集手帳を読んでください;
哲学の庶民への普及を理想に掲げた哲学者の井上円了が、東京・中野に道場を開設したのは今から約100年前のことだ。現在は哲学堂公園として整備され、地域の憩いの場となっている◆カントや孔子らの業績を伝える四聖堂や散策路が当時の面影を伝えている。古今東西の哲学を体感できる“テーマパーク”のような施設だったのだろう。だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた◆その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」の邦訳本がベストセラーとなっている。先日、東大・安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった◆オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。哲学とは何かについて改めて考えさせられる。(引用)
ポイントは、
① だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた。
② その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。
③ オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。
④ 哲学とは何かについて改めて考えさせられる。
要するに<哲学>には、実用性があるか、そうでないのかがテーマである。
読売新聞は《米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授》の本が日本でベストセラーになり、《安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった》ということだけを根拠に、《古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している》と結論づけている。
ぼくはマイケル・サンデル教授というひとをまったく知らないが(笑)上記のような結論付けが<哲学的でない>ということを感じるほどには、<哲学>にこだわっている。
どうして<哲学>は、《オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――》などという“問題”に解答を与えなければならないのか?
<哲学>とは、その程度の<問題>を“整理し、回答するため”に存在してきたのだろうか?
まさに、《哲学とは何かについて改めて考えさせられる》。
しかしこの場合、《改めて》という言葉は、これまでに“哲学とは何か”について考えたことがあるとか、“哲学とは何か”について(ずっと;笑)考えてきたことを意味する。
上記の読売編集手帳の“文章”には、そういうことが微塵も感じられない。
すなわち、<哲学>というのは、<文章>のことである。
<古典哲学>を整理・応用すれば、“現在の問題”が解決できるという“哲学の実用性”こそ、<哲学>に対する完全な無理解である。
<哲学>は、《論理的な回答》ではない。<注>
まったく何もわかってないひとに、文章を書いてほしくない。
それとも、“わかっちゃいるけどやめられない”のであろうか。
馬鹿!
<注>
たとえばカントにとっては、<哲学>は、理性-批判である。
理性自体への批判である。
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