Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ひとり考えるための椅子

2010-08-31 14:49:51 | 日記


下記ブログの最後に大江健三郎「火をめぐらす鳥」から引用した詩人伊東静雄をぼくは読んだことがなかった。

短編「火をめぐらす鳥」が、ぼくにとっては、また大江健三郎を読もうと、思うきっかけになった(そのわりには、その後あまり読んでないのだが)

これも前に買って、少し読んでいた菅野昭正『詩学創造』(平凡社ライブラリー2001)の一章が“帰れない帰郷者―伊東静雄”であることを思い出し読んでみた(短い)

その最後に伊東静雄が昭和21年に書いた詩があった(この年1946年にぼくは生まれた)
伊東静雄は1953年に死去している。

この詩は《一日の勤めがえりの若い女に託して》書かれた、とある。

タイトルは“都会の慰め”である。

いったい1946年の“都会”とはどのような光景であったか?(ぼくも知らない;笑)
いったいその都会での“勤めがえりの若い女”は、どのような容貌・服装であったか?

1946年ではないが、それからちょっと経って、ぼくの母は“勤めがえりの若い女”であった。

この詩を引用しよう;

そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする
それが何なのか自分にもわからぬが
どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考えるための椅子はどこにあるのか
― 伊東静雄“都会の慰め”


さて、この詩が書かれて65年近くが経過したのだが、ぼくは上記の“感慨”を共有する。

上記の詩が、“リアリズム”でないことは承知だが、ぼくにとって“大都会でひとり静かに坐って考えるための椅子”というのは、<喫茶店>の椅子である。

“スタバ”ではないのである。
“居酒屋”でも“こじゃれたバー”でも、もちろん、“ネットカフェ”でも、“漫画喫茶”でも、“ラヴホテル”でもない。

まさに“大都会”から、喫茶店が続々消えていく(ぼくは昨年から今年、行きつけの場所を次々に失った)

もちろんぼくには、自分の家に(いま坐っている)<椅子>がある。

しかし、
《そこに帰つてゆく前にゆつくり考へてみねばならぬ事が
あるやうな気がする》― “とき”がある、“こと”がある(ような気がする)


《どこかに坐つてよく考へねばならぬ気がする
大都会でひとは何処でしづかに坐つたらいゝのか
ひとり考えるための椅子はどこにあるのか》


しかし、ぼくがそのような場所の<椅子>を探すのは、かならずしも“ひとり考える”ためでは、ない。

“ひとり考える”他者(他人)を、見たいからである。






2010年8月

2010-08-31 10:11:23 | 日記


8月が終わる、この8月が終わる。

天声人語は月末の“今月の言葉”;

〈八月五日(日)晴れ〉。少女の日記は〈明日からは、家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う〉と結ばれている。13歳。原爆で亡くなる前日だった。平和と安穏を求める8月の言葉から▼広島の平和記念式に米国大使が初参列した。東京都に住む被爆者、野村秀治さん(78)は「行動」に期待する。「見たいのは、『核のある世界』の幕を開けた米国が核廃絶の先頭に立って行動する姿です。その時、私は初めてあの国を許せる」▼長崎の式では、地元高校の山下花奈さん(17)が司会を務めた。曽祖母(93)に惨状を聞いて育った被爆4世。「私は、被爆者の声を聞ける最後の世代かもしれない。原爆の恐ろしさを5世、6世にも伝えていきたい」▼イラク戦争で殺された市民を数え続けるNGOの設立者、ハミット・ダーダガンさん(49)。「理不尽に殺された人たちをカウントするのは、その死を記憶にとどめ、弔うことでもある」。テロを含め10万人、なお増加中▼その戦争に反対する国連演説で注目されたドミニク・ドビルパン元仏外相(56)は「米国人が大好きだから、直言する義務があると感じた」と振り返る。「私の声ではあったが、同時に、世界中で戦争反対のデモを繰り広げた人々の声だと意識していた」▼「ここにいれば生活の心配はないが、暮らしを向上させたい。子どもにも夢と目標を持たせたい。生き直すため、日本へ行く」。ミャンマーで迫害を受け、タイの難民キャンプで暮らす少数民族の男性(24)だ。まず5家族が、戦争を65年していない国に渡る。(引用)



すなわち“8月”には、<戦争と平和>に関する言葉が発せられた。

すなわち、広島・長崎、イラク戦争、“65年間戦争をしていない国”である。

これらの<言葉>が固有名をもった言葉であるならば、そのひとつひとつは貴重である。
けれども、それらの“独自の言葉”を天声人語としてまとめてみせるとき、それらはすべて虚偽となる。

上記の文章では、最後の段落である。

なぜマスメディアは、このような気休めの結論を述べ続けるのか。
最後の段落で“65年間戦争をしていない国”に安堵を感じる人にとっては(そういうひとがいるならば)、<戦争と平和>も盆踊りや花火大会のような季節の行事・風物にすぎない。

上記天声人語を読んだだけで、明瞭なのは“米国”という戦争国家の現存である。

また、その米国と戦争し負けた国の<戦後>から<現在>につらなる奇妙にねじくれきった関係と時間である。

《「米国人が大好きだから、直言する義務があると感じた」》のであろうか?

つまり<戦争と平和>は、《米国人が大好きだから》とかいう次元にあるわけでは、ない。

《「理不尽に殺された人たちをカウントするのは、その死を記憶にとどめ、弔うことでもある」》

しかし“数”としてカウントされるほかない死者、そのカウントからも漏れてしまう発見されない死者をだれが弔うのか。

<体験>した人々、<生き残った>人々が死んでいくとき、<記憶>はどのように引き継がれるのか。


記憶すべきものは、“あの戦争体験”や“ヒロシマナガサキ”や“イラク”だけではない。

<戦争>だけではない。

もしこの65年が、日本にとって<平和>であるなら、その平和のなかで無残に死んでいった死者たちを、どうカウントするのか?

あるいはまた、“ぼくたち”には、“死者を弔う”余裕があるのだろうか。

ときには、<弔い>は、<忘却>の儀式である。

記憶せよ、記憶し続けよ。

しかしそもそも認識しなかったことを記憶することは、不可能である。

ぼくはいま<認識>という言葉を使った、しかしそもそも<認識する>とはいかなる行為か?
<体験する>、<経験する>とはいかなる作業か?

わたしが毎日ボーっと生きてきた、生きていることが、ただちに、<体験>であることも<経験>であることでも、ない、ことは、ぼくにも64年生きて、わかった(笑)

“私は必死で生きてきた”と思うことも同じである(もちろんぼくも、“時には”そう言いたい)

具体的には、この“戦後65年”、あまりにも多くの<人の名>が忘れ去られつつある。<注>

メディアに露出する<人の名>が、きわめて恣意的に限定されている。

この戦後を担った、多くの“人々”の存在が、マジックのように消されつつある。

現在巷で発せられる<人の名>は、ようするにテレビに出ているひとだけである。

だから<日本>はこんなにも貧困で、うすぺっらな社会となった。

<若者>どもは、単に無知である。

<老人>は、パソコンが苦手で、発言しない。

ゆえに、無知には限りがない、のである。


大学先生方に望む。

あなたたちの総力を結集して<日本戦後思想史>を書いてほしい。

それがあなたたちの職業的義務である。

もちろんそのためには、あなたがた自身が無知(無恥)であってはならない。






<注>

ここでぼくは少しも難解なことを言おうとしていない。

たとえば、“大岡昇平”、“日野啓三”、“大江健三郎”、“中上健次”、“丸山健二”という名をまったく知らないひとには、“大岡昇平、日野啓三、大江健三郎、中上健次、丸山健二”は、単に存在していないのである。

“渡辺淳一”や“村上春樹”や“阿部和重”や“金原ひとみ”は、存在しても(笑)

上記の<名>は、任意である(笑)

しかし上記の名が、<小説家>であることは、意図的である。
<日本戦後思想史>の“主力”が、小説家や文芸評論家であるとぼくは考える。

もちろん、たんに<名>だけ知っていればよいわけではない。
“小説家”なら、そのひとの小説を読まずばなるまい。

しかし<名>さえ知らないなら、そのひとは、日本史にも世界史にも、“存在していない”。

<忘却>というよりも、まったくの<無>(虚無、からっぽ、emptiness)である。






<追記>

たとえば<戦争>について考えるとき、<戦争と日本人>について考えるとき、大岡昇平の存在は、唯一ではないが、絶対に逸することのできない存在である。

それは大岡が『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』などの“戦争体験-戦争記録もの”を書いた“から”ではない。

彼の戦争を直接主題としない“表現を含む”すべての実存を、読む。



<追記2>

“ぼくが本当に若かった頃”、<希望>だったのは、何人かの時空を超えた“外国の人の名”であると同時に、<大江健三郎>と<吉本隆明>という名だったのだ。

しかしぼくは彼らを“信じた”のではなかった。







(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた

― 大江健三郎“火をめぐらす鳥”(『僕が本当に若かった頃』所収)に引用された伊東靜雄の詩の一節