★ 母は芸妓である自分が、押しかけるように、大岡の家へ来てしまったことについて、父はともかく、父の兄弟たち対して負い目に感じていた。(略)ただ父と共に、貧乏に耐えることで、母はその志を通した。すると持参金も縁故もなく、地主である大岡の家から見れば、元「醜業婦」(これが田舎の地主の言葉である)という負い目を持つだけの嫁になってしまったのである。
★ 自分の生んだ子の盗癖の発見は、母にとっては天地がひっくり返るような打撃であったに違いない。
★ 父の帰りのおそい日で、母は十畳の居間の火鉢の前で、編物をしていた。私は母の前に正座し、
「お母さん」と呼んだ。
「はい、なんですか」
とすぐ返事が返って来たが、母はそのまま編物を続けた。この時、母が顔をあげて、私の眼を見てくれたら、私は涙と共に告白していたろう。しかし母は下を向いたまま、編物の手を休めなかった。それは「お前がなにをいいたいのかわかっていますよ」といっているように見えた。「いわなくてもいいのですよ」と。
★ 明くる日、顔を合わせても、母はなにもいわなかった。「昨夜はどうしたのですか。お母さんになにかいうことがあったんじゃないの」とは訊かなかったので、私は母はすべてを知っていた、と感情的に判断しているわけである。そして死ぬまで私はこのことについて、母と話をする機会はなかった。
<大岡昇平『少年―ある自伝の試み―』(講談社文芸文庫1991)>
★ しかし彼が谷の向こうの兵士に答え、私がその薔薇色の頬を見た時、私の心で動いたものがあった。
★ それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感嘆であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆ど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。
★ 私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現した時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。
★ 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向こうの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)
★ 人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。
<大岡昇平“捉まるまで”―『俘虜記』(新潮文庫1967)>
* この『俘虜記』最初の短編“捉まるまで”の最初に歎異抄からの引用がある;
《わがこころのよくてころさぬにはあらず》
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