Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

2010-08-25 09:43:58 | 日記



Jean-Marie Gustave Le Clézio著作リスト(Wikipediaをベースに作成)

  参考;『ル・クレジオ 地上の夢―現代詩手帖特集版』思潮社2006年
     河出世界文学全集Ⅱ-09『トゥルニエ+ル・クレジオ』の巻末“ル・クレジオ主要著作りスト”


<小説>

· Le Procès-verbal (1963)(『調書』豊崎光一訳、新潮社1966年→新版2008年)
· La Fièvre (1965)(『発熱』高山鉄男訳、新潮社1970年)
· Le Déluge (1966)(『大洪水』望月芳郎訳、河出書房新社1969年→河出文庫2009)
· Terra Amata (1967)(『愛する大地』豊崎光一訳、新潮社1969年)
· Le Livre des fuites (1969)(『逃亡の書』望月芳郎訳、新潮社1971年)
· La Guerre (1970)(『戦争』豊崎光一訳、新潮社1972年)
· Les Géants (1973) (『巨人たち』望月芳郎訳、新潮社1976年)
· Voyages de l'autre côté (1975)(『向こう側への旅』高山鉄男訳、新潮社1979年)
· Mondo et autres histoires (1978)(『海を見たことがなかった少年 モンドほか子供たちの物語』豊崎光一、佐藤領時訳、集英社 1988年→集英社文庫 1995)
· Désert (1980) (『砂漠』望月芳郎訳、河出書房新社1983年→新版2009)
· La Ronde et autres faits divers (1982)(『ロンドその他の三面記事』佐藤領時、豊崎光一訳、白水社 1991年)
· Le Chercheur d'Or (1985)(『黄金探索者』中地義和訳、新潮社、1993年→河出世界文学全集2009)
· Printemps et autres saisons (1989)(『春その他の季節』佐藤領時訳、集英社1993年)
· Onitsha (1991) (『オニチャ』望月芳郎訳、新潮社1993年)
· Étoile errante (1992) (『さまよえる星』望月芳郎訳、新潮社1994年)
· Pawana (1992)『パワナ―くじらの失楽園』菅野昭正訳、集英社1995年)
· La Quarantaine (1995) 未訳
· Poisson d'or (1997)(『黄金の魚』村野美優訳、北冬舎・王国社2003年)
· Hasard : suivi d'Angoli Mala (1999) (『偶然 帆船アザールの冒険』菅野昭正訳、集英社2002年)
· Cœur Brûle et autres romances (2000) 未訳
· Révolutions (2003)(『はじまりの時』村野美優訳、原書房2005年)
· Ourania (2005) 未訳
· Ritournelle de la faim (2008) 未訳


<エッセイ・インタビュー>

· L'Extase matérielle (1967) (『物質的恍惚』(豊崎光一訳、新潮社1970年→新版岩波文庫2010/5)
· Haï (1971) (『悪魔祓い』(高山鉄男訳、新潮社1975年→新版岩波文庫2010/6)
· Mydriase (1973) 未訳
· Vers les icebergs (Essai sur Henri Michaux)(1978) 未訳
· L'Inconnu sur la Terre (1978) (『地上の見知らぬ少年』 、鈴木雅生訳、河出書房新社2010)
· Trois villes saintes (1980) 未訳
· Voyage a Rodrigues (1986) (『ロドリゲス島への旅』中地義和訳、朝日出版社1988年)
· Le Rêve mexicain ou la pensée interrompue (1988)(『メキシコの夢』 望月芳郎訳、新潮社1991年)
· Diego et Frida (1993)(『ディエゴとフリーダ』 望月芳郎訳、新潮社1997年)
· Gens des nuages (1997)(妻Jemia Le Clezioとの共著、『雲の人々』=“現代詩手帖特別版”に村野美優の抄訳)
· La Fête chantée (1997) (『歌の祭り』 管啓次郎訳、岩波書店2005)
· L'Africain (2004)(『アフリカの人 父の肖像』菅野昭正訳、集英社2006年)
· Raga (2006) 未訳
· Ballaciner(2007) 未訳
· Conversations avec J.M.G. Le Clézio (1971)(『ル・クレジオは語る』 望月芳郎訳、二見書房1974年)
· Ailleurs (1995)(『もうひとつの場所』 中地義和訳、新潮社1996年)


<児童書>

· Voyage au pays des arbres (1978)(『木の国の旅』H.ギャルロン絵、大岡信訳、文化出版局1981年)


<翻訳>

· Les Prophéties du Chilam Balam (1976)(『マヤ神話 チラム・バラムの予言』望月芳郎訳、新潮社1981年)
· Relation de Michoacan (1985)(『チチメカ神話 ミチョアカン報告書』望月芳郎訳、新潮社1987年)







★人々が言葉を使用し、それを白い紙の上に並べたとき、人々はそのことに気づかなかったが、じつは紙の上に並べていたものは貝だった。

★根と蔓と茎と枝と葉脈のほぐしようのない絡みあい。鏡はない。(自分の姿は見えない)。まなざしは、例外的な地点、支点とすべき唯一の場所を空しく求める。まなざしはそれを見つけられない。目は果実なのだ。

<ル・クレジオ『悪魔祓い』>






ただひとつの生命の形

2010-08-25 09:42:37 | 日記


★ 意識の真実はイマージュではない、正義の観念への漠然たる憧れではない。意識は、そこに含まれた現実的なもの、直接的なもの、明証的なものを伴う、一つの感情である。

★ それは存在の、自発的な、それ以上完全化しえない、変質させえない、そして何よりも不動な、認識である。純粋状態における知、分析や精神の行う分割などに還元することができない知である。意識のいくつかの形態があるのではない。ただ一つの形態があるだけなのだ。

★ 断じて言語がこの明証性を再建することはできまい、なぜなら言語は解釈であり、疎外であり、行動であるからだ。われわれが見抜かねばならぬものは、言語や行為の裏に、人間の事業(わざ)の裏に隠されている。到達点を知るためには、われわれは出発点に戻らねばならぬ。生の(なまの)現実と、純粋な現実の再獲得とのあいだには、言(ことば)の長い旅がある。



★ このもう一人の女、顔はやさしく、子供っぽく、眼はうるんで深みがあり、額は秀でて澄んでいる、この生きた女を、ぼくはぼくの世界の中に残しておくべきなのだろうか?彼女は目の前にいて、ぼくに話しかける、そしてぼくはその言うことに耳を傾ける。

★ ・・・・・・眉毛、まつ毛。弓なりの、しっかりした肩、男の肩でもなく、子供の肩でもない、女の肩だ。腹、ちょっと脂肪がつき、脆い感じで、ここを負傷すれば致命的、そして深くうがたれた、激しい、エロティックな臍、それは無邪気ではなく、まさに知の眼であるように思われる、時間と空間とを越えて、大いなる神秘の起源と結ばれている知の。・・・・・・純毛に覆われた恥骨。幅広く逞しい腿、それはたとえ何も踏まえずに横になって憩っているときでさえ、一つの世界を支えているように見えるほどだ。・・・・・・



★ なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか?いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならない。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。

<ル・クレジオ“無限に中ぐらいのもの”―『物質的恍惚』(岩波文庫2010、原著1967)>