Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

この世界について(この世界のなかで)語られたこと-C

2010-08-05 16:25:28 | 日記


今朝書いた;
《また言葉は、レトリックの使用に熟達することではない。
また当然、言葉は、“単語”ではない、キャッチ“フレーズ”ではない。
言葉は(最低)、単語と単語の連なり(連結-関係)である。》


われながら、まずい、ぎこちない表現である。

たとえば、宇野邦一はこう書いている;

★ ある状況の中では、言葉は声にまできりつめられる。意味を成立させるための最小条件が失われてしまっているときである。たとえば、収容所のなかでの独語。やがて言葉は声からも見放される。声も意味も失った言葉は、それでもまだ言葉だろうか。
<『破局と渦の考察』(岩波書店2004)>


こういう“極限的思考”はただしいか?

ぼくは、こういう極限的思考を、“すべきでない”とは思わない。
だが、(ぼくも時々やってしまうが)、《たとえば収容所のなか》というような“比喩”はただしいか。

この場合少なくとも二つのことが“言われている”;

① ほんとうに“収容所”(しかしどのような収容所?)にいる場合
② たとえば、“現在の日本人は結局収容所にいる”というような認識

しかし、①と②は、ちがうと思う。

ぼくが実際に収容所に収容されていたら、たしかに“言葉を失う”こともある、と思える。

しかしぼくは現在、こういう(シベリアやアウシュビッツの)“収容所”にいるのではない。
“収容所のような”場所にいるだけである(笑)

だから、こういう極限における“言葉”(についての)思考を、なぜ“わざわざするのか?”という疑問が生じるのである。

ぼくは宇野氏のようなひとが好きだが、どうもこういう“極限を想定する思考”というのにも、嘘くささを感じてしまう。

やはり“観念論”ではないか?


ぼくが《また当然、言葉は、“単語”ではない、キャッチ“フレーズ”ではない。言葉は(最低)、単語と単語の連なり(連結-関係)である》と書いたのも、抽象的であった。

つまりこういう“抽象”があるのではない。

たとえば、中上健次の文章を読むから、上記のようなことが実感されるのである。

まず“理屈(理論)”があるのではない。

まず具体的な現実の言葉の連なりがあり、それを“読む”から、言葉があることが、わかる。

また、それら他者の言葉が、どこまで自分の言葉となるか、あるいは、ある極限において“それらの言葉”がどこまで“有効”であるかは、“あらかじめ”予測できない。

もちろん、ある極限においては、他者の言葉も自分の言葉も、すべて失われることも、“想像”できる。


どうも宇野邦一氏は、映画については柔軟なのに、“政治-社会的なこと”を論じると、あまり面白くない。

この引用した文章の直前にある“吉本隆明論”もダメである(笑)

ぼくは吉本の“外に開く可能性”を感じたから何十年も吉本をフォローし、自分がどこにも行けないことに気づいた(笑)

宇野氏は自分で言っている;

★ 彼(吉本)が実際にどこまで外の人であったかは、わからない。しかし、この人の本と思索は、読む者の精神にそのような地平を開いたのだ。彼の影響を受けて何を考えるか、ということよりも、このような地平が開かれたこと自体が、稀有な効果をもたらした。
(引用)


つまり、吉本は読むものの地平を開くが、吉本の“思索”自体には、“内容がない”ということである(笑)

ぼくはとっくに吉本を読むのを止めたので、ここで宇野氏が扱っている吉本隆明『母型論』は読んでない。

その『母型論』からの引用がある;

★ 超近代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない(引用)


ああ、あいかわらずである(爆)
あいかわらず、大げさであるのである。

どうして宇野邦一のような繊細なひとが、上記のような“文章”に耐えられるのであろうか!(これが、ぼくもひっかかった、吉本マジックであった)


ちょっと待ってよ。

ぼくが“アジア的”という概念に“目覚める”のは、中上健次の“文体”によってであった。

つまり、ぼくが<単語と単語の連なり(連結-関係)である>と言ったのは、そういう“意味”である。



またこの文章で宇野氏が引用している“高度資本主義社会では、消費者=大衆(の原像)のイニシアティブが支配体制を解体させる”という吉本“理論”は、まったくのナンセンス!だと考えるが(だから、ぼくは吉本と“別れた”)、これについては、もう疲れたので述べない。




要するに、ぼくにとっては、吉本隆明と中上健次は、まったくちがうのである。

ぼくには、中上は吉本より100倍くらい繊細に思える。

”繊細であること”が必ずしも良いことではなくても。





<夕方追記>

今日はたまたま熊野純彦というひとの文章も読んだ(市村弘正『敗北の二十世紀』解説)
短い文章である(暑いので長い文章は読めない;笑)

それで思うのだが、現在日本の“優秀な書き手”というのは、ナイーブであるか“調子が良い”のである(笑)、もちろんこれが入り混じっているのだが。

宇野邦一や熊野純彦の“文章”は、ナイーブな感じがする(“人柄”は知らない)、ほめているのではない(爆)

大澤真幸や東浩紀は、調子がよい(かならずしもけなしていない)

まあ、どっちも吉本隆明のような古狸ではないので、とうぜん、“若い”感じはする。

しかし宇野氏はぼくと2歳しかちがわない、やっぱこれは、サラリーマン人生と大学先生人生の<差異>なんだろうな。

こういう“実証主義(リアリズム)”は、つまらないが。





サドは退屈である

2010-08-05 11:20:03 | 日記

“サドは退屈である”といっても、“サド侯爵”がどういう人であり、どういう本を書いたか知らないひとには通じない。
“サディズム”の語源になったひとである。

ぼくはエキセントリックなものや、“過激なもの”や、“普通でないもの”が好きなのでは決してない。

“きちがいじみたもの”が好きなのではない。
だからサド、ニーチェ、バタイユ、アルトーというような人びとを“過剰に評価する”人々に組しない。

たとえば、1950年代のフランスに、“ヌーボロマン”とか“アンチロマン”とか呼ばれた一群の作家が現れたが、そのなかでぼくが好きなのは、“いちばん穏健な”ビュトールである。
ソレルスなどという“女たらし”は好きになれない(笑)

デュラスは<女>であり(爆)、ちょっと離れた位置にいた(と思う)
ル・クレジオはもっと後の世代であり、彼が“アンチロマン”についてどう考えていたか知らない(たぶん関心がなかったのだ;笑)
つまりル・クレジオは、“アンチロマン”からも隔絶していた。


加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』に以下のような文章があった;

★ メルロ=ポンティの生涯には、常軌を外れた「逸話」はない。いや、あろうとなかろうと、それ自体において意味はない。そうでなければ、なぜ、あれほど退屈な日々をおくったカントなんぞが、あれほどにも根本的な思索に達することができたのか。あるいはまた、なぜ、あれほど波瀾万丈の人生をおくったサド侯爵が、たかだかあの程度の月並みな思索にとどまっていたのか。その理由さえわからない。


上記の文章は加賀野井氏の文章だが、このカントとサド侯爵の対比は、メルロ=ポンティ自身のものであり、上記引用個所の直後にメルロ=ポンティ“エロティシズムについて”からの引用がある。

そこでこの“エロティシズムについて”を読んで見た(『メルロ=ポンティ・コレクション4 間接言語と沈黙の声』;みすず書房2002)

翻訳で4ページしかない短い文章。
ぜひ“原文”を参照してほしい(“引用”は疲れた;笑)


ちょっと“さわり”を引用しようか(笑);

★ エロティシズムは、知的勇気および自由の一形式であろうか?

★ けれども(『危険な関係』の色魔)ヴァルモンはどうなったろう?セシルの無垢がなかったら、法院長夫人の貞節がなかったら。彼とても手の出しようがなかったろう。

★ 悪しき感情は良き感情がなかったらどうなるのだろう?冒涜の快楽は偏見と無垢を前提としている。

★ (シュルレアリストたちの)巫女の言葉は摩滅するのだ。長持ちのする言葉はわれわれの喉のなかでそっくり準備されているわけではなく、生きそして語ろうとする試みを通じて整えられていくものなのだ。

★ われわれが知っているサディストたちはお人よしであることが多い。サドの手紙には、世間の評判のまえにおどおどして愚痴をこぼす彼の姿をしのばせるものがある。ラクロもサドもフランス革命のあいだに魔王(サタン)の役を演じはしなかった。

★ われわれの知っている大色情狂(エロチック)はかならずペンを手にしている。つまり、エロティシズムという宗教は文学的な事象なのかもしれない。

★ エロチックではないが、もっと率直で勇敢な作家は、彼本来の任務をすこしも回避しない。その任務とは、たったひとり共犯なしで、徴(シーニュ)の生を変えることである。

★ しかも、歴史と対決する人がこれまで一度も情熱と対決したことがなかったり、放縦なふるまいをする人がありきたりの考え方をしたり、一見世間並みに暮らしている人の思想が万物を根こそぎにしたりするものなのだ。
(以上引用)


こういう文章を読むと、ぼくには日本でもサドの翻訳家だった“黒眼鏡”のひとの肖像が浮かぶのである。
ぼくは彼も、サドの本(たくさん読んだのではないが)も嫌いだった。
というより、“サド・ファン”が嫌いである。


《一見世間並みに暮らしている人の思想が万物を根こそぎにしたりするものなのだ》


そうかどうかぼくは知らないが、<ラディカルな生き方>というものも、誤解されている。

ぼくは中上健次が“過激だから”好きなのではないし、大江健三郎が“温厚になったから”好きなのでもない。

また村上春樹が、“一見世間並みに暮らしている”とは思わない(笑)


ただこれらの<名>によって表出された“文章”(しかもその“変遷”を)支持する;

メルロ=ポンティ、デュラス、ビュトール、ル・クレジオ、大江健三郎、中上健次。


もちろん検討中の人びとがいる;

ベンヤミン、アーレント、フーコー、ドゥルーズ、サイード、柄谷行人、宇野邦一、立岩真也、“現代世界文学”……である。

そして<思想史>と<ドキュメント(ノン・フィクション)>がある。



《エロチックではないが、もっと率直で勇敢な作家は、彼本来の任務をすこしも回避しない。その任務とは、たったひとり共犯なしで、徴(シーニュ)の生を変えることである。》

という文章における<徴(シーニュ)>という言葉=概念は、わかりやすくいえば、<言葉>のことであると言っていいと思う。






この世界について(この世界のなかで)語られたこと-B

2010-08-05 08:23:35 | 日記

☆ 高齢者不明―調査だけでは解決しない(朝日新聞社説)

☆ 長寿社会・日本は、実は、孤独地獄だった?(読売新聞‘あらたにす’編集局から)



なんか変だよ。

朝日新聞や読売新聞は、<この世界>を反映している“だけ”なのだろうか?

朝日新聞や読売新聞は、<この世界>に加担しているのではないのか。









この世界について(この世界のなかで)語られたこと

2010-08-05 08:01:07 | 日記


一方に“歴史認識=世界認識”があり、もう一方に“どうやって自分自身になるか”といったような<問題>があるのだろうか。

そうではないと思う。

すでにこの歴史認識=世界認識が“与えられている”ひとにとっては、“どうやって自分自身になるか”というような問題は、そもそも存在しない。

<私>は、あらかじめ<歴史>に場所を占めている(という間違った確信のもとに“生きれる”から)


<問題>はひとつであり、それは“言葉の問題”である。
しかしただちに、この“言葉の問題”という言葉が、誤解されている。

言葉は、事実を正確に写し取るものではない(これはカメラと同じだ)

また言葉は、レトリックの使用に熟達することではない。
また当然、言葉は、“単語”ではない、キャッチ“フレーズ”ではない。
言葉は(最低)、単語と単語の連なり(連結-関係)である。

また“言葉にならない”ほどの感動とか、“言葉を喪う”ような事態も、言葉である。
“言葉が必要ない”恋人たちの無言(そういうものがあるのなら)は、言葉である。


“戦後”のひとつの“論点”は、“テクストなのか歴史なのか?”ということであった。

まず、この“テクストなのか歴史なのか?”という論点を、よく認識していただきたい。

簡単に言えば(ぼくが簡単にしか認識していないから;笑)、フォークナーという作家を読む時(別にフォークナーでなくともよいが、夏目漱石でも)、フォークナーの“テクスト”を(だけを)読み込むのか、フォークナーというひとの“伝記”を参照するか、という“方法”のウエイトの問題である。

つまり過激な(徹底した)“テクスト派”は、伝記(そのひとの具体的生涯のあれこれ)を“排除して”テクストのみを読むことに集中しようとした。

たとえば、“具体的生涯”において、凡庸なラヴレターばかりを書いたひとの作品(テクスト)が、時代を画する“テクスト”であることもあるからである。

あるいは、単純に、ぼくたちがある作家や思想家を<読む>のは、あくまで“そのテクスト”であって、その人がどういう人生を送ったか、ではないからである。

あるテクストの“読み”に、それを書いた人の“現実”についての情報が混入することは、そのテクストの“読み”を混濁させることもある。

たとえば、ある作家や思想家には、“すでに書いた自分の本”があるのであって、自分の本と自分の“伝記”を関連させてほしくないという“要望”もある。
だから、自分の死後の伝記を拒否した思想家・作家はたくさんいる(フロイト、バルト、フーコとか)

しかしそうもいかないのである(笑)


ある著述家の“ゴシップ”が暴露されることによって、その著述家の“テクスト”の価値が、暴落することがあるにせよ。

この典型的な例は“不倫”の発覚であり、出自の非正当性であり、近年では“ナチス”や“戦争”への加担である。

しかし、<テクスト>も、その人の人生も、結局“言葉”で記述され、言葉で語られる(ほかない)

もちろん、マックス・ウェーバーの不倫とか、ヴァレリーの不倫とかが、彼らの“テクスト”の価値を、単純に上げたり下げたりするわけではない(つまり“上げる”場合もあるのである;笑)

しかしそれらの生涯は、テクストに反映していると思う(“哲学者”の場合さえ)
本を書くときは、私は別の人になるにしても。

加賀野井秀一『メルロ=ポンティ 触発する思想』によって、ぼくはメルロ=ポンティが“母の不倫の子”であった可能性をはじめて知った。

もちろんそういう“事実”が、彼の思想を決定したのではない。
けれどもメルロ=ポンティは、ぼくにとってさらに魅力的になった。


どうも“論旨がズレた”感じがする(笑)

まあ、きょうも朝から暑いですから(脳膜メンマ!)


結局、ぼくが言いたいのは、世界を公平公正に記述する“客観的な言葉”と、“わたくしの言葉”との、言葉の使用の、“あらかじめの”使い分けは、言葉を腐らせるということです。