★ こうして「この全国民の応援」を軍部が受けるようになるまで、くり返しますが、新聞の果たした役割はあまりにも大きかった。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかったんです。そして満州国独立案、関東軍の猛進軍、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。それは雑誌「改造」で評論家の阿部慎吾が説くように、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したといっても大過なかろう」という情況であったんです。マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。
★ そして昭和7年3月には満州国が建設され、9月8日に本庄軍司令官以下、三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らが東京に帰ってくると、万歳万歳の出迎えを受け、宮中から差し回しの馬車に乗り、天皇陛下にこれまでの戦況報告をします。黙って聞いていた天皇は尋ねます。「聞いたところによれば、一部の者の謀略との噂もあるが、そのような事実はあるのか」。これに対して本庄は「あとでそのようなことを私も聞きましたが、関東軍は断じて謀略などやっておりません」とぬけぬけと答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と言ったようです。
★ すでに申しましたように、この人たちは本来、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり、男爵となる。石原莞爾は連隊長としていったん外に出ますが、間もなく参謀本部作戦部長となり、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました。字義通り、「勝てば官軍」というわけです。
★ 昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。
<半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社2004)>