Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

新聞がいっせいに太鼓を叩く

2010-08-30 22:27:56 | 日記


★ こうして「この全国民の応援」を軍部が受けるようになるまで、くり返しますが、新聞の果たした役割はあまりにも大きかった。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかったんです。そして満州国独立案、関東軍の猛進軍、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。それは雑誌「改造」で評論家の阿部慎吾が説くように、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したといっても大過なかろう」という情況であったんです。マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。

★ そして昭和7年3月には満州国が建設され、9月8日に本庄軍司令官以下、三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らが東京に帰ってくると、万歳万歳の出迎えを受け、宮中から差し回しの馬車に乗り、天皇陛下にこれまでの戦況報告をします。黙って聞いていた天皇は尋ねます。「聞いたところによれば、一部の者の謀略との噂もあるが、そのような事実はあるのか」。これに対して本庄は「あとでそのようなことを私も聞きましたが、関東軍は断じて謀略などやっておりません」とぬけぬけと答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と言ったようです。

★ すでに申しましたように、この人たちは本来、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり、男爵となる。石原莞爾は連隊長としていったん外に出ますが、間もなく参謀本部作戦部長となり、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました。字義通り、「勝てば官軍」というわけです。

★ 昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。

<半藤一利『昭和史 1926-1945』(平凡社2004)>





水の夢

2010-08-30 20:24:57 | 日記


この夏はどこへも行かない(行けない)

外出すると街路は燃えている。

夜もじっとりとまといつく。

首から上、が、いつも茹ったようである(赤むくれの奇怪な頭部にふたつの溶け出しそうなうるんだ穴)

ややオーバーに言うとここ1ヶ月、自分が夢遊病のように生存している気がする。

たしかに机の前では、<本>という紙をひろげて、水を夢見ることはできる。

海、川、湖、雨に濡れた舗道、雨上がりの水溜り。

胎児は水のなかに浮かんでいる、人間のからだはほとんど水である、人類文明は大河の流域で生まれた。

水、水、水、水、水、水が・・・・・・

水気の多い果実、水気のおおい肉体(笑)

水。

青、緑。

透明な、ゆらめく光、輝き、プリズム、洪水、決壊する堤防、決壊するダム。

ぼくのこころの水位も上がる、あるいは、乾燥しひび割れた割れ目に残留する、水。

water in my hand





人間の不遜(ふそん)さ;Here comes the flood

2010-08-30 14:08:12 | 日記

★ また最近のユーフラテス流域の発掘調査によって、大洪水の跡が発掘されており、このノアの洪水の物語の核は、チグリス、ユーフラテス川の氾濫の記憶に基づいた、必ずしも架空のものではないとも考えられる。またバベルの塔は当時のバビロンの神殿の巨大な塔を指しているかもしれない。しかしこのような史的考証は、たとえそれらのことが確認されたとしても、それは聖書の核心に触れたことにはならない。それよりも、イスラエルの民はメソポタミヤやエジプトの文明の中に、人間の不遜さを嗅ぎとったのであろう。その人間の不遜さや奢り(おごり)への警告が、バベルの塔やノアの洪水の物語の背後にある。そして人間の不遜さは現代文明の問題でもある。

★ アブラハム、イサク、ヤコブの族長物語は神話ではなく伝説である。イスラエルの民は遊牧民であった。そしてそのことが彼等のメソポタミヤやエジプト文明に対する批判の遠因である。チグリス、ユーフラテス、またナイルというような大河流域に栄えた古代文明は、肥沃な大地の上に営まれる農耕文化であった。カルチャーの語源は「耕す」である。その場合、宗教は当然土地に結びつき、その神は豊饒と生産の神になる。そして人間は自然を通して神と結びつく。このような文化を劣った文化であるとするいわれはないが、それが古代社会でのように、土地と支配者と奴隷的農民という制度で維持されるようになると、いろいろな形で人間の堕落をもたらす。支配階級の人間の不遜さということもその一つである。

★ それに対して遊牧民は土地に結びつかない。草を求めて荒地を移動する。宗教も、土地に結びついて聖所に安置される神ではなく、部族の歴史を通して人間に結びつくようになる。その神も、豊饒と生産の神というよりも倫理的な性格の神になる。何故なら、荒地と太陽というきびしい自然の中では、人間は自分の態度をはっきりさせなければ生きていけないからである。自然との協調よりも、きびしい環境の中での決断が要求されるようになるのである。

<小田垣雅也『キリスト教の歴史』(講談社学術文庫1995)>






★ だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。

<M.オンダーチェ“泳ぐ人の洞窟”―『イギリス人の患者』>





哲学は実用品じゃない

2010-08-30 09:46:17 | 日記


今日の読売編集手帳を読んでください;

哲学の庶民への普及を理想に掲げた哲学者の井上円了が、東京・中野に道場を開設したのは今から約100年前のことだ。現在は哲学堂公園として整備され、地域の憩いの場となっている◆カントや孔子らの業績を伝える四聖堂や散策路が当時の面影を伝えている。古今東西の哲学を体感できる“テーマパーク”のような施設だったのだろう。だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた◆その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授の「これからの『正義』の話をしよう」の邦訳本がベストセラーとなっている。先日、東大・安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった◆オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。哲学とは何かについて改めて考えさせられる。(引用)


ポイントは、

① だが、円了の理想とは裏腹に、哲学は実用性に乏しい学問と受け止められてきた。
② その誤解が、今ようやく解かれつつあるのかもしれない。
③ オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――。教授はカントやベンサム、アリストテレスらに依りながら問題を整理して論じていった◆古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している。
④ 哲学とは何かについて改めて考えさせられる。


要するに<哲学>には、実用性があるか、そうでないのかがテーマである。

読売新聞は《米ハーバード大学で人気の哲学講義を持つマイケル・サンデル教授》の本が日本でベストセラーになり、《安田講堂で行われた教授の特別授業も、約1000人の聴講者で満席となった》ということだけを根拠に、《古典哲学が現代の複雑な問題に論理的な回答を用意している》と結論づけている。

ぼくはマイケル・サンデル教授というひとをまったく知らないが(笑)上記のような結論付けが<哲学的でない>ということを感じるほどには、<哲学>にこだわっている。

どうして<哲学>は、《オバマ大統領は広島、長崎の原爆投下に責任があるのか。所得格差の拡大をどう考えるか――》などという“問題”に解答を与えなければならないのか?

<哲学>とは、その程度の<問題>を“整理し、回答するため”に存在してきたのだろうか?

まさに、《哲学とは何かについて改めて考えさせられる》。

しかしこの場合、《改めて》という言葉は、これまでに“哲学とは何か”について考えたことがあるとか、“哲学とは何か”について(ずっと;笑)考えてきたことを意味する。

上記の読売編集手帳の“文章”には、そういうことが微塵も感じられない。

すなわち、<哲学>というのは、<文章>のことである。

<古典哲学>を整理・応用すれば、“現在の問題”が解決できるという“哲学の実用性”こそ、<哲学>に対する完全な無理解である。

<哲学>は、《論理的な回答》ではない。<注>

まったく何もわかってないひとに、文章を書いてほしくない。

それとも、“わかっちゃいるけどやめられない”のであろうか。

馬鹿!






<注>

たとえばカントにとっては、<哲学>は、理性-批判である。

理性自体への批判である。