世の中には、“きもちの悪い文章ときもちの良い文章”というものがある。
なにをきもちの悪い文章であると感じ、なにをきもちの良い文章と感じるかは、そのひとのセンス(感覚)である。
そして、そう感じるとき、それがその文章の“表現”であるのか“内容”であるのかは、もちろん問題である。
ただ、極端な場合、その文章の内容に共感できても、その文章自体に嫌悪を感じてしまうということもある。
この場合、その文章の“表現”が“内容”を裏切っているという、文章作法のテクニックの問題なのであろうか。
そういうこともなくはないが、やはりそういうことではないと思う。
実は、文章とは、そのひとの“内容”と“表現”が必ず渾然一体と“なってしまう”ものなのである。
だから“文章”は恐ろしい。
今日の天声人語を読んで、そう思った。
引用しない(爆)
書き出しはこうである;
《名を成した人の親なら、子育て自慢も許されよう。半世紀も「偉人の母」でありながら、控えめを通したこの人は稀有(けう)な例である。世界のホームラン王、王貞治さん(70)の母登美(とみ)さんが108歳の天寿を全うした》