Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

絵を描くりえと、ウィリアム・モリス;ラディカルなデザイン(生)

2010-04-12 13:06:34 | 日記


☆ このブログのタイトルを見て、わからないひとがいると思うので説明する。
“絵を描くりえ”というのは、おとといぼくがNHK・BS2で見た宮沢りえのケニヤ滞在ドキュメントの再放送(2005年に撮られた)のことである。
ウィリアム・モリスというのは、あのアート&クラフト運動の人であり、みなさんもなんとなく知っている(だろう)人である。

☆ しかしこの両者が“○○と××”とタイトルに書かれているからには、この両者になんらかの“関係”があるのだろうか?
たとえば“現在”、宮沢りえが絵を描くことと、ウィリアム・モリスを対比して、なにかぼくが“文句を言う”のだろうか。
そういうことではないのである。
この組み合わせは<偶然>である。
ぼくが宮沢りえを見たのは、彼女が好き(好きだった)からであり、ウィリアム・モリスに関心を持ったのは、柄谷行人『隠喩としての建築』後記に出てきたからだ。

☆ その部分を引用する;
この点で、たとえば、アート&クラフト運動によってバウハウスにも大きな影響を与えたウィリアム・モリスを例にとろう。彼は、イギリスの最初のマルクス主義者の一人であった。彼がフェビアン主義(ベルンシュタイン的な社会民主主義の源泉)を否定したのは当然だが、ボルシェヴィズムを受け入れないだろうことも間違いない。今日、人はモリスにマルクス主義と異なるユートピア主義を見ているが、むしろそこに晩年のマルクスの考えに近いものを見るべきなのである。たとえば、『フランスの内乱』や『ゴーダ綱領批判』などの仕事が示すように、マルクスの考えはむしろプルードン的なアソシエーショニズムに近かった。一方、いわゆるマルクス主義(社会民主主義であれボルシェヴィズムであれ)は、マルクスの死後エンゲルスによって形成されたということができる。

☆ それで、ウィリアム・モリスについての本を持っていることを思い出した。
妻がむかし買った小野二郎『ウィリアム・モリス ラディカル・デザインの思想』(中公文庫1992)である。
この文庫自体が1992年の刊行と“ふるい”が、この本は元々中公新書で1970年代はじめに刊行された。
著者の小野二郎氏は1982年に死去されている。
この小野二郎という名には記憶があった、ぼくが大学時代、目覚しい出版社であった(現代思潮社とともに)晶文社の設立者のひとりである。
晶文社は現在もあるが、あの当時のかがやきはない。

☆ いま“あの当時”といったが、この小野二郎氏の本を読んで、まさしく“あの時代”を喚起された。
あまり“わかりやすい文体”ではないのである(かなり“思い入れ過剰”な文体といえばよいか)
しかし、逆に言えば、“あの時代”には、“思い入れる”思い、というものがあったのだ、と思い出す。

☆ アフリカ(ケニヤ)での“りえ”は、あまり“アフリカ観光”をしないで、ひたすら絵を描き続けた。
これはある意味では、とても贅沢なことである。
なぜアフリカまで来て、延々絵を描くりえを写し続ける番組をNHKは作成したのかという苦情はこなかったのだろうか(笑)
しかし、もちろん、ぼくにとってこの番組は、まれに見る“よい番組”であった。
しかし、ただひとつ残念なのは、“りえ”に、“ウィリアム・モリスを知っていますか?”という質問を発するひとがいなかったことだ。
もちろんこの“ウィリアム・モリス”は、比喩である。
ぼくは“りえ”をよく知らないが(あたりまえだ、個人的にお付き合いがない)、彼女は最近のニッポンゲイノー界では、比較的“自然な女”に見える。
ただし、まさに残念なのは、彼女の周辺には、“ある種の人間”しかいないことだ。

☆ 小野二郎『ウィリアム・モリス』から引用する;
実は、私はモリスの思想を趣味の体系として理解することは、その本質に迫る正しい道だと信じている。「趣味」というスタティックな言葉をあえて用いるのは、モリスが人間生活の本質を「生活の質」の感覚からつかまえているからであり、その生活の質感は一先ず(ひとまず)人々のいう「趣味」と同じ感覚の場で働くからである。このいわばラディカルな趣味の体系とおのれの趣味とを交わらせようとするなら、その趣味はその人のいのちの根本にかかわるものでなければなるまい。だから浅く体系化してその上で趣味化するとは、このプロセスのちょうど正反対を行うことである。ここで大切なのは思想の趣味化ではなくして、趣味の思想化であるのだから。

☆ 上記のような文章を、ひとは、“理屈っぽい”と感じるであろうか。
“りえ”はそういうことは、言わないのである(笑)
しかし小野二郎氏も単に上記のような理屈を“述べたがっている”のではなく、かれの“本作り“の実践において考えているのだ。
当時(1960年代後半)の晶文社の本は、その“内容”だけでなく、その“デザイン(装丁)”も魅力的だったのだ、

☆ さらに小野二郎引用;
モリスは「役に立つ」(ユースフル)ということを、ほとんど宇宙の呼吸のリズムを新しくすることのようにいっているのである。

☆ ぼくは高校生の頃、ある文庫本が大好きであった。
それはSFでも大江健三郎でも(笑)なかった。
とっくになくなった“現代教養文庫”の『インダストリアル・デザイン』という本(だったと思う、数冊に分冊されていたと思う)
要するに、日常に使用する製品のデザイン(良いデザイン)を集めた本だった。
つまり、“装飾”や“芸術”ではない、“ユースフルなアート”である。

すなわち、ぼくたちの“日常”が、美しく機能的なモノで満たされること。
すなわち、ぼくらの生活が、“趣味のよい”ものになること。

しかしモリスは、“それ”を、
《宇宙の呼吸のリズムを新しくすること》のように考えたというのだ。

ぼくは、せめて、“世界の(地球の)”呼吸のリズムを新しくしたいと思う。
あるいは、“この場所=日本”の呼吸のリズムを。

《ラディカル・デザイン》

まさに《ラディカル》という言葉が、この言葉こそ、核心なのだ。

宮沢りえさん、ぼくの意見に賛同していただけますか?





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