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wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

僕の読書ノート「食と健康の一億年史(スティーブン・レ)」

2019-09-08 11:07:43 | 書評(進化学とその周辺)


帯に、ジャレド・ダイアモンド絶賛!!などと書かれているので、間違いないだろうと思って買ってしまったが、ちょっと判断を誤ったか?当初、食の進化の系統的な説明を読みたいと思っていたのだが、いざ読んでみると旅のエピソードやら様々な説やらがグルグル渦巻いていて、結局結論はなんだったんだ?という感じが最初から最後まで続く本であった。それでも、興味深い内容はいろいろと抽出できたので、気を取り直してなんとかまとめてみる。

本書は、著者の自然人類学の研究のための世界の旅で得たたくさんの知見や、食に関わる多くの人たちへの取材で得られた情報を絡めながら、食の健康への影響を考えていく。現代では、食が関連して数多くの健康問題が浮上してきているが、それを解決する上で非常に重要なことが「進化」の視点であるという考えのもと、論考が進められていく。本書で対象とされているのは、昆虫食、果物、肉、魚、植物性食品、アルコール、乳製品、アレルギー・感染症、肥満、伝統食である。

昆虫食:昆虫はかつて人間社会の主要なカロリー源だった。昆虫には必須アミノ酸、オメガ3、オメガ6脂肪酸、ビタミンB、βカロチン、ビタミンE、カルシウム、鉄、マグネシウムなどが含まれ、それらの含有濃度は肉を上回る場合もある。そして、食用昆虫の養殖は、環境への影響がずっと少ない。コオロギは、体重1単位量を増やす際の二酸化炭素排出量が畜牛の50%で、飼料を効率的に食料に変換する割合は、鶏の2倍、豚の4倍、畜牛の12倍だという。あなたも自分好みの昆虫を見つけて食べていいのだと勧めている。

果物:スティーブ・ジョブスのすい臓がんは、彼が実験的に行っていた極端な果食主義と関りがあると推測する人たちがいる。映画でスティーブ・ジョブス役を演じる役作りのために1ヶ月間果食主義を続けた俳優のアシュトン・カッチャーはインスリンとすい臓の異常で入院することになったという。

進化における遺伝子の変化:
①我々の霊長類の祖先はビタミンCを合成する能力を失った。ビタミンC合成の最終段階に関わる酵素GLO(Lグロノラクトン酸化酵素)遺伝子が働かなくなったためである。熱帯多雨林で暮らしていた我々の祖先は、十分な果物や昆虫からビタミンCを得ることができたからだという。
②4千万年前から1千6百万年前までの間に、我々の祖先は、ウリカーゼという尿酸の分解を助ける酵素の遺伝子を徐々に失い、そのために尿酸値が上昇しはじめた。それにより、痛風の疾病素因を持つようになった。尿酸の進化についての一つの仮説は、ビタミンCを生成できなくなった代わりに、尿酸を抗酸化剤として利用するようになったというものだ。
③アルコール・デヒドロゲナーゼ(ADH)遺伝子は、アルコールをアセトアルデヒドに変換するのを助ける遺伝子だ。1万年から7千年前に、人類にADH遺伝子の変異体が出現し、とくに東アジアで広まった。この変異体は、有害なアセトアルデヒドを大量に生成することで、アセトアルデヒドの分解が間に合わなくなり、顔が赤くなる、頭が痛くなる、二日酔いになる、といった症状を引き起こす。これらの症状が、ADH変異遺伝子保持者に飲み過ぎを控えさせ、彼らを守っているという。この遺伝子変異体の出現率は、コメの栽培が最初に始まり、そのすぐあとに米を使った酒が生まれた場所で高まった。
④酪農の歴史をもたず、乳製品からカルシウムを摂ることのない民族では、カルシウムをより効率的に吸収することを可能とする遺伝子の変異を持ち、骨密度を高めるのに役立っている。一方、毎日大量のカルシウムを摂取する現代の食事においては、カルシウムの影響を受けやすい前立腺がんのリスクが高まる。こうした遺伝子は、アメリカ南西部に住むアフリカ系アメリカ人の71%、東京に住む日本人の45%、ヨーロッパ北西部を出自とするユタ州の住人の20%が持っている。
⑤牛乳と大量の肉を摂取している牧畜民は、それらの食物に含まれる大量のコレステロールに対処できるように遺伝子的適応が生じている。マサイ族の1日当たりコレステロール摂取量は、欧米人の4~6倍にのぼるが、コレステロールの血中濃度は、欧米人よりもはるかに低い。マサイ族では、コレステロールの代謝と合成、アテローム性動脈硬化症(コレステロールの沈殿による動脈の硬化)に関わる遺伝子の変異が認められる。
⑥ラクターゼ持続性は、成人になっても乳糖を分解するラクターゼの生成が衰えないことである。ラクターゼ持続性は、伝統的に乳製品に頼ってきた、イギリス人、スカンジナビア人、北インド人、東アフリカや中東の人々で高い。南インドや地中海東部では15%程度あるが、西アフリカ、東アジア、アメリカ大陸ではほとんど見られない。全体的には、世界の3人に2人がラクターゼ生成能をもっていない。

食の民族間の違い:食べ物に関する文化的習慣が民族的対立に発展し、よそ者を排除するために使われることもある。例えば、かつてエジプトの都市オクシリンクスでは、エレファントノーズドフィッシュが崇拝されていた。ある日、キノポリスの住人がエレファントノーズドフィッシュを食べているところを目撃したオクシリンクスの住人が、仕返しにキノポリスの人々が神聖視していた犬を食べ、それがきっかけで内戦が始まったという。また、ベトナム人が1970年代にマレーシアのある島の難民収容所に収容されていた時、所内で豚を捕まえて食べているのを見つかった収容者は、地元当局によって鞭打ちの刑に処されていたという。ある人にとって崇拝の対象が、他の人には食事の対象となるということがあるのだ。

日光の影響:日光に当たることはホルモンやビタミンを介して、体に様々な良い影響を及ぼしている。そうしたものとして、ドーパミンを介した近視、セロトニンを介した季節性情動障害(SAD)や抑うつ、メラトニンやビタミンDを介した統合失調症や自閉症などの抑制が、考えられている。日光はビタミンDを生成する。ビタミンD不足と喘息、アレルギー性鼻炎、食物アレルギー、アトピー性皮膚炎の関係は長年研究が行われている。血中のビタミンD濃度の高さとこれら疾患の発症率の低さは相関するが、日光に当たるのはよくても、ビタミンDを摂取すればこれらの疾患の抑制につながるわけではないという報告も多く複雑である。

肥満の原因:肥満の原因は、過剰な食物摂取だと言われているが本当にそうだろうか。現代人の食物の摂取量やエネルギー消費の程度は祖先たちの時代とほぼ同じである可能性がある。著者は、身体的不活動が鍵だと考える。人類の祖先は長時間じっとしていることはめったになかった。一方、現代人は、テレビを見る、机の前に座る、運転する、などと動かない時間が長い。

栄養学的研究の限界:これまでの栄養学的研究の主な欠点は、進化理論がもたらす洞察を無視してきたことだ。人類の背後にある進化の歴史を理解せずに最適な食事法を決定しようとするのは、無理がある。進化の理論だけが、栄養や健康も含めて、生物体の構成要素のすべてがどのようにつながり合っているかを理解する方法を提供してくれる。

食べ方と生き方のルール:最後に、上記の視点に立って食と健康に関する普遍的な真理が挙げられている。
①よく歩く
②アルコールは適量を
③若いときは肉と乳製品は控えめに
④伝統食を(自民族の祖先が食べていたものを)食べる
⑤持続可能なやり方で食べる
⑥自分の肌タイプが必要とするだけの日光を浴びる
⑦安全な菌や寄生虫に感染する
⑧料理は低温で
⑨流行りのダイエットは効果がない(運動不足を補おうとして食事法を変えても望む結果は得られない)

僕の読書ノート「「食べること」の進化史(石川伸一)」

2019-07-27 10:19:03 | 書評(進化学とその周辺)


進化は進化でも人類の食の進化に特化してまとめた本は見たことがなかったので、貴重な本が出たと思って読んだ。
全体の印象としては、広く浅く非常に多岐にわたる情報を披露しているので、この分野の知識を広く得るのにはとても役立つ本だと感じた。一方で、読者をぐいぐい引き込む読み物としての面白さは少なく、食がこれまでも変化してきたし、これからも変化していくことは間違いないにしても、著者の主張はあれもありこれもありでいったいどこへ向かおうとしているのかが見えず、拡散した印象が残ってしまった。とくに、序章「食から未来を考えるわけ」は、一度読んだだけでは何を言いたいのかがわからなかった。情報ネタ本としては優れていると思う。なお、米国では現在、食品中のタンパク質源を動物から植物に変えていくような動きが起きているといわれているが、そうした動向についての記載はなかった。著者が畜産学出身のため、動物性タンパク質を擁護する立場にあるからだろうか?

本書では、食の進化と未来展望について、序章から始まって、料理、身体(健康)、心、環境に分けて論じている。
以下に、興味深い箇所をピックアップしてみた。

序章「食から未来を考えるわけ」
・フランスの思想家アンテルム・ブリア=サヴァランの「普段何を食べているのか言ってごらんなさい。あなたがどんな人だか言って見せましょう」という有名な言葉は、食の重要性をうまく言い当てているのだろう。
・イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスは、進化論をもとに、生物学を超えて他のさまざまな研究領域に応用した「ユニバーサル・ダーウィニズム」という概念を作った。実際に、心理学、経済学、言語学、医学などでは、進化論の理論を拡張した、進化心理学、進化経済学、進化言語学、進化医学といった分野が登場している。ここで、「進化」は、純粋に「変化」を意味するものであり、「進歩」を意味しない。本書で試みる食の未来予測は、食の歴史学、食の科学、食の心の科学といった学問を基盤とし、それらをユニバーサル・ダーウィニズムのような中立的視点で眺める形式をとっている。

第1章「未来の料理はどうなるか―料理の進化論」
・著者の研究室では、完成した料理を、物理的な記号を使った「料理の式」を用いて表現しているという。それによって、料理に潜む原理を探ったり、新しいメニューの開発等ができるということだ。具体的にどんなことをしているのか想像しにくいが、変わったことを考える人はいるものだ。
・1980年代後半くらいから、「分子ガストロノミー」または「分子料理法」という言葉ができ、科学的な手法によって、新しい料理を創造しようとする取り組みが始まった。当時の最新鋭機器から、フラスコやスポイトといった実験道具まで使用された。
・今後が注目される新たな料理は、「昆虫食」「培養肉」「3Dフードプリンタ」。

第2章「未来の身体はどうなるか―食と身体の進化論」
・私たちの祖先が食べていたものを時系列で並べると次のようになる。7000万年前にトガリネズミ目という食虫目から分かれた原始霊長類は昆虫を食べていた。昆虫に加えて果実を食べる原猿類が登場、さらに昆虫、果実に加えて若葉などを食するチンパンジーやオランウータンなどの種があらわれてきた。400万~200万年前に生存していたアウストラロピテクス属は、果実や葉の他、塊根、種子といった固いものを食べるようになったことで、歯と顔の形が変化し臼歯が大きくがっしりし顔面が平たくなった。また、このころ肉食も始まった。250万年以上前の遺跡から、肉を食べていた証拠とされる切り傷のついた動物の骨が出土している。最初は、腐肉を食べていたが、180万年前くらいに道具を用いた狩りができるようになったといわれている。こうした採集による植物性食品と狩猟による肉の取得行動を「狩猟採集」と呼ぶ。
・日本では1980年代に、食品が生体に及ぼす機能は、1次機能(栄養機能)、2次機能(嗜好機能)、3次機能(生体調節機能)に分類されるようになった。1991年に日本は世界に先駆けて、この3次機能を対象とした食品の法的な位置付けとして「特定保健用食品制度」を設け、世界の注目を集めた。現在では、健康維持への利用を目指した食品機能の研究「食品機能学」が世界で活発に行われている。
・その他のキーワードは、「マイクロバイオーム」「肥満パンデミック(世界的大流行)」「ニュートリゲノミクス」「テーラーメイド栄養学」。ヒトの体は、食べものがなかった時代から、食べようと思えばたくさん食べられる環境の変化に十分に対応できていないことで、肥満が起きている。このような進化的なミスマッチが、私たちをいろいろな病気にかかりやすくさせている。人類は、そのミスマッチをサイエンスとテクノロジーで解消するように努めていくだろうという。それは、薬であったり、脳手術であったり、機能性食品であったり、「脳刺激帽子」のような器具であったりするだろう。
・肉類を食べるのをやめ野菜を中心とした食事をする人はベジタリアン、動物性のものをすべて避ける人はヴィーガン、果物しか食べない人はフルータリアン、スープやジュースなどの液体しかとらない人はリキッダリアン、水以外の一切の食事をやめることを実践している人はブレス=呼吸だけで生きる人という意味でブレサリアンと名づけられている。ブレサリアンの実践者には、飢餓と脱水症で死亡する人もいるが、彼らの主張には呼吸法と日光浴の重要性があり、行き着く先には、葉緑体による光合成の機能を獲得した「光合成人間」になりたいという願望があると思われる。動物には実際に光合成をしているウミウシやサンショウウオがいる。藻類の光合成遺伝子の水平伝播や、緑藻との共生で可能になっている。著者は、光合成できる食べない多細胞生物になれば、食べるという行為がなくなるというが、それは無理に思える。光合成でできるのは糖やその重合体だけであり、植物だって根からの水や窒素・リン酸・カリウムの吸収を必須としているのである。

第3章「未来の心はどうなるか―食と心の進化論」
・食は政治的なイデオロギーに使われることもある。ベジタリアンはクリーンなイメージがあるが、ヒトラーは自らのベジタリアン思想を用いて、意志力の強さは菜食主義にあると述べ、戦争に勝つための「正しい食」のあり方を主張していたという。
・食べているものの種類は時代とともに増えている。選べるものの選択肢が多くなり、個人の好みや価値観も多様化している。食は、国や地域といった集団としての多様性に加え、個人の中にも多様性が存在する「スーパーダイバーシティ(超多様性)」になっている。

第4章「未来の環境はどうなるか―食と環境の進化論」
・増えていく人口分の食糧を地球が作れるのかという供給、生産の予測は、世間で心配されているところだ。2012年に出版されたヨルゲン・ランダースの「2052」では、世界のキーパーソン41人の観測を踏まえ、シナリオ分析というコンピューターシミュレーションで予想された最も実現確率の高い近未来を描いている。それによると、世界人口は、2040年代に約81億人とピークを迎え、その後は減少していく。2052年の世界の平均寿命は75歳を超えると予想している。そして、少なくとも2052年までは、十分な食糧があるという。食糧生産が増える一方、消費は懸念されているほど伸びないと考えている。
・1990年代の農学部は、バイオテクノロジーが大ブームだったが、現在では、「農」より「食」の存在が大きくなっている。食の生産に関する農学は、それを包括するより大きな「食学」の1分野となり、生産された食が私たちの食卓に届くまでを多角的に考えなければならない学問となっている。
・日本の家族団らんの歴史的な変遷の調査によると、近代までの一般的な家庭の食事は、個人の膳を用いて家族全員がそろわずに行われ、家族がそろっても食事中の会話は禁止されていた。明治20年代に食卓での家族団らんの原型が誕生した。そこには、欧米からの借りもの、啓蒙、国家の押しつけ、という影響があった。しかし、今では多くの人の心の中に、ロールモデルのような家族団らんのイメージが生き続けている。
・モニターに映る、過去に撮影された録画映像の人と会話をしながら一緒に食事をする「非同期疑似共食会話」というシステムが開発されている。こうした研究から、一緒に食事する相手が同じ空間にいなくても、さらに人間ではなくても、食事をともにする楽しみを、人は感じとることができる可能性が示唆されている。未来の食卓では、すでに亡くなった家族と楽しく会話しながら「共食」することがあるかもしれないという。

僕の読書ノート「サピエンス全史(下)(ユヴァル・ノア・ハラリ)」

2019-07-05 20:31:11 | 書評(進化学とその周辺)


サピエンス全史の下巻に行ってみよう。

第3部「人類の統一」の後半
・今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源と見なされることが多いが、じつは貨幣や帝国と並んで人類を統一する三つの要素の一つであった。宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。
・農業革命に宗教革命が伴っていたらしい。狩猟採集民は野生の動物や植物と対等の地位にあったが、農耕民は動植物を所有するようになった。このとき、神々は人間と口の利けない動植物との仲立ちをするという役割を担うことで重要性を獲得したという。
・西洋人はおもに一神教や多神教の教義になじんでいるが、世界の宗教史を見ると、インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は神への無関心を特徴としていた。仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。ゴータマは、現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。「苦しみは渇愛から生じる」というダルマとして知られる法則は、仏教徒にとって普遍的な自然の法則である。仏教は神々の存在を否定はしない。そして、時がたつうちに悟りを開いた仏や菩薩を崇拝するようになった。
・文化をミーム学でとらえている。これはリチャード・ドーキンスの提唱した考え方だろう。つまり、生物の進化が遺伝子という有機的情報単位の複製に基づいているのと同じように、文化の進化もミームという文化的情報単位の複製に基づいているという考えだ。成功するのは、宿主である人間にとっての利益に関係なく、これを利用して自らのミームを繁殖させるのに非常に長けた文化だ。人文科学者の大半はミーム学を素人臭い試みと蔑み、ポストモダニズムに固執している。しかし、ミーム学とポストモダニズムは双子の兄弟であり、後者はミームの代わりに対話について語るのだという。また、社会科学では、ゲーム理論によって同じような議論がなされる。

第4部「科学革命」
・イスラム教、キリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。一方、科学革命は知識の革命ではなかった。無知の革命であった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。科学革命によって進歩という考え方が登場した。進歩という考え方は、もし私たちが己の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。
・今日の畜産業は悪意に動機づけられているわけではなく、無関心が原動力となっている。卵や牛乳、食肉を生産したり消費したりする人の大半は、それら動物の運命について考えることは稀だ。しかし、科学の諸分野は最近、哺乳類や鳥類には複雑な感覚構造と感情構造があることを立証している。つまり、彼らは感情的苦痛も被りうるのだ。進化は遊びたいという欲求、母親とむずびつきたいという欲望も植えつけた。工業化された農業においては、これらは奪われており、子牛はひどく苦しんでいるはずだ。
・これまで、世界に真の平和が訪れたことはなかった。つまり、戦争がつねに起こりうる状態であった。ところが、今日の人類には、ついに真の平和が実現している。小規模な国境紛争が起こる懸念は残るものの、旧来型の全面戦争に発展しうる危険性は、一部の例外しかない。戦争の代償が劇的に大きくなった一方、戦争で得られる利益が減少したためだ。

第4部の中の第19章「文明は人間を幸福にしたのか」
ここが本書の最も重要、かつ独創的な部分だろう。脳科学や進化学で得られた知見や仏教の智慧などを、そのまま人類史における幸福の理解に落とし込んでいるのである。
・これまで歴史学者は、人々が幸せになったかどうかについて答えることはなく、問題を提起することさえも避けてきた。
・富は実際に幸福をもたらす。しかしそれは、一定の水準までで、そこを超えると富はほとんど意味を持たなくなる。また、病気は短期的には幸福度を下落させるが、慢性疾患の場合、病状が悪化しなければ、この新たな状況に適応して、健康な人々と変わらないほど高い評価を自分の幸福度につける。家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きく影響を及ぼすようだ。良好な結婚生活と高い主観的厚生、劣悪な結婚生活と不幸の間には、密接な相関関係がある。
・生物学者の主張によれば、主観的厚生は、給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニンやドーパミン、オキシトシンのようなさまざまな生化学物質からなる複雑なシステムによって決定される。幸福度に1~10の段階があるとすると、陽気な生化学システムを生まれ持ち、その気分がレベル6~10の間で揺れ動く。こうした人は、どのような外部要因があっても、十分に幸せでいられる。一方、運悪く陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人もいて、その気分はレベル3~7の間を揺れ動く。このような不幸な人は、どのような外部要因があっても、気分は沈んだままだ。
・このような幸福に対する生物学的なアプローチを認めると、歴史にはさほど重要性がないことになる。しかし、大きな重要性を持つ歴史的な展開が一つだけ存在する。何十億ドルもの資金を脳の化学的特性の理解と適切な治療の開発に投じれば、革命などいっさい起こさずに、人々をこれまでより格段に幸せにすることができる。
・ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、この幸せの定義に異議を唱える。子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。この発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを示している。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているという。
・ここまでの見方では幸福とは、快感であれ、意義であれ、ある種の主観的感情である。しかし、キリスト教も、ダーウィンやドーキンスでさえも感情はあてにならないと考える。利己的な遺伝子説によれば、DNAが自らの身勝手な目的のために、人々は穏やかな至福を味わいもせずに、あくせく働いたり戦ったりして一生を送るのである。
・幸福に対してまったく異なる探求方法をとってきたのが、仏教の立場だ。2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識は、生物学と仏教で共通であるが、仏教ではまったく異なる結論に行き着く。
・仏教によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも、悲しみの感情でもなければ、無意味さの感情でさえない。むしろ苦しみの真の根源は、つかの間の感情を果てしなく、そらしく求め続けることにある。感情の追求のせいで、心はけっして満たされることはない。喜びを経験しているときでも、心はこの感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。仏教で瞑想の修練を積むことで、感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け容れられるようになる。そうして得られた安らぎはとてつもなく深く、喜びの感情を必死で追い求めることに人生を費やしている人々には皆目見当もつかない。
・学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのは、ほんの数年前のことで、まだ初期仮説を立てたり、適切な研究方法を模索している段階にあるので、結論を出すには時期尚早であると、著者はまとめている。

最後に、第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」において、40億年の歴史を持つ自然選択による生物の進化を超えて、サピエンスそのものを変えるテクノロジーの時代に入ることを予見している。これは、次著「ホモ・デウス」につながっていくのだろう。

僕の読書ノート「サピエンス全史(上)(ユヴァル・ノア・ハラリ)」

2019-05-26 21:14:45 | 書評(進化学とその周辺)


歴史学者が人類史を論述した本でありながら、進化学に軸足を置いた批評家(佐倉統、橘玲ら)からはドーキンスなどの進化生物学の影響を受けていると言われていたし、仏教学者(佐々木閑ら)からは仏教のことがよくわかって書かれていると言われていて、そうした視点の持ち方は私の指向とも一致していたので、いつかは読もうと思っていたのである。副題は「文明の構造と人類の幸福」である。

250年前にホモ(ヒト)族が出現し、20万年前に東アフリカでホモ・サピエンスという種が生まれるところまでは、いわゆる進化の流れである。その後から、サピエンスに特異な流れが始まった。すなわち文化を形成し始めたのだ。そうした人間文化の発展を「歴史」という。歴史の道筋は、三つの重要な革命が決めた。7万年前の認知革命、1万2000年前の農業革命、500年前の科学革命だ。本書は、これら三つの革命が、人類をはじめ、地球上の生物たちにどのように影響を与えてきたのかという物語である。上巻では、認知革命、農業革命、人類の統一の前半までが記述されている。下巻では、人類の統一の後半、科学革命が書かれている。

まずは、上巻からだ。
副題にある「幸福」という視点はときどき垣間見られるが、そこにフォーカスを絞った議論は下巻の最後に出てくるようだ。では、ポイントを下記に示したい。 

第1部「認知革命」
・サピエンスは過去10万年間で、食物連鎖の頂点へと飛躍した。しかし、つい最近までサバンナの負け組の一員だったため、自分の位置についての恐れと不安でいっぱいで、そのため残忍で危険な存在となっている。例えば、多数の死傷者を出す戦争から生態系の大惨事に至るまで歴史上の多くの災難は、この性急な飛躍の産物である。
・7万年前から3万年前にかけて見られた、新しい思考と意思疎通の方法の登場のことを「認知革命」という。その原因は定かではないが、遺伝子の突然変異により脳内の配線が変わり、新たな思考の仕方や新たな種類の言語による意思疎通が可能になったからかもしれない。
・認知革命の後、サピエンスは大きくて安定した集団を形成した。噂話によってまとまったのであるが、噂話によってまとまった集団の大きさの上限は150人であった。しかし、虚構が登場し、共通の神話を信じることによって、この人数の限界を超え、膨大の数の見知らぬ人どうしでも協力できるようになった。
・サピエンスは遺伝子や環境の変化を必要とせずに、自らの振る舞いを素早く変えられるようになった。その最たる例が、カトリックの聖職者や仏教の僧侶、中国の宦官といった、子供を持たないエリート層の出現である。このことは、自然選択の最も根本的な原理に反する。こうしたことは、例えば聖書のような物語を継承することで存続してきた。
・隆盛を極める進化心理学の分野では、私たちの現在の社会的特徴や心理的特徴の多くは、農耕以前の狩猟採集民の長い時代に形成されたと言われている。つまり、私たちの脳と心は今日でさえ狩猟採集生活に適しているが、現在の巨大都市や機械、コンピュータなどの環境との相互作用によって、食習慣や争い、性行動などをもたらしている。このことが、しばしば私たちに疎外感や憂うつやプレッシャーを感じさせているのだという。

第2部「農業革命」
・人類は250万年にわたって、植物を採集し、動物を狩って食料としてきた。それによって、たっぷり腹が満たされ、社会構造と宗教的信仰と政治的ダイナミクスを持つ豊かな世界が支えられていた。ところが、1万年ほど前に、いくつかの動植物種の生命を操作することに、サピエンスがほぼすべての時間と労力を傾け始めたとき、すべてが一変した。これが農業革命である。
・かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。しかし、農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされたという。食糧の増加は、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながり、平均的な農耕民は狩猟採集民より苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。その責任は王でも聖職者でも商人ではない、小麦、稲、ジャガイモなどの一握りの植物種だったとしている。サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にサピエンスがそれらに家畜化されたのだという。そこが著者のユニークな視点だ。
・農業革命で余剰食糧ができると、多くの人が、大きな村落に、町に、最終的には都市に密集して暮らせるようになった。それには大規模な協力が必要だったが、進化(生物学的本能)は追いついていない。そこで、人々を結びつけたのは神話、つまり、神々、母国、株式会社といった物語であった。それは、「客観的」「主観的」「共同主観的」と分けたときの、「共同主観的」に相当し、想像上の秩序とも呼べる。それと、書記体系の考案が大規模な協力ネットワークの維持を可能にした。
・同性愛をどう捉えるか。一部の文化では禁じられているが、生物学的にはあらゆることが可能であるので禁じる必要がないとしている。血縁や種の存続にとって有用に作用するのであるならそういう主張も成り立つだろうが、私にはわからなかった。

第3部「人類の統一」の前半
・どの文化に属する人間も必ず、矛盾する信念を抱き、相容れない価値観に引き裂かれることになる。これを「認知的不協和」と呼んで人間の心の欠陥と考えることが多いが、じつは必須の長所であり、これがなかれば人類の文化を打ち立てて維持することは不可能だっただろう。
・歴史は統一に向かって進み続けている。紀元前1000年紀に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、その信奉者たちは、一組の法則に支配された単一の集団として全世界と全人類を想像することができた。その三つとは、貨幣、帝国、宗教であった。
・サピエンスは他の社会的動物と同様に、よそ者を嫌う生き物になった。サピエンスは人類を「私たち」と「彼ら」という二つの部分に本能的に分ける。「私たち」は言語と宗教と習慣を共有していて、互いに対する責任を負うが、「彼ら」に対する責任はない。
・人類の文化から帝国主義を取り除こうとする思想集団や政治的運動がいくつもある。帝国主義を排せば、罪に汚されていない、無垢で純正な文明が残るというが、こうしたイデオロギーは、良くても幼稚で、最悪の場合には粗野な国民主義や頑迷さを取り繕う不誠実な見せかけの役を果たす。また、有史時代以降、そのような無垢な文化は一つもなかった。
・紀元前200年ごろから、人類のほとんどは帝国の中で暮らしてきた。将来の帝国は、真にグローバルなものとなる。全世界に君臨するという帝国主義のビジョンが、今や実現しようとしている。

書評「利己的な遺伝子〈増補新装版〉(リチャード・ドーキンス)」

2019-01-19 22:41:47 | 書評(進化学とその周辺)


本書の第一版は1976年にイギリスで出版され、日本語版は1980年に「生物=生存機械論」という書名で出版された。日本語第三版(30周年記念版)は2006年、日本語第四版(40周年記念版)は2018年に出版された。いまや、科学史に燦然と輝く不朽の名著と言われているが、私が生物学科の学生だった1980年代は、「生物=生存機械論」という書名にあざとさやいかがわしさすら感じていたので、読むことはなかった。あれから30年以上たってようやく本書を読むことにしたのである(私が買ったのは第三版)。もともと当時の動物行動学や進化学の理論的な研究の考察をもとに書かれた本であるので、この本の内容が出版から40年たってどこまで実証されたのかはこの分野の専門家でないとわからない。しかし、目の覚めるような論理展開とたくさんの考えるヒントが提供されていることは確かだ。この本の主張を一言でいえば、遺伝子の利己性がすべての進化の原動力だと考えることで、生物の増殖や社会活動など様々な生物現象がうまく説明できるようになるということだろう。なお、遺伝子の利己性そのものはどこからやってくるのか、何を原動力としてそのような働きをするのかという疑問も湧いてくるが、それについてはまったく無視されているように感じた。それから、訳のせいもあるのかもしれないが、文章が平易でないので、読みにくさのある本である。

以下は私なりのポイントの記録である。
[30周年記念版への序文]
・自然淘汰が作用する必然的に「利己的な」生命の階層構造のレベルは、種でもなく、集団(群)でもなく、個体でもなく、生態系でもなく、遺伝子である。

[1989年版へのまえがき]
・利己的遺伝子説は、ネオ・ダーウィニズムの論理的な発展である。

2.自己複製子
・今でこそ遺伝子と呼ばれるようになった自己複製子は、以前は海中を気ままに漂っていた。この40億年の間に、彼らはその自由を放棄し、外界から遮断された巨大なロボットに中に巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡をとっている。われわれは彼らの存在機械である。

3.不滅のコイル
・遺伝子レベルでは、利他主義は悪であり、利己主義が善である。遺伝子は生存中その対立遺伝子と直接競いあっている。対立遺伝子の犠牲のうえに、遺伝子プール内で自己の生存のチャンスをふやすようにふるまう遺伝子は、その定義からして、生きのびる傾向がある。
・無性生殖に対立するものとしての有性生殖が、有性生殖の遺伝子を有利にするのであれば、これによって有性生殖の存在は十分に説明できる。その遺伝子が個体の残りの遺伝子すべてに役立つか否かということはあまり関係がない。

5.攻撃―安定性と利己的機械
・個体間の攻撃や戦いについて、おおくの議論がされている。コンラート・ローレンツは自著の「攻撃」の中で、動物の戦いは抑制のきいた形式的なものであるとしているが、その考えには反対している。ドーキンスは、数学のゲーム理論を利用した、J・メイナード=スミスが提唱している概念である、進化的に安定な戦略(ESS;evolutionarily stable strategy)の考え方に依拠している。この考え方によると、攻撃的なタカ派と逃げるだけで攻撃はしないハト派を設定すると、それら単独の戦略自体はどちらも進化的に安定ではない。それより、タカ派が12分の7、ハト派が12分の5の数になるとその個体群は安定な平衡状態になるという。

6.遺伝子道
・生存機械が利他的にふるまうかどうかは、ある個体の自分に対する近縁度をかけて危険(マイナス)と利益(プラス)について計算することでシミュレーションできる。何もしないことが正味の利益の得点を最高にする「行動」であるならば、モデル動物は何もしないだろう。
・溺れかかっている人間が野生のイルカに助けられたという話がよくある。これは、群れの溺れかけているメンバーを救うための規則の誤用だと考える。つまり、イルカは困っている近縁の個体を助けるようにプログラムされているのだが、そのプログラムが誤用されて、つまり対象を正確に認識できずに間違って人間を救ってしまうという解釈をしている。

8.世代間の争い
・人間の女性が中年期に唐突にその生殖能力を失ってしまう現象、つなわち月経停止の進化に関して考えうる一つの説明として、遺伝的に意図されたもの、すなわち何らかの適応である可能性を指摘している。高齢の母から産まれた子どもの平均寿命は、若い母親の子どもの寿命にくらべて短いことが予想される。そうなると子どもよりむしろ孫に投資したほうが有利になる。そのため、中年期に繁殖能力を喪失させるように仕向ける遺伝子が次第に増加したと考えられる。
・カッコウと里親の間にみられる争いなどを観察すると、子どもに詐欺行為をおこなわせる傾向をもつ遺伝子が、遺伝子プール内で有利さを示すことが考えられる。これは「子どもはごまかし行為をすべきだ」と表現されることになるが、人間的なモラルを引き出すとすれば、「私たちは子どもに利他主義を教えこまねばならない」ということになる。つまり、子どもたちの生物学的本性の一部に利他主義が組み込まれていると期待することはできないとしている。

9.雄と雌の争い
・雄と雌では遺伝子を残すために異なる戦略を取ることが多い。人間の女性は、たくましい雄を選ぶ戦略ではなく、家庭第一の雄を選ぶ戦略を採用していることが示唆される。一方、人間の男性には一般的に乱婚的傾向がある。ほとんどの人間社会は、一夫一妻制をとっているが、乱婚的な社会もあるし、ハーレム制にもとづいたような社会もある。この二つの傾向のいずれが他を圧倒するかは、遺伝子ではなくむしろ文化によって決定されていると考えられる。

10.ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう
・R・L・トリヴァースは、人間において他者をだます能力や、詐欺を見破る能力、だまし屋だと思われるのを回避する能力などを強化する方向にはたらいた自然淘汰が、人間に備わる各種の心理的特性-ねたみ、罪悪感、感謝の念、同情そのほか-を形成したのだと主張している。人間の肥大した大脳や、数学的にものを考えることのできる素質は、より込み入った詐欺行為をおこない、同時に他人の詐欺行為をより徹底的に見破るためのメカニズムとして進化した可能性も考えられる。

11.ミーム―新登場の自己複製子
・これまで、自己複製子として遺伝子について述べてきたが、新たな自己複製子として人間の文化をミームと命名している。それはまだ未発達な状態にあるが、すでにかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子ははるかに後方に遅れているとしている。
・ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化しあうが、ときには相対立することもある。たとえば、独身主義の習慣などは、遺伝子によって伝わるものではないだろう。宗教、とくに聖職者の中のミームとして説明されている。
・ドーキンスは、人間が自己の存在を利己的遺伝子に全面的に委ねるべきだと言っているわけではない。むしろ、純粋で、私欲のない利他主義は、自然界、そして世界の全史を通じて存在したためしがないが、私たちはそれを計画的に育成し、教育する方法を論じることができる、と述べている。
・本書の主要なアイデアは、W・D・ハミルトンの血縁淘汰理論からきている。彼の1964年の論文の被引用数を調べると年々増加していて、その科学的なアイデアはミームとして拡大しているといえる。

12.気のいい奴が一番になる
・政治学者のロバート・アクセルロッドは、気がいいか意地悪か、寛容か非寛容か、妬み深いかそうでないかといった戦略をコンピューター上で戦わせると、気のいい、寛容な、妬み深くない戦略が勝利することを示した。これは自然界にも適用できるという。
・人間の行う献血は、純粋な、利害にかかわりのない利他行動かもしれない。動物でも、チスイコウモリは似たような行動、つまり血にありつけなかった仲間に自分が吸った血を吐いて与えるという行動があるという。利己的な遺伝子に支配されていても、気のいい奴が一番になることができる例として挙げている。

13.遺伝子の長い腕
・ある遺伝子が、その生物自身の表現型効果を示すのと同様に、寄生した寄主の行動に影響を及ぼすことを「延長された表現型」効果とよんでいる。「延長された表現型」を示す激烈な例は、昆虫で見られる。例えば、コヌカアリ属の仲間は、ほかの種類のアリに寄生する。この寄生者のアリは、女王がたった一匹で別の種類のアリの巣に忍び込む。そして、寄主の女王を捜し出すと、その背中に馬乗りになって、頭を切り落とす。そのあと、孤児になったワーカーたちはなんの疑いも感じずに、彼女の卵や幼虫の世話をする。このワーカーの行動は寄生者にとって延長された表現型である。