wakabyの物見遊山

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書評「職業としての小説家(村上春樹)」

2016-12-29 09:50:36 | 書評(文学)


同時代を生きる稀代の小説家、村上春樹が自らの小説作成方法を明かした貴重な書だと思う。小説を書くときに彼の頭の中では何が起きているのかをくわしく教えてくれている。それは次のようである。

小説を書くのはそんなに難しいことではないが、小説を長く書き続けていくことは至難の業だという。それは、普通の人間にはまずできないことで、ある種の「資格」のようなものが求められる。それはもともと備わっている人もいれば、後天的に苦労して身につける人もいる。(だれでも人生でなにか特別な経験をしているから、それをネタに一つや二つくらいは小説が書けそうだが、小説を何本も書き続けるとなるとネタ切れして書けなくなってしまうだろうことは容易に想像される。)

小説を書くというのは効率の悪い作業で、それは「たとえば」を繰り返す作業である。一つ個人的なテーマがあったとすると、それを別の文脈に置き換えて、「それはね、たとえばこういうことなんですよ」と延々と続けていくことだ。最初のテーマがすんなりと明確に知的に言語化できない、そういう回りくどいところにこそ真実・真理が潜んでいると小説家は考える。

1978年4月のある晴れた日の午後、大好きなヤクルトの広島戦の野球を神宮球場で見ていた時、突然啓示のように何の脈絡・根拠もなく「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思ったことが、村上が小説家になろうとしたきっかけである。それで最初に「風の歌を聴け」を書いたが、そのときはうまくかけずに満足もできなかったと述べている。

毎日朝早く机の前に座り、「さお、これから何を書こうか」と考えを巡らせる瞬間は本当に幸福である。ものを書くことを苦痛だと感じたことは一度もない。小説が書けなくて苦労したという経験もない。

毎年、ノーベル文学賞受賞を期待されている村上だが、2016年度ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランについてはその受賞前から、自己革新力を具えたクリエーターだと評価する。

どういう小説を書きたいか、その概略は最初からかなりはっきりいていた。今はまだうまく書けないけれど、先になって実力がついたら書きたい小説のあるべき姿が頭の中にあった。

小説家になるために重要な訓練なり習慣としては、たくさん本を読むことで小説はどういう成り立ちなのか基本から体感として理解すること、そして自分が目にする事物や事象をその是非や価値を判断せずに子細に観察する習慣をつけること。そうした観察の結果、頭の中には大きなキャビネットが備え付けられていて、その一つ一つの抽斗の中には様々な記憶が情報として詰まっている。小説を書きながら、必要に応じてこれと思う抽斗を開け、中にあるマテリアルを取り出し、それを物語の一部として使用する。

小説を書く上で心がけたのは、「説明しない」ということ。(私も村上の小説を読んで、なんでもかんでも説明をしない、謎を謎としてそのまま残しておくことが、意図した執筆法だろうと感じていた。)それよりいろんな断片的なエピソードやイメージや光景や言葉をどんどん放り込んで立体的に組み合わせていく。それは音楽を演奏することに似ている。とくにジャズ。リズムのキープと和音とフリー・インプロビゼーションが大切で、そこには無限の可能性、自由がある。「書くべきことが何もない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまでは大変だが、いったん前に進み始めると、あとはかえって楽になる。「何だって自由に書ける」ということを意味しているからだ。その人の持つマテリアルが軽くて量が限られていても、その組み合わせ方のマジックを会得しその作業に熟達すれば、いくらでも物語を立ち上げていくことができる。「自分は小説を書くために必要なマテリアルを持ち合わせていない」と思っている人もあきらめる必要はない。マテリアルはあなたのまわりにいくらでも転がっている。そこで大事なことは、「健全な野心を失わない」ことだ。

長い歳月にわたって創作活動を続けることを可能にする持続力を持つために必要なことは、基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること、自分の身体を味方につけること。

小説に登場するキャラクターは、話の流れの中で自然に形成される。キャラクターを立ち上げるのは、脳内キャビネットからほとんど無意識的に情報の断片を引き出し、それを組み合わせている。その自動的な作用を個人的に、「オートマこびと」と名付けている。そうやって書いたものは後日何度も書き直される。そういう書き直し作業は自動的というより、意識的にロジカルにおこなわれる。

登場人物をこしらえるのは作者だが、本当の意味で生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自立的に行動し始める。それは多くのフィクション作家が認めている。小説がうまく軌道に乗ってくると、登場人物たちがひとりでに動きだし、ストーリーが勝手に進行し、その結果、小説家はただ目の前で進行していることをそのまま書き写せばいいという、きわめて幸福な状況が現出する。物語は架空のものであり、夢の中で起こっているというのと同じことである。それが眠りながら見ている夢であれ、目ざめながら見ている夢であれ、自分に選択の余地はない。

以上のように、村上にとって物語を紡ぐという作業はかなりの部分、無意識というか自動思考によって勝手に進んでいくようである。シュルレアリスムの自動手記のようである。それを書き直し作業によって意識的に調整していく。だから、その無意識から物語を引っ張り出してくる能力、つまりは脳のはたらかせ方なんだろうが、そこに極めて長けているということなのだろう。

書評「100分de名著 レヴィ=ストロース 野生の思考(中沢新一)」

2016-12-24 21:16:14 | 書評(その他)


30年ほど前に現代思想のブームがあり、ニューアカデミズムともよばれた。浅田彰らによって、構造主義を越えるポスト構造主義というフランス現代哲学の潮流がクローズアップされていたのだが、そもそもその越えるべき構造主義とはなんだったのかがよくわかっていなかった。構造主義のいう構造というものを主張したのが文化人類学者レヴィ=ストロースにより1962年に出版された「野生の思考」であり、それを中沢新一が本書で解説している。世界を行き詰らせているものの正体は何か、それを打破していくにはどのように思考を転換していったらよいかを示したものとして、19世紀にマルクスの「資本論」があったとすれば、20世紀はレヴィ=ストロースによる「野生の思考」があるという。さらに、この本はこれから新しく読み解かれるべき内容をはらんだ、21世紀の書物だとする。つまり、越えられたどころか、これから取り組むべき思想だとしているのである。

私なりに要約すると、人間の思考形態や様々な文化の形式は、新石器時代の昔から現代にいたるまで一定の形で維持されていて、それが「構造」というものだ。「構造」は人間の創造物だけでなく、自然界にも存在している、世界に普遍的なものである、となる。

本書のポイントをいくつか並べていきたい。
・未開人とよばれた先住民たちの儀礼や神話、婚姻制度ではたらいているのは、人間と自然という二つの並行したシステムの間の対応関係を見出し比喩表現を可能にしていく思考方法である。
・先住民は現代の植物学者をときにはしのぐほどの正確さで自然観察をおこない、その観察と実験は彼らの知る世界の全域に及んでいる。方法が違うだけで、その情熱は自然科学者の情熱と同じである。現代の科学者も先住民も同じく、このような知識の第一の目的は、実用性、つまり物的欲求の充足ではなく、知的要求に答えることにある。
・科学的思考は、抽象的な「概念」を組み立てることからはじまる。一方、ありあわせの道具材料を用いて自分の手で物を作ることをブリコラージュ=日曜大工という。先住民の思考は「記号」を用いてブリコラージュしていくことにある。シュルレアリストたちの芸術や現代アートの世界もブリコラージュである。
・しかし、「記号」の組み合わせで作られた占星術や錬金術のような呪術的思考は、「概念」で作られた科学の母体になったというのが科学史の考えである。つまり、それらはまったくの別物というわけではないのである。
・人類が人類となったそのときに作られた脳の構造を、私たち現代人もいまだに使って思考している。コンピューターという思考機械も基本設計は「野生の思考」をおこなう脳と少しも変わらない。すでに「野生の思考」の中で、電子計算機の発達による情報検索システムの発展を予見している。
・生命の進化や人類の知性の進化は、自分の手持ちの材料とプログラムだけを用いて、それらの組み合わせを新しくつくりかえることだけによって、つまり「ブリコラージュ」によって成し遂げてきた。
・中沢によると、「野生の思考」は日本にこそ生きている。例えば、職人の仕事、柳宗悦(むねよし)が「民藝」と呼んだもの、浄土真宗の他力思想、里山、ゆるキャラ、ポケモン、日本料理、市場、がそうであり、自然物が語りかけようとしているメッセージを聴き取り、特殊なコードによってそれを理解し、それを内側から外側へと取り出す営為と言える。

クリスマスイルミネーション集

2016-12-18 21:32:24 | お知らせ・出来事
最近行った先々でスマホやデジイチで撮った、クリスマスイルミネーションを集めてみました。


名古屋駅高島屋。


近所のお宅。


多摩センター駅前。


多摩センター駅前、光トンネルの中。


横浜そごう。

近所のお宅のイルミネーションが、街々で見れるものに負けじと派手なのがすばらしいです。

特別展「禅―心をかたちに―」を見る

2016-12-11 22:10:31 | 美術館・展覧会
ちょっと前ですが、東京国立博物館で開催していた特別展「禅—心をかたちに—」を見てきました(2016年11月26日)。

本展は開催期間が2016年10月18日~11月27日でしたので、終了近くになってなんとか見ることができました。
東京国立博物館も入ったのは今回が初めてでした。日本の美術にそんなに興味がなかったからというのはあります。今回のテーマは禅ということなので、坐禅をする身としては見ておいてもいいかなと思って行ったのでした。内容は、臨済宗と黄檗宗でまとめられていましたので、曹洞宗に関するものは全くありませんでした。もっとも曹洞宗は、あまり美術品のようなものを残すような宗派ではないかもしれませんが。禅宗の名僧の系図に道元さえも載っていないのは、ちょっと偏っているのではないかと思いましたね。
展示品についていうと、たとえば白隠慧鶴の達磨図はたくさんあるのですが、その中でもかなり大型の絵が展示されていて迫力ありました。


ネコも座布団の上で丸くなる寒さになりました。


上野の森では、ファンク・アップ・ブラス・バンドというジャズバンドが路上ライブをやっていました。ファンキーな感じでよかったですよ。


色付いたイチョウの並木。


大噴水から東京国立博物館のほうを見る。
いい天気です。


東京国立博物館の本館とその前の池。


池越しに表慶館を見る。


禅の展覧会をやっている平成館に向かいます。


展覧会の受付。


禅の展覧会を見終って、平成館をあとにします。


しかし、本館の前に立つこの大きな木は輝きもいいしすばらしいですね。
禅の展覧会もよかったですが、東京国立博物館の構内の美しさが気持ちよかったです。


夜の東京国立博物館。


上野公園の桜並木のライトアップがキレイでした。


上野駅の構内には、正月に向けてこんなお飾りが掲げられていました。下町、上野らしいですね。