wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ
(哺乳類進化研究アップデートはしばらくお休み中)

僕の読書ノート「銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムス)」

2023-09-09 07:48:46 | 書評(文学)

 

イーロン・マスクの人生を変えた一冊!だということで、どんなものだろうかという興味で読んでみた。地球人の主人公が、様々な宇宙人と出会いながら銀河をヒッチハイクするSFである。多種族間コミュニケーションであり、ちぐはぐながら話が通じる相手もいれば、まったく相容れない相手もいる。そうした多種族間コミュニケーションがコミカルでもあり、次々と起きる出来事が奇想天外でもあり、読んでいると楽しく、あっという間に読み終えてしまった。しかし、本書の最後は「軽く腹ごしらえとしゃれこもうぜ。行き先は”宇宙の果てのレストラン”だ」で締めくくられて物語が続くことがほのめかされるので、終わらないのだ。実に5冊からなるシリーズになっている。

めちゃくちゃで絶体絶命なことばかり起きるのに、なぜかラッキーが続いて生き延びていく。助かることが確率的にものすごく低くても0ではないので、死なない。まるで、最新のマルチバース宇宙論のような極端な確率の世界である。

「けたたましいガンク・ミュージック(ゴシック・ロックとパンク・ロックを融合させたロック・ミュージック)が<黄金の心>号の船室に響きわたった。」というくだりがある。まさにそうしたちょっとやばそうな音楽が本書のBGMにぴったり合いそうだ。キリング・ジョークとバウハウスがすぐに思いついた。

さて、イーロン・マスクが本書のどこに影響を受けたのかはよくわからない。つまらない理由で地球がかんたんに消滅してしまうことへの危機感か、星間飛行があたりまえの高度な科学技術か、宇宙人間コミュニケーションや銀河政府といったスケールの大きさか、もっと他の哲学的なモチーフか?そうした要素を含みつつも、コミカルで楽しい本書はおもしろい。私にとっては、人生を左右されることはなさそうだが、いい気分転換になる本であった。


僕の読書ノート「星を継ぐもの(ジェイムズ・P・ホーガン)」

2023-05-13 07:23:18 | 書評(文学)

 

創元SF文庫読者投票で第1位を獲得し、とくに日本での評価が高いハードSFということで読んでみた。月面で発見された人間そっくりな生物の死体は5万年前に死んでいる。彼はいったい何者なのかというナゾ解きが、本書の骨子である。宇宙船、宇宙科学、物理学の知識などが出てくる本格的な宇宙もののサイエンス・フィクションであるが、読んでいくと、進化学、とくに進化人類学が重要なテーマであることがわかってくる。

主人公の原子物理学者ハントと、微妙な拮抗関係にあるプライドの高い進化生物学者ダンチェッカーは互いに反発したり協力したりしながらナゾを解きを進めていく。ダンチェッカーは正統的な進化生物学の理論ー収斂進化や隔離による形質の分化ーを援用しながら解答を導き出そうとする。さて、どちらが正解を導き出せるのか?

本書が執筆されたのは1977年のことである。現在(2023年)の進化人類学の知見に照らし合わせると、矛盾点が気にはなってしまうが、宇宙を舞台に人類の由来について斬りこんだ意欲的な作品だと思う。


僕の読書ノート「現代歌人文庫3 寺山修司歌集(寺山修司)」

2022-12-24 07:47:10 | 書評(文学)

寺山修司は様々な分野で活躍したが、作品のほとんどが前衛とよばれる領域であったため、読者やお客を選んでしまって、十分なポピュラリティーが得られなかったのは残念だ。それでも我々を惹きつける瑞々しい、あるいは妖しい魅力があって、なんとか近づきたいと思って入っていくのである。

本書はもう20年くらい前に買って途中まで読んだのだけれど、けっこう読むのがたいへんでずっと放置していたのだが、あらためてちゃんと最後まで読み直してみた。今読んでもやっぱり難しくて意味がわからない短歌が多い。一つには、語尾に古語がよく使われていることもある。そして、これは脈絡のない2つや3つのパーツをコラージュして一つの歌にして、さあどう感じる?と提示している作品なのだとすれば、意図としては納得できる。ダダイズムなのだろう、シュルレアリズムなのだろう。しかし、それぞれのパーツがマーブルのようにきれいな模様を描いていれば何かを感じることができるが、水と油のように完全に分離しているとほとんど理解できない。さらに、前者の場合でも、読んだ人がどう解釈するかについては、許容範囲がとても広い感じがする。だから、ものすごく自分勝手、自己流の読み方ができてしまうように思う。

本書は、寺山の歌集4編と石川啄木論、エッセー、他の歌人による寺山論2編からなる次のような構成になっている。

・歌集「空には本」 1958年刊、青春と田園を感じさせる。寺山言「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を失くさせた」

・歌集「血と麦」 1962年刊、戦後の時代性や家族のこと。4年間も入院していたときに創作された歌。寺山言「私が詩人でありながら、いわゆる現代詩の多くに興味をもっていないのはそれが単に行為の結果であり、スタティックな記録にすぎないからなのだ」

・歌集「田園に死す」 1965年刊、土俗性と残酷性が一気に爆発する寺山らしい世界。寺山言「これは、私の「記録」である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う」

・歌集「未完歌集 テーブルの上の荒野」 1971年刊。

・石川啄木論

・エッセー(プライベート・ルーム) 寺山言「短歌は、言わば私の質問である」

・寺山論「アルカディアの魔王(塚本邦夫)」

・寺山論「寺山修司さびしき鴎(福島泰樹)」

 

「血と麦」の章「わが時、その始まり」には、「空には本」の中の有名な歌が再録されている。下記に引用したい。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

  ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

一転して、「田園に死す」はまるでバロウズのような醜悪な世界になり、下記のような歌がある。

  新しき仏壇買ひ行きしまま行方不明のおとうとと鳥

  間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

  いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり

  ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

「未完歌集 テーブルの上の荒野」には次にような歌もある。

  人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

 

寺山修司は日本語のフェチだと言っていたらしい。たしかに、あるときは瑞々しく、あるときは禍々しく、言葉が立ってるな。


僕の読書ノート「アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)」

2022-01-22 08:54:29 | 書評(文学)

読んで泣くというより、救いがなくて読んでて苦しかった。

知的障害者のチャーリーは、やさしい心を持ち、向上心もあり、そこそこ幸せに暮らしていた。ある時、大学の研究チームが考案した知的障害の外科的治療法をはじめて受ける被験者になった。手術は成功して、チャーリーのIQはみるみる向上した。それによって記憶能力が高まったために、知的障害者だったころの記憶がよみがえってきた。それは、友達だと思っていた人たちから実はバカにされていたこと、母親から虐待を受けていてついには施設に送られて捨てられたことなど、辛い思い出だった。一方、知的能力が高まっても、人を思いやる心が発達しなかったため、今現在の周りの人たちの欺瞞と自己中心主義が許せなくて、怒りがおさまらない。そして、同じ手術を受けたネズミのアルジャーノンを観察していたら、この治療法の効力は長くは続かないことがわかり、チャーリーはまた昔のような混沌とした世界に戻ることを予見し、それに向けて心の準備を整えていく。

著者のダニエル・キースは本作のもとになる中編小説を書いて出版社に持ち込んだとき、編集者からハッピーエンドにするように求められたが、がんとして受け付けなかったという。そのうちもとのストーリーのままで出版してくれるところが見つかり、世に出ることになった。知的障害は、他人ごとではない。自分や身近な人が、いつ事故による高次脳機能障害になって、あるいは認知症になって、知的障害者のようになるかわからない。でも、今のところ、救う手立ては見つかっていない。ダニエル・キースがこの物語を安易にハッピーエンドで終わらさなかったのは、後世の人たちに救う手立てー医学的にも社会的にもーを見つけてほしいというメッセージを残したかったからかもしれない。


僕の読書ノート「かもめのジョナサン 完成版(リチャード・バック)」

2021-11-06 08:07:53 | 書評(文学)

カモメが仲間たちから抜け出して、飛ぶことの技術を高めることに喜びを見い出し、同じ目的を持つ者たちで師匠と弟子のような関係ができて、瞬間移動のような神秘的な境地にまで到達する物語である。子どもでも読めるようなとても平易な文章と短さにもかかわらず、難しい小説であった。どこに感動すればいいのか、どう解釈すればいいのかがわからないのである。大衆化・形骸化した一般社会と、個人の自由と成長の対立を描いているようにも見えるが、単純にそれだけではないようにも思える。かんたんには見えない深い意味が隠されているようにも思えるのだが、それが何なのかがわからない。

私は25年くらい前に人から贈られて読んだ「ONE」という小説に、そうとうな感銘を受けたことがあった。その著者が、「かもめのジョナサン」の著者でもあるリチャード・バックであった。心がどうにかしてしまったときに読んだら、大きな気づきをもたらしてくれて、救われたような気持にしてくれた本であった。「かもめのジョナサン」もそういうタイプの小説なのだろうか?本書は、1970年に米国で初版が出版され、最初はヒッピーの間で読まれていたのが、一般大衆、そして世界に広まり、2014年時点で世界で4000万部売れたという。日本でも270万部を超えている。そして、2014年に、新たに第4章が加わった完成版が出版された。初版も完成版も、日本では五木寛之氏が訳(創訳)している。その五木寛之氏はあとがきにおいて、心理学用語のゾーン、仏教者のブッダや法然などを持ち出して、なんとか本書の意味を解釈しようとしているが、不思議な物語だと言っている。

1970年は、米国では泥沼のベトナム戦争の最中であり、一方では1950年代から広がってきた禅ブームという精神性への回帰や、ヒッピームーブメント、フォーク・ロックなどのカウンターカルチャーの流行もあった。そのころは、みな現状にいい加減うんざりしていて、今いる場所の呪縛から抜け出して自由になりたかったのではないだろうか。そんなときに「かもめのジョナサン」は、救いを見せてくれたのかもしれない。

2014年に加わった第4章では、かもめの師匠となったのち消えていったジョナサンが神格化され、飛ぶことの修業は軽視され、ジョナサンの伝説を崇める儀式へと形骸化していくというどんでん返しが付け加えられた。イリュージョン(=かもめの一般社会)から抜け出してせっかく自由になったのに、見えてきたのはまた別のイリュージョン(=形ばかりの儀式)だったというストーリーだ。1969年に発表されたヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「I'm set free」という曲の歌詞を連想させてくれた。