wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

僕の読書ノート「東京都同情塔(九段理江)」

2024-09-07 07:57:04 | 書評(文学)

 

2023年度の芥川賞受賞作である。現実には実現しなかったザハ・ハディド設計の国立競技場が建設されたという設定で、主人公の建築家マキナ・サラが設計したシンパシータワートーキョー(東京都同情塔)が国立競技場の脇に建設されたという話である。私は、SFのような未来的なザハ・ハディドの国立競技場が見たかったクチである。こんな建築は東京でも日本でも見たことがない。それで、興味を持って読んでみた。

「ザハ・ハディドが東京に遺した流線形の巨大な創造物からは、何か特別な波動みたいなものを感じずにはいられない。たとえ信仰心など持ち合わせていなくても、文京区の丹下健三設計のカテドラルを見れば自然と神聖な思いが湧き上がってくるように、その屋根はある種、崇高で神秘的なエネルギーを私にもたらしていた。まるでひとりの女神が、もっとも美しく、もっとも新しい言語で、世界に語りかけているかのようだ。」という記述があるが、それ以外は、ザハ・ハディドの建築についての記述が少ないのはちょっと残念。

シンパシータワートーキョーは、犯罪者をホモ・ミゼラビリス(可哀そうな境遇の人)としてシンパシーをもって待遇するための象徴となるようなタワーである。マキナ・サラはとうてい犯罪者にシンパシーなど感じることはできないが、ザハ・ハディドの国立競技場と対になるような建築物であるシンパシータワートーキョーは自分が設計しないといけないという使命感をもって設計し、採用された。そもそも寛容とか、犯罪者の幸福だとか、シンパシー(同情)だとか、いわゆる社会の正論というようなものを押しつけられても心にしっくりこないが、美しいものなら心からわかるというマキナ・サラの心情は、私たちの心にもあるのではないだろうか。

芥川賞にエントリーするのには中編という長さが条件らしいが、私自身は、エピソードが描かれた短編でもなく、物語が描かれた長編でもない、143ページの中編という中途半端な長さはあまり得意でないかもしれない。本書は、長編として書かれた物語として読んでみたかった。

 

ザハ・ハディド案(SANAAも挑戦していた。コンペ自体が世界最高峰を目指すオリンピックだった


僕の読書ノート「銀河ヒッチハイク・ガイド(ダグラス・アダムス)」

2023-09-09 07:48:46 | 書評(文学)

 

イーロン・マスクの人生を変えた一冊!だということで、どんなものだろうかという興味で読んでみた。地球人の主人公が、様々な宇宙人と出会いながら銀河をヒッチハイクするSFである。多種族間コミュニケーションであり、ちぐはぐながら話が通じる相手もいれば、まったく相容れない相手もいる。そうした多種族間コミュニケーションがコミカルでもあり、次々と起きる出来事が奇想天外でもあり、読んでいると楽しく、あっという間に読み終えてしまった。しかし、本書の最後は「軽く腹ごしらえとしゃれこもうぜ。行き先は”宇宙の果てのレストラン”だ」で締めくくられて物語が続くことがほのめかされるので、終わらないのだ。実に5冊からなるシリーズになっている。

めちゃくちゃで絶体絶命なことばかり起きるのに、なぜかラッキーが続いて生き延びていく。助かることが確率的にものすごく低くても0ではないので、死なない。まるで、最新のマルチバース宇宙論のような極端な確率の世界である。

「けたたましいガンク・ミュージック(ゴシック・ロックとパンク・ロックを融合させたロック・ミュージック)が<黄金の心>号の船室に響きわたった。」というくだりがある。まさにそうしたちょっとやばそうな音楽が本書のBGMにぴったり合いそうだ。キリング・ジョークとバウハウスがすぐに思いついた。

さて、イーロン・マスクが本書のどこに影響を受けたのかはよくわからない。つまらない理由で地球がかんたんに消滅してしまうことへの危機感か、星間飛行があたりまえの高度な科学技術か、宇宙人間コミュニケーションや銀河政府といったスケールの大きさか、もっと他の哲学的なモチーフか?そうした要素を含みつつも、コミカルで楽しい本書はおもしろい。私にとっては、人生を左右されることはなさそうだが、いい気分転換になる本であった。


僕の読書ノート「星を継ぐもの(ジェイムズ・P・ホーガン)」

2023-05-13 07:23:18 | 書評(文学)

 

創元SF文庫読者投票で第1位を獲得し、とくに日本での評価が高いハードSFということで読んでみた。月面で発見された人間そっくりな生物の死体は5万年前に死んでいる。彼はいったい何者なのかというナゾ解きが、本書の骨子である。宇宙船、宇宙科学、物理学の知識などが出てくる本格的な宇宙もののサイエンス・フィクションであるが、読んでいくと、進化学、とくに進化人類学が重要なテーマであることがわかってくる。

主人公の原子物理学者ハントと、微妙な拮抗関係にあるプライドの高い進化生物学者ダンチェッカーは互いに反発したり協力したりしながらナゾを解きを進めていく。ダンチェッカーは正統的な進化生物学の理論ー収斂進化や隔離による形質の分化ーを援用しながら解答を導き出そうとする。さて、どちらが正解を導き出せるのか?

本書が執筆されたのは1977年のことである。現在(2023年)の進化人類学の知見に照らし合わせると、矛盾点が気にはなってしまうが、宇宙を舞台に人類の由来について斬りこんだ意欲的な作品だと思う。


僕の読書ノート「現代歌人文庫3 寺山修司歌集(寺山修司)」

2022-12-24 07:47:10 | 書評(文学)

寺山修司は様々な分野で活躍したが、作品のほとんどが前衛とよばれる領域であったため、読者やお客を選んでしまって、十分なポピュラリティーが得られなかったのは残念だ。それでも我々を惹きつける瑞々しい、あるいは妖しい魅力があって、なんとか近づきたいと思って入っていくのである。

本書はもう20年くらい前に買って途中まで読んだのだけれど、けっこう読むのがたいへんでずっと放置していたのだが、あらためてちゃんと最後まで読み直してみた。今読んでもやっぱり難しくて意味がわからない短歌が多い。一つには、語尾に古語がよく使われていることもある。そして、これは脈絡のない2つや3つのパーツをコラージュして一つの歌にして、さあどう感じる?と提示している作品なのだとすれば、意図としては納得できる。ダダイズムなのだろう、シュルレアリズムなのだろう。しかし、それぞれのパーツがマーブルのようにきれいな模様を描いていれば何かを感じることができるが、水と油のように完全に分離しているとほとんど理解できない。さらに、前者の場合でも、読んだ人がどう解釈するかについては、許容範囲がとても広い感じがする。だから、ものすごく自分勝手、自己流の読み方ができてしまうように思う。

本書は、寺山の歌集4編と石川啄木論、エッセー、他の歌人による寺山論2編からなる次のような構成になっている。

・歌集「空には本」 1958年刊、青春と田園を感じさせる。寺山言「ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位に告白性を失くさせた」

・歌集「血と麦」 1962年刊、戦後の時代性や家族のこと。4年間も入院していたときに創作された歌。寺山言「私が詩人でありながら、いわゆる現代詩の多くに興味をもっていないのはそれが単に行為の結果であり、スタティックな記録にすぎないからなのだ」

・歌集「田園に死す」 1965年刊、土俗性と残酷性が一気に爆発する寺山らしい世界。寺山言「これは、私の「記録」である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う」

・歌集「未完歌集 テーブルの上の荒野」 1971年刊。

・石川啄木論

・エッセー(プライベート・ルーム) 寺山言「短歌は、言わば私の質問である」

・寺山論「アルカディアの魔王(塚本邦夫)」

・寺山論「寺山修司さびしき鴎(福島泰樹)」

 

「血と麦」の章「わが時、その始まり」には、「空には本」の中の有名な歌が再録されている。下記に引用したい。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

  ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

一転して、「田園に死す」はまるでバロウズのような醜悪な世界になり、下記のような歌がある。

  新しき仏壇買ひ行きしまま行方不明のおとうとと鳥

  間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

  いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり

  ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな

「未完歌集 テーブルの上の荒野」には次にような歌もある。

  人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

 

寺山修司は日本語のフェチだと言っていたらしい。たしかに、あるときは瑞々しく、あるときは禍々しく、言葉が立ってるな。


僕の読書ノート「アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)」

2022-01-22 08:54:29 | 書評(文学)

読んで泣くというより、救いがなくて読んでて苦しかった。

知的障害者のチャーリーは、やさしい心を持ち、向上心もあり、そこそこ幸せに暮らしていた。ある時、大学の研究チームが考案した知的障害の外科的治療法をはじめて受ける被験者になった。手術は成功して、チャーリーのIQはみるみる向上した。それによって記憶能力が高まったために、知的障害者だったころの記憶がよみがえってきた。それは、友達だと思っていた人たちから実はバカにされていたこと、母親から虐待を受けていてついには施設に送られて捨てられたことなど、辛い思い出だった。一方、知的能力が高まっても、人を思いやる心が発達しなかったため、今現在の周りの人たちの欺瞞と自己中心主義が許せなくて、怒りがおさまらない。そして、同じ手術を受けたネズミのアルジャーノンを観察していたら、この治療法の効力は長くは続かないことがわかり、チャーリーはまた昔のような混沌とした世界に戻ることを予見し、それに向けて心の準備を整えていく。

著者のダニエル・キースは本作のもとになる中編小説を書いて出版社に持ち込んだとき、編集者からハッピーエンドにするように求められたが、がんとして受け付けなかったという。そのうちもとのストーリーのままで出版してくれるところが見つかり、世に出ることになった。知的障害は、他人ごとではない。自分や身近な人が、いつ事故による高次脳機能障害になって、あるいは認知症になって、知的障害者のようになるかわからない。でも、今のところ、救う手立ては見つかっていない。ダニエル・キースがこの物語を安易にハッピーエンドで終わらさなかったのは、後世の人たちに救う手立てー医学的にも社会的にもーを見つけてほしいというメッセージを残したかったからかもしれない。