
進化の本を読んでいると、ときどき出てくるのが哲学者のダニエル・C・デネットである。彼の思想とはどのようなものなのか、文庫になっているような代表的な本で読んでみようと思って見つけたのが、1996年著の本書である。心の哲学の第一人者だという。そして、彼の思考は哲学的な思弁にとどまらず、進化学的な視点が大きく入ってきていることが特徴のようだ。本書では、心とは何かを定義づけすることを試み、そして心が進化の過程のどこで現れたのかについて思索を進める。結論からいうと、解答は得られない。しかし、将来解答が得られる可能性はある、そういう前提で果敢に思考を続けていく本である。
章ごとに、私なりのポイントをあげておきたい。
1.さまざまな種類の心
・心にはどんな種類のものがあるのだろうかという疑問は、哲学的に言えば「存在論」に関するものである。そして、どのようにしてわたしたちはその解答を知ることができるのだろうかという疑問は、私たちの知識に関わる問題、すなわち「認識論」の問題である。この本の目的は、これらの疑問に決定的な解答を出すことではなく、むしろ、なぜこの二つの疑問が同時に解決されなければならないかを示すことにある。
・人間以外の心が、なにかほかにいろいろな性質を持つものであるにせよ、わたしたちはそれが人間の心に似たものであると考えている。さもなければ、それを心とは呼ばない。このようにして、わたしたちの心、すなわち、わたしたちが最初から知っているただ一つの種類の心こそが、心についての考察をはじめるときの基準になる。まず、この点を合意しておかないと、議論は筋の通った意味のあるものにはならないだろう。
・わたしたちはたがいの言葉をそのまま信じ、ひとりひとりの人間が心を持つということがどんな合理的な疑問の余地もなく納得いくものだと考えている。言葉にこれほど説得力があるのはなぜなのだろうか。それは、言葉は懐疑と曖昧性を解決する強力な道具だからである。
・理論化する以前にわたしたちが持っている直観(言葉を話さない動物にも人間と同じような心があるはずだと思いこむような)に無批判に頼るのではなく、なにかそれに代わる探求方法を見つけようとするなら、まずは、歴史的な道筋、つまり、進化の道をたどってみることにしよう。わたしたちはおそらく、「似て非なる心」「心の原型」「心に準ずるもの」などて、本物の心を区別する必要があるだろう。
2.そこに意識は存在するか
・(心身二元論者や生気論者がかつて考えていたような)謎の追加成分が存在するのでないかぎり、人間はロボットを要素として成り立っているのであり、別の言い方をすれば、わたしたちは、何兆もの巨大分子機械の集合物なのである。しかも、その巨大分子はすべて、複製能力を持つ原初の巨大分子を祖先とする。このようにして、ほかならぬわたしたちがそもそも意識の存在を示している以上、ロボットを要素として成り立っていて、かつ、真正な意識の存在を示すものがいることは可能なのである。
・志向的な構えとは、(人間、動物、人工物を問わず)ある対象の行動について、その実体を、「信念」や「欲求」を「考慮」して、主体的に「活動」を「選択」する合理的な活動体と見なして解釈するという方策である。志向的な構えとは、わたしたち人間がおたがいに対して持っている態度や観点である。したがって、これを人間以外の他のものにあてはめるということは、故意に擬人化をすることのように思われる。しかし、気をつけて使えば、心に関する謎、いや、あらゆる種類の心に関する謎を解く鍵にもなるということを明らかにしていきたい。
・一部の哲学者たちは、ジョン・サールにしたがって、志向性を二つの種類に分ける。すなわち内在的な(あるいは、本来的な)志向性と派生的な志向性の二つである。内在的な志向性とは、わたしたちの思考、信念、欲求、意図が持つ「なにかについて」であるという性質そのものである。この志向性は、わたしたちの人工的産出物である単語、文章、本、地図、絵、コンピュータ・プログラムが、限定的、派生的な意味で「なにかについて」であることの源泉である。
・ロボットは、自身の経験から、判断したりするようになるだろう。ロボット設計者はどこまで自分で設計し、どこまでロボット自身にまかせたことになるのだろうか。ロボットにとっての「作者」が、ロボット自身であると自分で主張する要求も高まるだろう。そんなロボットは、いつかは登場するかもしれない。それが意味することは、そもそも内在的な志向性と派生的な志向性を区別するきっかけとなった対立関係(作者とロボット)が、派生的な志向性だけからなる世界(ロボットとロボット)のなかにも存在することである。つまり、派生的な志向性が別の派生的志向性から派生しているということだ。(このあたりの議論は、近年の大規模言語モデルなどのAIを想起させる)
3.身体と心
・おそらく、「たんなる志向的システム」と「本当の心」を見分けるには、その対象に近くが備わっているかどうかを調べれば分かるだろう。では、知覚とはなんだろうか。一般にはもっともレベルの低い意識を思わせる言葉である。さまざまなタイプの刺激反応やその役割に注目し、決定的な要素と思われるものを真剣に探せば、いずれ知覚について理解できるかもしれない。これで意識のある人間と、刺激反応性はあるが知覚のない祖先、すなわち巨大分子とを分けることができそうだ。
・自分を身体から引きはがそうとしても、哲学者が想像するほどきれいさっぱりと切り離せない。身体には、自分の大部分が含まれている。意義、才能、記憶、気質など、いまある自分を形づくっているものの多くが神経系に含まれているのと同様、身体にもたくさんつまっているのである。
4.心の進化論
・生物の進化の階層は認知能力の重要な進化を示している。第一層はダーウィン型生物で、遺伝子の新しい組み合わせや突然変異というきわめて不規則な過程によって、さまざまな有機体の予備軍が膨大に発生し、有機体は現場でフィールド・テストをうけ、もっともすぐれた設計を持つものだけが生き残った。ダーウィン型生物の一部は、スキナー型生物となり、幸運にも賢明な行動を偶然に好む「強化因子」を持っており、選択肢のなかから有利な行動を選ぶことができた。これらの生物はさまざまな行動を生み出しては一つずつテストして環境に立ち向かい、ようやく役に立つものを見つけた。進化の階層の第三層に属する生物が、ポパー型生物であり、予想される行動や活動がすべて「事前選択」され、愚かな行動は「実生活」のなかで危険にさらされる前に排除される。わたしたち人間にはこのすぐれた能力があるが、この力を持っているのは人間だけではない。
・人間は、ポパー型生物であるという点では、他のいずれの種とも同類である。哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、さらには多数の無脊椎動物でさえも、外界に踏みだす前に行動の選択肢を分類するとき、環境から得られる総合的な情報を活用する能力があることを示している。
・ポパー型生物の後継者のなかには、内部環境が、先に構築された外部環境の一部から情報を得ている生物がある。それを、イギリスの心理学者リチャード・グレゴリーに依拠して、グレゴリー型生物と呼ぶ。グレゴリーの理論では、よくできた人工物であるハサミはたんに知性の結果ではなく、きわめて端的かつ直観的な意味で、知性の原因(すなわち外部の潜在的知性)でもある。誰かにハサミを持たせたら、その人の能力が高まり、より安全かつ迅速に高度な働きをすることができるのだ。道具は幸運にもそれを手に入れたものに知性を与えるのである。グレゴリーは、すぐれた道具の一つに彼の言う「心の道具」があると指摘した。すなわち言葉である。
5.思考の誕生
・動物の心を解明する手がかりを探すべき場所は、他者(そして自分自身)に志向的な構えを当てはめる能力を持っている志向的なシステムである。思考しないものが他者の思考に気づいたり操ったりするというのは、どこか矛盾している。ということは、まさにこのあたりに進化において思考が発生する知性のレベルを見出すことができるであろう。思考はそれ自身によって思考を生み出すのだろうか(あなたがわたしの思考について考えようとすると、わたしはあなたと互角でいるために、あなたの思考について考えはじめなくてはならず、反省の軍拡競争になってしまう)。多くの理論家は、このようなある種の軍拡競争によってより高い知性が生まれたと考えている。
・わたしは一つの人格になるための重要なステップは、第一次の志向システムから第二次の志向システムに進歩することだと論じた。第一次の志向システムとは、いろいろなものを信じたり欲したりするが、信念や欲求そのものを信じたり欲したりしないシステムを指す。一方、第二次の志向システムは、自分にも他人にも信念や欲求があることを信じたり欲したりできる。さらに第三次の志向システムでは、自分がなにかを欲していることを相手が信じるようになって欲しいと思えるようになる。そして第四次になると、相手がなにかを信じているとこちらに信じるように欲していると信じることができる・・・・というふうにつづく。
6.わたしたちの心、そしてさまざまな心
・人間以外の動物の知的能力を解明しようとするときに最大の障害となるのは、おそらくわたしたちが動物たちの賢い行動を見て、人間と同じ内省的な意識のようなものがあるのではないかと思ってしまうことである。動物にそんなことはできないと、はっきりわかっているわけではない。ただ、研究がはじまったばかりの現時点では、できると決めてかかるべきではないだろう。
・幼い子どもが虐待を受けると、絶望的だが効果的な対処方法「分離」を思いつくことが多い。痛みから「離れる」という方法である。「痛みに苦しんでいるのは自分ではない」と、自分に言いきかせようとするのだ。痛みを分離した子どもは、分離していない子どもほど苦しまない。しかし、それでは「自然に」分離した生きものについてはなんと言うべきだろう。このような生きものは生まれつき苦しみを経験できないということになりそうである。しかしそうだとすると、人間のほかには、いまのところこのような内的構造をもつ種がいないなら、人間を除く動物は痛みは感じられても、苦しむことができないという仮説を裏付けることになる。しかし、この考え方の根拠について考えるときには、とくに注意深く、公平にならなくてはいけない。賛否両論のこのテーマを扱う場合、両方の立場から見ることが大切で、幻想に陥らないよう気をつけなくてはならない。
・本書は多くの疑問からはじまり、哲学書のつねとして、答えのないまま終わる。しかし、疑問そのものはより研ぎ澄まされたと思う。少なくとも、さまざまな種類の心を探求するときにたどるべき道筋、避けるべき罠について、われわれはもはや理解しているといえるだろう。
[わたしがすすめる本]
・本書を執筆するにあたって最大の影響を受けたという文献が数十冊紹介されている。その中で私(筆者)が以前から気になっていて読んでみたいと思ったのは、次の本である。高次の志向性に関連して、子どもと動物を「自然の心理学者」とする考えが示されたが、このテーマに着目した優れた本として、サイモン・バロン=コーエンの「自閉症とマインド・ブラインドネス」(95年、邦訳青土社、長野敬ほか訳)がある。