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wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

僕の読書ノート「カラー図説 生命の大進化40億年史 新生代編 哺乳類の時代(土屋健)」

2025-05-06 08:18:12 | 書評(進化学とその周辺)

 

「カラー図説 生命の大進化40億年史シリーズ」3冊目の本書は、新生代に生息していた動物(脊椎動物)たちを、骨格標本と生体の復元図、そして説明の文章で紹介した、コンパクトな図鑑といってもいいような本である。恐竜絶滅後の新生代だから、哺乳類が中心であるが、鳥類や爬虫類も少しは出てくる。名前では聞いたことがあるけれど化石でしか見れない動物でも、本書にあたれば、生きていた当時の姿がだいたいわかるかもしれない。

本書の構成は、新生代の地質年代順ー古第三紀(暁新世・始新世・漸新世)・新第三紀(中新世・鮮新世)・第四紀(更新世・完新世)ーに、その時代に現れた動物たちが並べられている。古生物学の世界ではこのような並べ方が親和性が高いのかもしれないが、私としては、動物群ごとー例えば食肉類とか、ペンギン類とかごとーに時代順に並べてもらったほうが理解しやすかったように思う。著者が本書のあとに出版した「サピエンス前史」ではそのような構成になっていたので、進化の過程がわかりやすかった。

陸上で暮らす哺乳類と、水中で暮らす哺乳類では、出産時の胎児の向きが逆らしい。陸上で暮らす哺乳類は、頭から産む。つまり、母体からは、頭が先に出る。一方、水棲哺乳類は、尾からであることが多いという。これは、哺乳類の呼吸法と関係している。哺乳類の呼吸は肺呼吸であり。水棲種であっても水中では呼吸できず、水面から顔を出す必要がある。水中における出産に際して何らかの理由で時間がかかった場合、頭から産んでいたとしたら子は呼吸できなくなって窒息死してします。尾から先に出すことで、子の頭部をぎりぎりまで母体内に残し、出産したらすぐに水面で呼吸できるようにする。その方が安全だ。クジラの現生種は水中で子を出産する。一方、水中へ進出する途上にあるムカシクジラ類のマイアケトゥスの化石の体内にいた胎児は頭部が後方に向いていたことから、頭から産む方式であり、出産が陸上で行われていた可能性が考えられた。

白亜紀末(中生代)までは「真獣類(有胎盤類)」と一括りにせざるを得なかった小さな分類群の中に、大量絶滅事件のあった約6600万年前から始まった新生代に突如として多くのグループが出現した。知られている限りの化石記録をみると、この爆発的な多様化は、暁新世が始まってからわずか数十万年以内に起きていたようだという。もっとも、化石が発見されていないだけ、あるいは、既知の化石に「分類できる明瞭な特徴」が確認されていないだけで、真獣類の多様化は白亜紀にはかなり進行していたという指摘もある(分子進化学からの知見についても目配りがされていた)。

北アメリカの第四紀を代表するイヌ類がダイアウルフだ。ウルフとはいっても、オオカミではない。新しい時代の化石なので、化石5個体から遺伝子採集をすることに成功し、2021年にその分析結果が発表された。同じイヌ類でも、オオカミやイヌより、セグロジャッカルやヨコスジジャッカルなどに近縁だったらしい(最近、米国のコロッサル・バイオサイエンシズ社が、「絶滅したダイアウルフを復活させた」と発表したが、実際のところはハイイロオオカミの遺伝子の20ヶ所をダイアウルフのものに置き換えただけであり、これではダイアウルフとは言えないと批判があがっている)。

更新世末にあたる約1万年前、とくに大型の哺乳類が次々と姿を消す「絶滅事件」があった。この事件に、当時すでに本格的な繁栄を始めていたホモ・サピエンスが関与していたという説があり、「過剰殺戮(オーバーキル)説」という。また、「気候変動説」もあるが、その両者が原因となった可能性もある。どちらも、現在の私たちが直面する問題でもあるが、解決のための答えはまだ出ていない。


僕の読書ノート「心はどこにあるのか(ダニエル・C・デネット)」

2025-03-22 08:03:23 | 書評(進化学とその周辺)

 

進化の本を読んでいると、ときどき出てくるのが哲学者のダニエル・C・デネットである。彼の思想とはどのようなものなのか、文庫になっているような代表的な本で読んでみようと思って見つけたのが、1996年著の本書である。心の哲学の第一人者だという。そして、彼の思考は哲学的な思弁にとどまらず、進化学的な視点が大きく入ってきていることが特徴のようだ。本書では、心とは何かを定義づけすることを試み、そして心が進化の過程のどこで現れたのかについて思索を進める。結論からいうと、解答は得られない。しかし、将来解答が得られる可能性はある、そういう前提で果敢に思考を続けていく本である。

章ごとに、私なりのポイントをあげておきたい。

1.さまざまな種類の心

・心にはどんな種類のものがあるのだろうかという疑問は、哲学的に言えば「存在論」に関するものである。そして、どのようにしてわたしたちはその解答を知ることができるのだろうかという疑問は、私たちの知識に関わる問題、すなわち「認識論」の問題である。この本の目的は、これらの疑問に決定的な解答を出すことではなく、むしろ、なぜこの二つの疑問が同時に解決されなければならないかを示すことにある。

・人間以外の心が、なにかほかにいろいろな性質を持つものであるにせよ、わたしたちはそれが人間の心に似たものであると考えている。さもなければ、それを心とは呼ばない。このようにして、わたしたちの心、すなわち、わたしたちが最初から知っているただ一つの種類の心こそが、心についての考察をはじめるときの基準になる。まず、この点を合意しておかないと、議論は筋の通った意味のあるものにはならないだろう。

・わたしたちはたがいの言葉をそのまま信じ、ひとりひとりの人間が心を持つということがどんな合理的な疑問の余地もなく納得いくものだと考えている。言葉にこれほど説得力があるのはなぜなのだろうか。それは、言葉は懐疑と曖昧性を解決する強力な道具だからである。

・理論化する以前にわたしたちが持っている直観(言葉を話さない動物にも人間と同じような心があるはずだと思いこむような)に無批判に頼るのではなく、なにかそれに代わる探求方法を見つけようとするなら、まずは、歴史的な道筋、つまり、進化の道をたどってみることにしよう。わたしたちはおそらく、「似て非なる心」「心の原型」「心に準ずるもの」などて、本物の心を区別する必要があるだろう。

2.そこに意識は存在するか

・(心身二元論者や生気論者がかつて考えていたような)謎の追加成分が存在するのでないかぎり、人間はロボットを要素として成り立っているのであり、別の言い方をすれば、わたしたちは、何兆もの巨大分子機械の集合物なのである。しかも、その巨大分子はすべて、複製能力を持つ原初の巨大分子を祖先とする。このようにして、ほかならぬわたしたちがそもそも意識の存在を示している以上、ロボットを要素として成り立っていて、かつ、真正な意識の存在を示すものがいることは可能なのである。

・志向的な構えとは、(人間、動物、人工物を問わず)ある対象の行動について、その実体を、「信念」や「欲求」を「考慮」して、主体的に「活動」を「選択」する合理的な活動体と見なして解釈するという方策である。志向的な構えとは、わたしたち人間がおたがいに対して持っている態度や観点である。したがって、これを人間以外の他のものにあてはめるということは、故意に擬人化をすることのように思われる。しかし、気をつけて使えば、心に関する謎、いや、あらゆる種類の心に関する謎を解く鍵にもなるということを明らかにしていきたい。

・一部の哲学者たちは、ジョン・サールにしたがって、志向性を二つの種類に分ける。すなわち内在的な(あるいは、本来的な)志向性と派生的な志向性の二つである。内在的な志向性とは、わたしたちの思考、信念、欲求、意図が持つ「なにかについて」であるという性質そのものである。この志向性は、わたしたちの人工的産出物である単語、文章、本、地図、絵、コンピュータ・プログラムが、限定的、派生的な意味で「なにかについて」であることの源泉である。

・ロボットは、自身の経験から、判断したりするようになるだろう。ロボット設計者はどこまで自分で設計し、どこまでロボット自身にまかせたことになるのだろうか。ロボットにとっての「作者」が、ロボット自身であると自分で主張する要求も高まるだろう。そんなロボットは、いつかは登場するかもしれない。それが意味することは、そもそも内在的な志向性と派生的な志向性を区別するきっかけとなった対立関係(作者とロボット)が、派生的な志向性だけからなる世界(ロボットとロボット)のなかにも存在することである。つまり、派生的な志向性が別の派生的志向性から派生しているということだ。(このあたりの議論は、近年の大規模言語モデルなどのAIを想起させる)

3.身体と心

・おそらく、「たんなる志向的システム」と「本当の心」を見分けるには、その対象に近くが備わっているかどうかを調べれば分かるだろう。では、知覚とはなんだろうか。一般にはもっともレベルの低い意識を思わせる言葉である。さまざまなタイプの刺激反応やその役割に注目し、決定的な要素と思われるものを真剣に探せば、いずれ知覚について理解できるかもしれない。これで意識のある人間と、刺激反応性はあるが知覚のない祖先、すなわち巨大分子とを分けることができそうだ。

・自分を身体から引きはがそうとしても、哲学者が想像するほどきれいさっぱりと切り離せない。身体には、自分の大部分が含まれている。意義、才能、記憶、気質など、いまある自分を形づくっているものの多くが神経系に含まれているのと同様、身体にもたくさんつまっているのである。

4.心の進化論

・生物の進化の階層は認知能力の重要な進化を示している。第一層はダーウィン型生物で、遺伝子の新しい組み合わせや突然変異というきわめて不規則な過程によって、さまざまな有機体の予備軍が膨大に発生し、有機体は現場でフィールド・テストをうけ、もっともすぐれた設計を持つものだけが生き残った。ダーウィン型生物の一部は、スキナー型生物となり、幸運にも賢明な行動を偶然に好む「強化因子」を持っており、選択肢のなかから有利な行動を選ぶことができた。これらの生物はさまざまな行動を生み出しては一つずつテストして環境に立ち向かい、ようやく役に立つものを見つけた。進化の階層の第三層に属する生物が、ポパー型生物であり、予想される行動や活動がすべて「事前選択」され、愚かな行動は「実生活」のなかで危険にさらされる前に排除される。わたしたち人間にはこのすぐれた能力があるが、この力を持っているのは人間だけではない。

・人間は、ポパー型生物であるという点では、他のいずれの種とも同類である。哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、さらには多数の無脊椎動物でさえも、外界に踏みだす前に行動の選択肢を分類するとき、環境から得られる総合的な情報を活用する能力があることを示している。

・ポパー型生物の後継者のなかには、内部環境が、先に構築された外部環境の一部から情報を得ている生物がある。それを、イギリスの心理学者リチャード・グレゴリーに依拠して、グレゴリー型生物と呼ぶ。グレゴリーの理論では、よくできた人工物であるハサミはたんに知性の結果ではなく、きわめて端的かつ直観的な意味で、知性の原因(すなわち外部の潜在的知性)でもある。誰かにハサミを持たせたら、その人の能力が高まり、より安全かつ迅速に高度な働きをすることができるのだ。道具は幸運にもそれを手に入れたものに知性を与えるのである。グレゴリーは、すぐれた道具の一つに彼の言う「心の道具」があると指摘した。すなわち言葉である。

5.思考の誕生

・動物の心を解明する手がかりを探すべき場所は、他者(そして自分自身)に志向的な構えを当てはめる能力を持っている志向的なシステムである。思考しないものが他者の思考に気づいたり操ったりするというのは、どこか矛盾している。ということは、まさにこのあたりに進化において思考が発生する知性のレベルを見出すことができるであろう。思考はそれ自身によって思考を生み出すのだろうか(あなたがわたしの思考について考えようとすると、わたしはあなたと互角でいるために、あなたの思考について考えはじめなくてはならず、反省の軍拡競争になってしまう)。多くの理論家は、このようなある種の軍拡競争によってより高い知性が生まれたと考えている。

・わたしは一つの人格になるための重要なステップは、第一次の志向システムから第二次の志向システムに進歩することだと論じた。第一次の志向システムとは、いろいろなものを信じたり欲したりするが、信念や欲求そのものを信じたり欲したりしないシステムを指す。一方、第二次の志向システムは、自分にも他人にも信念や欲求があることを信じたり欲したりできる。さらに第三次の志向システムでは、自分がなにかを欲していることを相手が信じるようになって欲しいと思えるようになる。そして第四次になると、相手がなにかを信じているとこちらに信じるように欲していると信じることができる・・・・というふうにつづく。

6.わたしたちの心、そしてさまざまな心

・人間以外の動物の知的能力を解明しようとするときに最大の障害となるのは、おそらくわたしたちが動物たちの賢い行動を見て、人間と同じ内省的な意識のようなものがあるのではないかと思ってしまうことである。動物にそんなことはできないと、はっきりわかっているわけではない。ただ、研究がはじまったばかりの現時点では、できると決めてかかるべきではないだろう。

・幼い子どもが虐待を受けると、絶望的だが効果的な対処方法「分離」を思いつくことが多い。痛みから「離れる」という方法である。「痛みに苦しんでいるのは自分ではない」と、自分に言いきかせようとするのだ。痛みを分離した子どもは、分離していない子どもほど苦しまない。しかし、それでは「自然に」分離した生きものについてはなんと言うべきだろう。このような生きものは生まれつき苦しみを経験できないということになりそうである。しかしそうだとすると、人間のほかには、いまのところこのような内的構造をもつ種がいないなら、人間を除く動物は痛みは感じられても、苦しむことができないという仮説を裏付けることになる。しかし、この考え方の根拠について考えるときには、とくに注意深く、公平にならなくてはいけない。賛否両論のこのテーマを扱う場合、両方の立場から見ることが大切で、幻想に陥らないよう気をつけなくてはならない。

・本書は多くの疑問からはじまり、哲学書のつねとして、答えのないまま終わる。しかし、疑問そのものはより研ぎ澄まされたと思う。少なくとも、さまざまな種類の心を探求するときにたどるべき道筋、避けるべき罠について、われわれはもはや理解しているといえるだろう。

[わたしがすすめる本]

・本書を執筆するにあたって最大の影響を受けたという文献が数十冊紹介されている。その中で私(筆者)が以前から気になっていて読んでみたいと思ったのは、次の本である。高次の志向性に関連して、子どもと動物を「自然の心理学者」とする考えが示されたが、このテーマに着目した優れた本として、サイモン・バロン=コーエンの「自閉症とマインド・ブラインドネス」(95年、邦訳青土社、長野敬ほか訳)がある。


僕の読書ノート「進化生物学:DNAで学ぶ哺乳類の多様性(佐藤淳)」

2025-02-15 08:17:41 | 書評(進化学とその周辺)

 

本書のタイトルを見ると進化生物学の教科書のように思うが、中身は一般的で網羅的な教科書とは趣が異なっている。瀬戸内地方を拠点にして哺乳類の分子進化学の研究を行っている著者自身の研究史を紹介し、それを一例として、進化生物学の研究の進め方を指南する読み物である。進化生物学の研究を志している高校生や大学生にとって、将来を思い描くための参考になるだろう。一方で、著者の研究のくわしい方法論、とくに近年の遺伝子解析法の解説が書かれているので、分子進化学の教科書的な知識を得るのにも役立つ。

私が読んで気になったところを、章ごとに下記に記録しておきたい。それらは、著者の研究に対する思いも含んでいる。

 

第1章ー美しい島

・レトロトランスポゾンを含めた移動因子は哺乳類の進化において重要な役割を果たしたともいわれており、たとえば、胎盤、乳腺、二次口蓋(赤ちゃんがミルクを飲みながら息をするために必要)の形成においてレトロトランスポゾンが関与していることが示唆されている。乳腺の形成に関わる遺伝子の近くにはLINEが”連れてきた”転写因子結合領域が存在し、遺伝子の発現のオンオフを調節している。

・著者の研究によって、瀬戸内海島嶼のアカネズミのミトコンドリアDNAハプロタイプは共有されておらず、遺伝的分化が示唆された。次世代シークエンサ―を用いたゲノムレベルでの一塩基多型の分析により、海のなかったときに存在した古代河川の豊予川が、瀬戸内海島嶼のアカネズミの遺伝的分化に大きな影響を与えたことが明らかになった。瀬戸内海の島々は進化の研究をおこなうにあたり、大変魅力的なフィールドである。「なぜ、進化生物学を学ぶのか?」それは、面白いからである。面白さを感じずにどうしてこんな面倒くさい研究ができようか?

第2章ー日本列島と進化

・環境の有限性は進化に大きな影響を与える。海峡に囲まれた日本列島は、様々な有限な世界を提供する世界的にも大変興味深い場所である。海外の研究者との共同研究で、世界に生息する生物を研究するのもダイナミックで興味をそそられることではあるが、日本には興味深い生物およびそれを生み出した有限の世界があふれている。

・ただ、日本の生物を題材にする研究に陥りがちなのは、自己満足になってしまうことである。そうならないように、世界に振り向いてもらえるようなテーマをうまく見つけるのがよいのであろう。世界が興味を持つ気候変動や生物多様性の問題に自分の研究を関連づけるのもひとつの手だ。

第3章ー進化の痕跡

・進化の系統は毎回2つずつに分岐していくのが通常と考えられるが、系統樹において、関係性がわからず、3つ以上の系統が同時に分岐していることをポリトミー(他分岐)と表現する。そのなかで、DNAマーカーにおける系統情報が十分ではないために生じたポリトミーをソフトポリトミーと呼ぶ。一方で、本当に3つ以上の系統が同時に分岐していた場合、ハードポリトミーと呼ぶ。

第4章ー退化の痕跡

・もし実験をするときには、必ず実験ノートを取ることになる。これはとても大切な実験結果の証拠となるのだ。しかし、実験機器が出してくるデータをただ貼り付けるだけでは、後で見返したときに、どのようなことだったのか忘れてしまうことがほとんどである(わたしの頭のスペースはきわめて限られている)。そのため、サンプルの詳細や実験の条件などこと細かに書いておくほうが自分のためになる。

第5章ーテクノロジーと進化

・テクノロジーの発展により、処理しなければならないデータ量が格段に増えた。これからは、ゲノムの海のなかから、自分が欲するデータを取り出し、分析する能力が求められる時代となる。このようなバイオインフォマティクスだけで、人生を使い切ってしまうこともできるくらいだ。しかし、今一度、なにを研究したいのかをよく考えてみてほしい。

第6章ーなぜ進化生物学を学ぶのか

・「役に立つかどうかで研究をするべきではない」。なぜならすべての研究のなかから役に立つ研究に焦点をあてると、そもそも研究の視野が狭くなってしまうのだ。また、役に立つ研究は時代とともに変化するため、少し先の未来のことであっても「役に立つかどうかなど、今の社会には分からないことが多い」。役に立たない研究が、異なる時代に役に立つこともあれば、役に立つといい続けた研究が結局、なんの役にも立っていないこともある。社会はまず、すそ野の広い科学を受け入れる度量を身につけなければならない。

おわりに

・なにかに熱中するのに人生におけるステージは関係ない。それまでなんの興味がなくても研究を始めることができる。やってみると好きになることもある。「子どものころから生きものが大好きだった」などと、自分の今を意味づける必要など全くない。大切なのは今の本気度である。

・海外の研究者との交流は、島国では得ることのできない多様な意見を得ることができる。私が得たなかで最も大きいのは、ポーランドの共同研究者であるMieczslaw Wosan教授の言葉である。それは「面倒であると感じたときには、その面倒な方向に正解がある」という指摘であった。要するに、真正面からぶつかり解決していくしかないということだ。人が嫌がることのなかに、きっと生きる道があるかもしれない。なぜなら、他の人たちはそれをしないから。

 


僕の読書ノート「サピエンス前史 脊椎動物の進化から人類に至る5億年の物語(土屋健)」

2024-12-14 08:21:33 | 書評(進化学とその周辺)

 

生物の進化は、系統樹で表されるようにどんどん枝分かれして多様性が拡大していくが、本書では、現生人類(ホモ・サピエンス)が脊椎動物初期の魚類からどのように進化してきたか、その一本道をていねいにたどって描いている。著者の専門である古生物学の知見を主としながら、分子進化学の知見も取り入れて、人類進化史の現在の知見の到達点をわかりやすく概説した好著である。本書では、人類に至るまでの道程において獲得してきた特徴を、70の道標として注目している。また、一本道を辿るうえで人類への道から「わかれた動物」にも注目している。このように、初期魚類から辿る人類史の見取り図(ガイド)として役立ちそうだ。

章ごとに気になったポイントを記録しておきたい。

【黎明の章】

・有羊膜類から竜弓類と単弓類が分かれた。竜弓類は爬虫類とその近縁のグループ、単弓類は哺乳類とその近縁のグループである。ひと昔前は、哺乳類は爬虫類から進化したことになっていたが、現在の理解では、どちらのグループもその根幹に近い段階で、袂を分かっていた。

【雌状の章】

・広い意味での哺乳類である「哺乳形類」は、その初期において、二生歯性(生涯に1度だけ歯が生えかわる特徴)、二次口蓋の形成(口腔と鼻腔の分離)とそれによる嗅覚の鋭敏化、耳の骨の複雑化とそれによる聴覚の発達などの特徴を獲得した。

・初期の哺乳形類として化石が見つかっているモルガヌコドンは、大きい眼窩を備えていた。そのことから眼球も大きかった可能性が高く、集光能力が高いことから、夜行性だったとの見方が有力だ。この三畳紀後期からジュラ紀中期は恐竜類が世界を支配していた。そんな世界で、小型ですばしっこいモルガヌコドンは、単弓類後の獣弓類、そして哺乳形類の命脈をしっかり残すことにつながった。

・哺乳形類を構成するグループの1つとして、「哺乳類」が登場したのは、ジュラ紀から白亜紀の”どこか”だ。耳の骨と下顎の骨が離れ、哺乳類が生まれた。ただし、初期の哺乳類の耳の骨と下顎の骨は完全には分かれておらず、「メッケル軟骨」という軟骨を介して、互いに接していた。そして、哺乳形類の中でも「単孔類」以降に登場したものたちが「哺乳類」と定義づけられている。

・2010年、ディーキン大学(オーストラリア)のクリストフ・M・ルフェーヴルたちが、子に乳を与える現生哺乳類の3グループー単孔類、有胎盤類、有袋類のミルク成分を分析し、ある種のタンパク質がこの3グループに共通していることを見出した。このことは、単孔類、有胎盤類、有袋類の共通祖先の段階で、そのタンパク質を含むミルクが獲得されていたことを示唆している。つまり、この時点で、乳腺が発達し、哺乳を開始していた可能性が高い。

・中生代にも胴長80センチメートルとやや大型で動物食の哺乳類、レベノマムスがいた。レベノマムスの化石の胃があったとみられる場所からは、植物食恐竜の幼体の化石が発見されている。また、植物食恐竜を襲ったその瞬間のポーズのまま、植物食恐竜とともに化石となった標本も報告された。中生代の哺乳類が「恐竜類から逃げるだけの存在」ではなかったことを物語っている。

・白亜紀後期の地層から発見されたフィリコミスは、「社会性をもつ哺乳類」として、知られている限り最も古い存在だ。フィリコミスは、亜成体数匹と成体数匹の化石が同じ場所で発見される。このことから、フィリコミスの例は、「異なる世代が集まった哺乳類集団」の最古の例であり、哺乳類の集団営巣の最古の例であり、哺乳類における地中の巣の最古の例であるという。

・白亜紀前期の地層から発見されたオリゴレステスという小型の哺乳類は、耳の骨と下顎の骨が完全に分かれていた。この骨の変化は単純に骨だけの変化に限定されるものではなく、筋肉も伴っていたという。すなわち、かつて、咀嚼に用いられていた筋肉が「中耳」と呼ばれる空間を作り出すことで、外から入ってくる音を減衰させ、蝸牛、前庭、三半規管といった重要器官の並ぶ「内耳」を保護する役割を担うことになったという。

【躍進の章】

・有胎盤類は、アフリカ獣類、異節類、ローラシア獣類へと分かれた。これらは、”理屈”上では(分子進化学ではという意味だろう)、白亜紀(中生代)までに”ヒトに至る系譜”(新主齧類のことだろう)と分かれていた可能性が高いとみられているが、決定的な証拠となる化石は発見されていない。

・オナガザル類が”ヒトに至る系譜”と分かれた。ともにアフリカ大陸を故郷とし、ユーラシア大陸へと拡散していった。オナガザル類の中には、現在まで子孫を残すグループ「コロブス類」がいる。彼らは生息域を広げていく中で、日本にも約300万年前に到達していた。神奈川県愛川町から「カナガワピテクス」というコロブス類の頭骨化石が報告されている。オナガザル類の中でもコロブス類とは別の系譜として進化を重ねた”狭い意味のオナガザル類”もある。マカクやヒヒなどが属している。現代日本で私たちとともに生きるニホンザルもこれに属している。

【人類の章】

・交雑することで、ホモ・サピエンスの中にはホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人の遺伝子が残っている。デイヴィッド・ライクは著書「交雑する人類」の中で、ホモ・ネアンデルターレンシスから継承された遺伝子の中で、生殖能力に関する部分が自然選択によって強力に排除されていったことに言及している。そもそも動物全般に通じる現象として、本来、交雑で生まれた子孫は繁殖能力が低くなる。しかし、ホモ・サピエンスでは、そうはならなかった。篠田謙一の「人類の起源」の中で、ホモ・サピエンスがホモ・ネアンデルターレンシスやデニソワ人から継承しなかった”生殖に関する遺伝子”に注目し、「案外、私たちが残ったのは、単により子孫を残しやすかったためなのかもしれません」と綴っている。(様々な人類種が生まれた中でホモ・サピエンスだけが生き残った理由として、社会性や言語能力などが様々に議論されているが、これは興味深い視点だと思った)


僕の読書ノート「ペットが死について知っていること(ジェフリー・M・マッソン)」

2024-10-19 08:35:29 | 書評(進化学とその周辺)

 

本のタイトルが間違っていた。以前から、動物が死を認識しているのかどうかについて興味を持っていたので、タイトルに魅かれてあまり調べもしないで買ってしまったのだが、読んでみたら内容がタイトルとは違っていた。「ペットが死について知っていること」については、ある程度は取り上げられてはいるものの、そういうことを主題とした本ではなかった。また、副題の「伴侶動物との別れをめぐる心の科学」も間違っていた。本書では「科学」については、ほとんど触れられていなかった。だから、そういう興味を持って本書を読むと物足りなさを感じてしまうことになる。

本書の英文タイトルは「Lost Companions: Reflections on the Death of Pets」である。そのまま訳せば「失われた伴侶:ペットの死における反応」であり、それが正しくこの本の主題をあらわしている。本書の内容は、取材にもとづく多くのエピソードや自らの経験を元に考察した、ヒトと伴侶であるペットの間の深い愛情と、そのペットが死んだときのヒトの深い悲しみやその時どうすればいいかについての提案である。「ペットが死について知っていること」や「心の科学」の本ではない。

とても良識的な内容であるし、私も動物との深い愛情や辛い死を経験しているので、おおむね書いてあることには同意できるので、日本の出版社のミスがとても残念である。あと1点、欧米で安楽死の安易な利用が多いのはいかがなものかと思う。

動物が自らや他者の死を認識しているのかどうかについて、科学ではないが、エピソードや著者なりの考察については多少書かれていたのでそれを引用しておきたい。

・犬や猫には、死という概念がないとされてきた。はたして本当にそうだろうか。推測の域を出ない話だという声はもっともだが、私が聞いたり読んだりしてきた話の多くが、実際には犬や猫が死の瞬間に、独特の表情で人間を見つめてくることを伝えている。まるで最期の別れであることを悟り、深刻な場面であることに気づいているかのようだ。いつもの「さよなら」とは明らかに違うということ。私は、犬にはそれがわかると確信している。おそらく、動物にとっての死も人間にとってのそれと同じように大きな意味を持っている。

・ここで、明確な答えが存在しない問いに向き合っておきたい。それは「犬は自らの死について考えるのか」ということだ。彼らには死という概念があるのだろうか。・・・私が確信しているのは、・・・彼らは死後の人生(それにしてもおかしな言い方だ)について思い巡らしたりもしないはずだ。言い方を変えれば、彼らには来世があるのかどうか、死んだあとに何が起こるのかどうか、などは考えないということだ。

・2007年、米医学誌『ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』は、”猫オスカーのある1日”と題する前面記事を掲載した。記事では、・・・2歳の猫オスカーについてのエピソードを紹介している。オスカーは子猫のころに、・・・認知症患者やアルツハイマー病患者が暮らす・・・センターに引き取られた。世界中が注目したのは、オスカーがある不思議な才能—こう呼んだほうがよければだが—を持っているという「事実」だった。オスカーは患者の部屋にふらりと入り、患者の枕元で添い寝をしてゴロゴロとのどを鳴らしながら待つ。いったい何を待つのかというと、数時間後に決まって訪れる患者の「死」だ。オスカーは毎日さまざまな患者の部屋に出入りするのだが、長く居座るのは、もうすぐ死を迎える患者の部屋だけだという。(日本でも似た例が犬で報告されている「看取り犬・文福(若山三千彦)」)

・どうやってオスカーは死をかぎつけるのか。・・・この件について見解を述べる医師のほとんどが、オスカーは病室に入るときに空気をかいだのだろう、と指摘している。オスカーは人間が気づかないレベルの臭い—死んでいく細胞から発生するものと思われる—を感知できたのではないか、というのが彼らの見立てだ。

・猫について、そして死について考えるなかで、わかってきたことがある。それはほかの動物たちが「死」をどうとらえているのかについて、私たちがいかに無知かということだ(人間の死についてさえ、あまり理解できていないのかもしれない)。もしかしたら動物たちは、これまで私たちが考えてきたことよりも、死をよく理解しているのかもしれない。私は猫と暮らし、猫のことを考えるなかで、人間の領域を超えた彼らの知識について、私たちがいかに無知であるかを教えてもらった。あの猫のオスカーは、誰も知らない、あるいは知り得ない何かをたしかに知っていたのだ。オスカーだけが特別なのか、猫が秘密を隠しているのかはわからない。いずれにしても、光栄にも一緒に暮らしてくれる、あの小さなトラたちのことを、私たちはつぶさに観察していくべきだろう。

・野生動物は互いに悲しみ合ったりするのだろうか。答えは間違いなくイエスだ。・・・ゾウが互いの死を悲しむのであれば、人間の死に対しても悲しみの感情を抱くはず、そうは考えられないだろうか。私は、『象にささやく男』を著した故ローレンス・アンソニーが残してくれた事例に、そのヒントがあるような気がしている。・・・2012年のことだった。彼が61歳で心臓発作のために息を引き取ると、(何年も前に彼に命を救われていた)ゾウの2つの群れ、合せて31頭が約180キロの道のりを歩いて彼の家まで行き—1年半ぶりの訪問だ—2日2晩にわたり何も食べず、その場にずっと立ち続けたのだ。きっと亡くなった友人に敬意を表し、その死を悼んでいたのだろう。

・この本を書き終えたいま、私はこう確信している。犬たちは最期が近づいていることを、たしかにわかっている。彼らには死の概念があり、死について考えている。というより、死を感じている、と。そして、犬たちが死をどう思っているのか、それを私たちが正確に知ることはできないということも、あらためて実感している。