哺乳類進化の中でもとくに重要な、乳と乳房(乳腺)を意味する「おっぱい」に特化して書かれた本である。本書の大部分を占める乳とその成分と進化については浦島氏、発酵乳について福田氏、乳利用の歴史について並木氏が分担執筆している。浦島氏は本書で、乳(ミルク)と乳房のことを「おっぱい」という言葉で言い続けているので、私もそう言うことにする。
乳中の成分から見てみよう。おっぱい中の脂肪含量はウシやヒトでは、それぞれ3.3%、3.5%であるが、動物によって大きく違っていて、クジラでは52%、アザラシでは68%にも達する。かれらにとっておっぱいは白い液体というようなものではなく、脂っこい固まり、濃い生クリームを食べているようなものである。クジラやアザラシのような海棲哺乳類の場合、子どもは海水中でも体温を保たなくてはならないので、皮下脂肪をなるべく早く体につける必要がある。また、真水が得られない海の中で生活しているお母さんにとって水分は貴重である。そうした理由で、おっぱいの脂肪分が多くなっていると考えられる。
牛乳に含まれる糖として乳糖が知られているが、哺乳類のおっぱいには乳糖の他にもミルクオリゴ糖が含まれている。ミルクオリゴ糖は乳糖に様々な単糖が結合して作られる。単孔類と有袋類や、有胎盤類の中のクマでは、乳糖よりミルクオリゴ糖のほうが多い。浦島氏はミルクオリゴ糖の専門家なので、それについての記述がくわしい。ミルクオリゴ糖の中にも多くの種類がある。おっぱいには、人間の血液型(ABO式)を決める血液型物質のようなミルクオリゴ糖が含まれていて、動物の種類によって異なっている。これらは、ウイルスのような病原体を排除するはたらきがあるのではないかと著者は考えている。ミルクオリゴ糖には、タイプⅠ型、タイプⅡ型、それ以外のタイプに分けられる。タイプⅠ型が多いのはヒトだけで、類人猿ではタイプⅡ型が多く、それ以外の哺乳類はタイプⅡ型だけを持っているということで、ヒトの進化との関係でどういう意義があるのか興味が持たれる。
単孔類のおっぱいに特徴的な成分に、MLPというタンパク質がある。これは2014年に発見されたばかりで、細菌の増殖を抑えるはたらきがあると考えられている。MLPとよく似たC6orf58というタンパク質は、そのほかの哺乳類や鳥類、魚類ももっている。このような祖先のタンパク質がもともとおっぱい以外のところで発現していたものが、単孔類ではおっぱいで発現するようになった一方で、他の哺乳類ではなぜ発現していないのかはわかっていない。
哺乳類の起源をおさらいしてみる。両生類から、乾燥した陸上での活動に向いた固い皮膚と羊皮のような殻の卵をもつ有羊膜類(爬虫類、鳥類、哺乳類の祖先)が現れ、そのなかから約3億年前に単弓類が進化した。単弓類から、獣弓類、キノドン類へと進化し、恐竜の繁栄が始まった2億2500万年前(三畳紀)に哺乳形類が出現したがまだ卵を産んでいた。そして、約2億年前(ジュラ紀)に哺乳類が現れ、おっぱいを子どもに与えて育てるようになった。
乳腺は、汗腺の一つであるアポクリン腺から進化したと考えられている。乳腺から、タンパク質、乳糖や多くの水に溶ける成分はエキソサイトーシスという方法で細胞外に分泌されるが、脂肪はアポクリン腺同様、アポクリン分泌という方法で、脂肪が細胞膜に包まれた形で分泌される。この膜が脂肪球膜と呼ばれる。実は、皮膚からおっぱいのような栄養素が分泌される現象は、両生類の一部でも見られるという。ある種のイモリにおいて、孵化したばかりの幼体が、皮膚腺のよく発達している親の皮膚、あるいは皮膚腺分泌物を食べていることが観察されている。このことから、皮膚の腺からは栄養が分泌され、水分を介して卵へ補給されていて、幼体が孵化したあとも栄養として与えられているのではないかと想像されている。哺乳類の中でも祖先的と考えられている単孔類には乳首がなく、2か所ある「乳嚢」というおっぱいが分泌される場所に100くらいの小さな孔が開いたミルクパッチと呼ばれる部分があり、おっぱいはそこから分泌され、赤ちゃんはそれを舐めるようにして受け取る。
おっぱいのタンパク質には、おっぱいの中だけにしか発見されない固有のものがあるが、突然出現したわけではなく、体内の他のタンパク質から進化して作られたと考えられている。こうしたタンパク質として、カゼイン、β-ラクトグロブリン、α-ラクトアルブミンがある。カゼインは、おっぱいのタンパク質の中で最も量が多く、おっぱいを白く見せている。カゼインは、SCPP(分泌型カルシウム結合性リンタンパク質)という、無機質を沈着させたり、組織の中でカルシウムの状態を調節するタンパク質のグループに含まれる。SCPPは、歯や骨の形成に関係するもの、唾液中でカルシウムを運搬するものなどがあり、カゼインは骨格の発達に必要なカルシウムとリン酸を小腸から吸収しやすくする働きがある。一つの仮説として、SCPPタンパク質は、羊皮状の卵の表面にカルシウムを運搬する役割を持っていたが、遺伝子の変異によって、現在のようなカゼインへと進化し、赤ちゃんの栄養源へとその役割を進化させたという考え方がある。
β-ラクトグロブリンは、タンパク質栄養として以外の働きに、赤ちゃんへビタミンA、ビタミンD、脂肪酸や、脂肪によく溶ける化合物を運搬することが考えられている。単孔類、有袋類、複数の有胎盤類のおっぱいに見られるが、ヒトには含まれていない。β-ラクトグロブリンは、リポカリンというタンパク質ファミリーに含まれる。リポカリンには「バレル型脂溶性ポケット」という部分があり、その中に水に溶けにくく油に溶けやすい化合物を取り込んで運搬している。
α-ラクトアルブミンはカルシウムを結合する性質を持ち、乳糖を作る酵素を構成する2つのタンパク質のうちの1つを担っている。哺乳類のおっぱいにも含まれている、細菌の細胞壁を壊して死滅させる酵素であるリゾチームから、カルシウムと結びつくリゾチームへと進化し、さらにα-ラクトアルブミンになったと考えられている。単孔類にも存在している。
細胞膜のところで、脂肪球膜を作るのに働く2つのタンパク質がある。一つはピューチロフィリンで、免疫グロブリン・スーパーファミリーのメンバーであり抗体とよく似ている。もう一つはキサンチンオキシドレダクターゼで、本来は尿酸の形成や窒素との反応などの多くの機能に関係しているタンパク質で、おっぱいでは微生物の活性を抑える役割をもっている。このように、別の機能を持っていたタンパク質が、おっぱいの成分になって別のある機能を持ったり、おっぱいの成分を作るために働くようになったりと、うまく利用されていることが多い。
浦島氏はここまでのまとめとして、「おっぱいをはじめとする体の機能や循環、分泌などの生理からは、化石研究とはまたちがった視点で哺乳類の進化の謎に迫ることができます。このような学問領域は今まさに始まった段階にあります」と述べ、今後の哺乳類進化におけるおっぱい研究の進展について期待を示している。
福田氏の担当した章で興味深い内容として、次のようなことが書かれていた。これまで、赤ちゃんは微生物にまったく汚染されていない、まっさらな状態で子宮から出てきて、産道を通るときに母親の膣に住んでいた乳酸菌が赤ちゃんへ移行すると考えられていた。しかし最近になって、赤ちゃんが生まれて初めて出すうんちである胎便と授乳開始後の大便からバクテリアが見つかり、その中からビフィズス菌を含む放線菌門、大腸菌などを含むプロテオバクテリア門、乳酸菌が含まれるフィルミクテス門に属する菌が見つかったという。具体的な経路は不明だが、お母さんに住みついたバクテリアが、おなかの中にいる赤ちゃんへ移行している可能性が考えられている。
また、乳酸菌は一般的には身体にいいと考えられているが、かならずしもそうでない場合もあるということが注意点として述べられている。そして、乳酸菌が宿主に接着するために使っている菌体表面のタンパク質の中には、病原性細菌の宿主接着に使われるのと同じものがいくつも存在するという。宿主へ接着するメカニズムに関しては、病原細菌と乳酸菌は多くの部分で共通しているということである。
並木氏の担当した章で興味深い内容として、動物の家畜化の歴史が書かれている。まず人間は、2万年前にオオカミを祖先種とするイヌとの共同生活を始めた。1万年ほど前には、イラン、イラクの国境のあたりで、ベゾアールという反芻獣をもとにヤギの家畜化が始まった。少し遅れて、東中央アジアやウラル地方のウリアルを祖先種としてヒツジの家畜化が始まった。7000万年前くらいに、西南アジアでオーロックスを祖先種としてウシが家畜化された。4000年前に、アジアスイギュウを祖先種としてスイギュウが家畜化された。4500~5000年前に西南アジアでヒトコブラクダが、4500年前にイラン東部でフタコブラクダが家畜化されたとしている。
おっぱいは化石にも残らないし、現存動物の遺伝子からの解析もあまり進んでいるようには見えない。以上、これまでにわかってきたおっぱいの進化について本書からまとめてみたが、いろいろと興味深いことがわかってきた一方で、これから解明されるべき課題も残されているように感じた。