wakabyの物見遊山

身近な観光、読書、進化学と硬軟とりまぜたブログ

東京散歩 その13-虎ノ門ヒルズ

2020-06-27 21:38:33 | 東京・川崎

虎ノ門ヒルズは森ビルの開発プロジェクトの1つで、虎ノ門ヒルズ駅を中心に4つの高層ビルが立ち並ぶことになっています。現在は3つのビルがほぼ完成していますが、その一つ、虎ノ門ヒルズ森タワーがかっこいいので見に行ったのでした。さすがに、職場の市ヶ谷から徒歩では遠いので、虎ノ門駅まで地下鉄に乗って行きました。

東京の近未来的な建築といえば東京スカイツリーがありますが、他に何かあるでしょうか?最近できた隈研吾設計の国立競技場は、木をたくさん使っているのが特徴の、その場に違和感なくなじんだ落ち着いた建築でした。没になってしまったザハ・ハディッドの設計は、高額であるとか、明治神宮外苑という聖地にそぐわないとか、ずいぶん反対が多かったですが、ある意味ぶっ飛んでいて、実現していたら東京、いや日本の未来を象徴するような建築になっていたのではないかと今になって残念に思います。

他に近未来的な建築として何があるかというと、森ビルの高層ビル群が思いつきます。東京タワーから見える景色の中でもひときわ目立っていました。その一つが虎ノ門ヒルズです。

 

虎ノ門駅から虎ノ門ヒルズ駅に向かって歩いていくと見えてくるのが、虎ノ門ヒルズです。左から虎ノ門ヒルズビジネスタワー、虎ノ門ヒルズ森タワー、虎ノ門ヒルズレジデンシャルタワーです。

 

そして、虎ノ門ヒルズ駅の上で、(仮称)虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの工事中です。

 

レジデンシャルタワーはマンション、高層ビルに多い直方体に近いです。

 

森タワーは、オフィス、ホテル、マンションの複合施設です。ただの直方体じゃなくて、トップが三角形になっていたり、角にこのようなカット面が入っていたり、独特な形をしているのでゾクゾクします。設計者は日本設計という会社になっています。

 

森タワーの低層階横には、緑が豊富なオーバル広場があります。

近くに見えるビルは、森ビルの愛宕グリーンヒルズフォレストタワーです。賃貸マンションですが、形状が独特でほとんど円柱状です。これもかっこいいビルです。

 

こうやって森ビルの高層ビル群を見ていると連想するのが、こちらの青島千穂氏の「光る都市」というCG画です。高層ビルがあたかも生き物のようにニョキニョキとはえている未来的なイメージが、とてもオーバーラップします。

 

愛宕グリーンヒルズフォレストタワーの奥にあるのは、愛宕グリーンヒルズMORIタワーというオフィスビルです。

 

虎ノ門ヒルズ森タワーを見上げます。

 

虎ノ門ヒルズビジネスタワー。

ビジネスタワー、森タワー、レジデンシャルタワーの並び。


横浜散歩 その4-鶴見川(国道1号線新鶴見橋~JR鶴見線国道駅)

2020-06-20 10:17:04 | 横浜

最近、自分の身体のことで済生会横浜東部病院に行っています。病院帰りに、そばを流れる鶴見川下流域を、下流に向かって歩いてみました(2020年6月9日)。鶴見川は町田市を源流とし、横浜市鶴見区から東京湾に流れ出る全長42kmの短い川ですが、昔は氾濫洪水を起こす暴れ川として存在感を示してきました。

 

ここからスタート。

 

病院の脇を鶴見川が流れ、国道1号線の新鶴見橋がかけられています。

 

新鶴見橋のあたりから鶴見川下流に向かって歩いていきます。

 

このあたりには珍しく、砂洲ができていてアオサギが歩いていました。

 

森永橋。

 

近くに森永製菓の工場があるのです。

 

そして見えてきたのが、JRの鉄橋。

 

列車は、1分に1本くらいの頻度でひっきりなしに通っていきます。ここを通る路線は、東海道線(上野東京ライン)、湘南新宿ライン、横須賀線、京浜東北線、相鉄・JR直通線、そして貨物線ですから、日本でも最も列車通過数が高いほうではないでしょうか。

 

ここで列車の通る音を聞いていると、なつかしい子供時代に戻ったかのような感覚になります。

 

旧東海道の鶴見川橋。

 

京急線の鉄橋。

 

国道15号線の鶴見橋を渡ると、黒い袋に詰められた得体のしれないものが並んでいます。福島原発の事故の後、放射能汚染物質がこのような形で回収されているのを見たことがあります。はたしてこれは何なんでしょうか。

 

ここに来て、漁船が係留されているのを初めてみました。

 

振り返って、さっき渡った鶴見橋を見ます。

 

芦穂橋。

 

遊歩道わきにはみごとなアジサイの木がありました。

 

潮鶴橋。

 

ハトが集まっていました。誰かがエサをあげているのでしょうか。

 

潮見橋。しかし、それぞれにいろんな橋の名前を付けるもんですね。

 

このあたりから漁船の係留が多くなってきました。

 

臨港鶴見川橋。

 

JR鶴見線の鉄橋。

 

この路線は、2両くらいの短い列車がわりとひんぱんに走っていました。この先の学校、研究所、工場群と、鶴見駅との間で人々の運搬をしています。しばらく前に、この路線の海芝浦駅に行ったときのレポートはこちらです

 

向う岸に見えるのは、横浜サイエンスフロンティア高等学校・附属中学校。

 

さらに行けば、鶴見川河口干潟もありますが、駅が近いので今日はここで帰ります。

 

JR鶴見線のガード下はアパートが並んでいて昭和の雰囲気がプンプンします。私も学生時代にはこんなアパートに住んでいたので、懐かしい感じもあります。

 

そして、このあたりの名所、駅に続くトンネルです。

 

トンネル内の両側は閉まっているところが多かったですが、居酒屋などがありました。

 

駅の改札。

 

駅名は国道です。近くを国道15号線が通っているからという安易な命名です。昭和5年開業以来ほとんど改修されていないそうです。昭和遺産として残してもらいたいものです。


東京散歩 その12-神田川(飯田橋~江戸川橋~椿山荘)

2020-06-13 07:54:37 | 東京・川崎

今回の東京散歩は神田川です。職場のある市ヶ谷から歩いて行けるところになるので、神田川の中下流域にあたる飯田橋や江戸川橋・椿山荘あたりを見て周りました。

神田川は、井の頭池に発して墨田川に合流する、東京の真ん中を流れている川ですが、いろいろと謎があって、例えば、地図で見ると飯田橋のあたりで直角に折れ曲がっているんですよね。川筋を人工的に曲げているにしても、直角は珍しいなと思って、飯田橋に見に行ったのです。

写真向かって上が上流の江戸川橋方面で、下方向に流れています。ところが、この道路の下で直角に曲がっているので、川面が隠れてしまって、実際のところどんな状態になっているのか見ることができませんでした。

 

直角を曲がると、神田川は水道橋、秋葉原方面に流れていきます。しかし、水はよどんでいて流れは感じられません。

 

昔は、電車で市ヶ谷あたりから見える川は神田川だと勘違いしていましたが、実はそのあたりは外堀であって神田川ではありません。しかし、外堀と神田川はまったくつながっていないのかというと、そんなことはなくて、このような水路でつながっているようなのです(端から端まで見てはいないので、ほんとうにつながっているのかはわかりません)。しかし、水は全く流れていません。想像ですが、大雨が続いたりして外堀の水位が一定以上に高くなると、この水路を通って外堀の水が神田川へ排水されるのかもしれません(梅雨に入ったことなので、チャンスがあったら確認してみます)。

 

次に行ったのが、江戸川橋。これは橋から下流方向を見ています。

 

上流方向は、文京区立江戸川公園となっていて川沿いが遊歩道になっています。

 

遊歩道の途中、このような休憩所もあり。

 

いくつか小さい橋があり。

 

川の流れはこのようであり、ずっと首都高が上を走っています。

 

江戸時代には、このあたりに堰があり風光明媚な名所だったそうです。川の改修には俳人の松尾芭蕉が関わっていたそうです。

 

さらに歩いていくと、遊歩道がおしゃれで綺麗になってきます。向かって右側が椿山荘の庭園なのです。

 

椿山荘の桂木門。

 

別の門。

駒塚橋からの眺め。

 

このあたりの江戸時代の風景は、歌川広重の名所江戸百景「せき口上水端はせを庵椿やま」として残されています。「せき口」はこのあたりの地名「関口」、「はせを庵」はこの近くにある「芭蕉庵」、「椿やま」は「椿山」のことです。今でもこの頃の雰囲気が残っていますよね。

 

アユも遡上するようになったそうで水質は改善しているのでしょうが、あまりきれいな水には見えません。

 

氾濫防止のためにここまで川底を深く掘り下げたのでしょうが、景観としてはちょっといただけませんね。上を首都高が走っていないのがなによりのすくいです。


僕の読書ノート「高倉健、その愛(小田貴月)」

2020-06-06 08:06:48 | 書評(アート・音楽)

不器用にしか生きていけない男たちの心のよりどころ、高倉健(本名:小田剛一)。2014年11月10日に永眠して、もうすぐ6年になるが、お墓参りしたくても正式なお墓がないし、住んでいた家ももう残っていない。最後の17年間をともに過ごした養女が、骨も遺品も遺産もすべて独り占めしてしまったといって世間からずいぶん叩かれた。その養女、小田貴月(おだたか)さんは何を考えているのかずっと知りたいと思っていたところ、ついに本書を執筆・出版した。

この二人が男女の関係にあったのだとしたら、一般的に見たらずいぶん不思議な関係だったのだなあというのが感想だ。その17年間の間柄は、一緒に出掛けることもなく、会うのは自宅の中だけの、世間から完全に隔離されたひっそりとしたものだった。そして、関係がまったく対等でないのだ。小田貴月さんは高倉の忠実な家政婦兼記録者になりきっている。そういう関係であることをお互いに認め合っていたようにも見える。

これまでに、あちこちで書かれてきたように、高倉は生涯に一度だけ歌手の江利チエミさんと結婚しているが、それは対等な関係だった。しかし、夫婦生活は苦難に満ちたものだった。チエミさんの義姉を名乗る吉田よし子という女が家政婦になり、疫病神のように悪行の限りを尽くした。家に火をつけて全焼させる、財産を横領する、高倉が浮気しているとチエミさんに吹き込んで離婚させる。それが嘘だったとわかり、チエミさんは高倉に謝って再婚を願い出るが、高倉は半年待ってくれと言う。チエミさんはその間にアルコール依存症になってしまい、ほとんど自死に近いような死に方をしたのだった。その後、高倉は亡くなるまで再婚することはなかったが、その理由としてはチエミさんへの思いもあっただろうし、結婚という形に心底懲りてしまったということもあったのかもしれない。

だから、世間から見たらずいぶんと変わっているのだが、心から信用できる、そして女性としても愛する小田貴月さんという人が現れて身の回りの世話までしてくれるようになったことは、高倉にとってはとても幸せなことだったのだろうなと思った。高倉は亡くなる2カ月前にこう書き遺したー「僕の人生で一番嬉しかったのは貴と出逢ったこと 小田剛一(p.330)」。そして、亡くなる2年くらい前に、「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから(p.8)」と高倉から言われた宿題を果たすために、膨大な資料と記憶をもとに書かれたのが本書である。内容は、高倉の映画人生、生活で起きたこと、二人の間に起きたことの記録である。

小田貴月さんも最初は不安でいっぱいだったようでー「高倉への一歩は、地図のない山に入山記録を残さず、単独登攀に臨むようなもの。迷路あり、行き止まりあり、判断を誤れば、遭難、滑落するかもしれない大きな決断でした(p.28)」と述べているが、覚悟を決めた後はー「”目立たずに過ごしたい”という希望に副い、高倉とは国内外の旅はもちろん、一緒に外食すらしたことはありませんでした(p.28)」そして、高倉の食生活の偏りを心配して、「食事のことで、私でお役に立てることはないでしょうか(p.66)」と尋ねたことをきっかけに、自ら望んで家での料理係となった。高倉が亡くなった後、家を処分したことについては、「高倉にとって、家は一代、誰にも見られたくない聖域でした。その思いをうけ、高倉の旅立ちとともに封印しました(p.57)」と、書いている。

文化大革命後の1978年ごろから中国で日本の映画が公開されるようになり、高倉が主演の「君よ憤怒の河を渉れ(1976年)」は中国全土で10億人以上が観たとも伝えられている。それ以降、高倉は中国で圧倒的に支持されるようになり、「あなたは、高倉健の様だ」と言われることは、男性への最上の褒め言葉で、女性にとっては理想の結婚相手となった。

日本生命/ロングランのCM(1984~1989年)に出演して、「自分、不器用ですから・・・・(どうか幸せで)」というコピーがきっかけで、高倉健=不器用というイメージが固まった。それに対して高倉は「『不器用ですから』というのは、コマーシャルでライターが考えた文句。とっても器用に生きてきたつもりです」とか「自分じゃ、全然不器用って思ってないけど」と、否定していたという。

この本を読んだことをきっかけに、テレビから録画したままだった高倉の映画をいくつか見た。「新幹線大爆破(1975年)」「八甲田山(1977年)」「遥かなる山の呼び声(1980年)」「単騎、千里を走る。(2006年)」―どれを見ても、ぶっきらぼうで不愛想だけれど心に人への強い思いをかかえている健さんが出てくる。もう他に、こんなタイプの映画スターも、中国人が憧れ尊敬する日本人も、出てこないかもしれない。稀有な存在だった。


健さんが亡くなったときの私のコメントはこちらです