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僕の読書ノート「「食べること」の進化史(石川伸一)」

2019-07-27 10:19:03 | 書評(進化学とその展開)


進化は進化でも人類の食の進化に特化してまとめた本は見たことがなかったので、貴重な本が出たと思って読んだ。
全体の印象としては、広く浅く非常に多岐にわたる情報を披露しているので、この分野の知識を広く得るのにはとても役立つ本だと感じた。一方で、読者をぐいぐい引き込む読み物としての面白さは少なく、食がこれまでも変化してきたし、これからも変化していくことは間違いないにしても、著者の主張はあれもありこれもありでいったいどこへ向かおうとしているのかが見えず、拡散した印象が残ってしまった。とくに、序章「食から未来を考えるわけ」は、一度読んだだけでは何を言いたいのかがわからなかった。情報ネタ本としては優れていると思う。なお、米国では現在、食品中のタンパク質源を動物から植物に変えていくような動きが起きているといわれているが、そうした動向についての記載はなかった。著者が畜産学出身のため、動物性タンパク質を擁護する立場にあるからだろうか?

本書では、食の進化と未来展望について、序章から始まって、料理、身体(健康)、心、環境に分けて論じている。
以下に、興味深い箇所をピックアップしてみた。

序章「食から未来を考えるわけ」
・フランスの思想家アンテルム・ブリア=サヴァランの「普段何を食べているのか言ってごらんなさい。あなたがどんな人だか言って見せましょう」という有名な言葉は、食の重要性をうまく言い当てているのだろう。
・イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスは、進化論をもとに、生物学を超えて他のさまざまな研究領域に応用した「ユニバーサル・ダーウィニズム」という概念を作った。実際に、心理学、経済学、言語学、医学などでは、進化論の理論を拡張した、進化心理学、進化経済学、進化言語学、進化医学といった分野が登場している。ここで、「進化」は、純粋に「変化」を意味するものであり、「進歩」を意味しない。本書で試みる食の未来予測は、食の歴史学、食の科学、食の心の科学といった学問を基盤とし、それらをユニバーサル・ダーウィニズムのような中立的視点で眺める形式をとっている。

第1章「未来の料理はどうなるか―料理の進化論」
・著者の研究室では、完成した料理を、物理的な記号を使った「料理の式」を用いて表現しているという。それによって、料理に潜む原理を探ったり、新しいメニューの開発等ができるということだ。具体的にどんなことをしているのか想像しにくいが、変わったことを考える人はいるものだ。
・1980年代後半くらいから、「分子ガストロノミー」または「分子料理法」という言葉ができ、科学的な手法によって、新しい料理を創造しようとする取り組みが始まった。当時の最新鋭機器から、フラスコやスポイトといった実験道具まで使用された。
・今後が注目される新たな料理は、「昆虫食」「培養肉」「3Dフードプリンタ」。

第2章「未来の身体はどうなるか―食と身体の進化論」
・私たちの祖先が食べていたものを時系列で並べると次のようになる。7000万年前にトガリネズミ目という食虫目から分かれた原始霊長類は昆虫を食べていた。昆虫に加えて果実を食べる原猿類が登場、さらに昆虫、果実に加えて若葉などを食するチンパンジーやオランウータンなどの種があらわれてきた。400万~200万年前に生存していたアウストラロピテクス属は、果実や葉の他、塊根、種子といった固いものを食べるようになったことで、歯と顔の形が変化し臼歯が大きくがっしりし顔面が平たくなった。また、このころ肉食も始まった。250万年以上前の遺跡から、肉を食べていた証拠とされる切り傷のついた動物の骨が出土している。最初は、腐肉を食べていたが、180万年前くらいに道具を用いた狩りができるようになったといわれている。こうした採集による植物性食品と狩猟による肉の取得行動を「狩猟採集」と呼ぶ。
・日本では1980年代に、食品が生体に及ぼす機能は、1次機能(栄養機能)、2次機能(嗜好機能)、3次機能(生体調節機能)に分類されるようになった。1991年に日本は世界に先駆けて、この3次機能を対象とした食品の法的な位置付けとして「特定保健用食品制度」を設け、世界の注目を集めた。現在では、健康維持への利用を目指した食品機能の研究「食品機能学」が世界で活発に行われている。
・その他のキーワードは、「マイクロバイオーム」「肥満パンデミック(世界的大流行)」「ニュートリゲノミクス」「テーラーメイド栄養学」。ヒトの体は、食べものがなかった時代から、食べようと思えばたくさん食べられる環境の変化に十分に対応できていないことで、肥満が起きている。このような進化的なミスマッチが、私たちをいろいろな病気にかかりやすくさせている。人類は、そのミスマッチをサイエンスとテクノロジーで解消するように努めていくだろうという。それは、薬であったり、脳手術であったり、機能性食品であったり、「脳刺激帽子」のような器具であったりするだろう。
・肉類を食べるのをやめ野菜を中心とした食事をする人はベジタリアン、動物性のものをすべて避ける人はヴィーガン、果物しか食べない人はフルータリアン、スープやジュースなどの液体しかとらない人はリキッダリアン、水以外の一切の食事をやめることを実践している人はブレス=呼吸だけで生きる人という意味でブレサリアンと名づけられている。ブレサリアンの実践者には、飢餓と脱水症で死亡する人もいるが、彼らの主張には呼吸法と日光浴の重要性があり、行き着く先には、葉緑体による光合成の機能を獲得した「光合成人間」になりたいという願望があると思われる。動物には実際に光合成をしているウミウシやサンショウウオがいる。藻類の光合成遺伝子の水平伝播や、緑藻との共生で可能になっている。著者は、光合成できる食べない多細胞生物になれば、食べるという行為がなくなるというが、それは無理に思える。光合成でできるのは糖やその重合体だけであり、植物だって根からの水や窒素・リン酸・カリウムの吸収を必須としているのである。

第3章「未来の心はどうなるか―食と心の進化論」
・食は政治的なイデオロギーに使われることもある。ベジタリアンはクリーンなイメージがあるが、ヒトラーは自らのベジタリアン思想を用いて、意志力の強さは菜食主義にあると述べ、戦争に勝つための「正しい食」のあり方を主張していたという。
・食べているものの種類は時代とともに増えている。選べるものの選択肢が多くなり、個人の好みや価値観も多様化している。食は、国や地域といった集団としての多様性に加え、個人の中にも多様性が存在する「スーパーダイバーシティ(超多様性)」になっている。

第4章「未来の環境はどうなるか―食と環境の進化論」
・増えていく人口分の食糧を地球が作れるのかという供給、生産の予測は、世間で心配されているところだ。2012年に出版されたヨルゲン・ランダースの「2052」では、世界のキーパーソン41人の観測を踏まえ、シナリオ分析というコンピューターシミュレーションで予想された最も実現確率の高い近未来を描いている。それによると、世界人口は、2040年代に約81億人とピークを迎え、その後は減少していく。2052年の世界の平均寿命は75歳を超えると予想している。そして、少なくとも2052年までは、十分な食糧があるという。食糧生産が増える一方、消費は懸念されているほど伸びないと考えている。
・1990年代の農学部は、バイオテクノロジーが大ブームだったが、現在では、「農」より「食」の存在が大きくなっている。食の生産に関する農学は、それを包括するより大きな「食学」の1分野となり、生産された食が私たちの食卓に届くまでを多角的に考えなければならない学問となっている。
・日本の家族団らんの歴史的な変遷の調査によると、近代までの一般的な家庭の食事は、個人の膳を用いて家族全員がそろわずに行われ、家族がそろっても食事中の会話は禁止されていた。明治20年代に食卓での家族団らんの原型が誕生した。そこには、欧米からの借りもの、啓蒙、国家の押しつけ、という影響があった。しかし、今では多くの人の心の中に、ロールモデルのような家族団らんのイメージが生き続けている。
・モニターに映る、過去に撮影された録画映像の人と会話をしながら一緒に食事をする「非同期疑似共食会話」というシステムが開発されている。こうした研究から、一緒に食事する相手が同じ空間にいなくても、さらに人間ではなくても、食事をともにする楽しみを、人は感じとることができる可能性が示唆されている。未来の食卓では、すでに亡くなった家族と楽しく会話しながら「共食」することがあるかもしれないという。

横浜スパークリングトワイライト2019 スパークリング花火

2019-07-20 10:40:10 | 横浜
横浜スパークリングトワイライト2019 スパークリング花火を見に行ってきました(2019年7月13日)。

今年で3回目、大さん橋屋上の自由席チケットを入手して行ってきました。この日は天気予報がはずれてあいにくの雨で、バッド・コンディションの中見てきましたが、後半はぜいたくな大玉連発があり、なかなか見ごたえのある30分間でした。


大さん橋屋上。多くの人が傘をさしたりカッパを着たりしています。正面海上が花火打ち上げ場所。


19:30に打ち上げ開始。










この花火、おもしろい形ですよね。


何かの顔?










終盤には、大玉連発がありました。




20:00で終了。30分と短い間でしたが、楽しみました。
山下公園前の海にはイルミネーションをつけた船が集まっています。

東京散歩 その4-防衛省

2019-07-14 15:44:16 | 東京・川崎
私が今通っている市ヶ谷ですが、市ヶ谷と言えば何を思い浮かべるでしょうか?
私は、昔から市ヶ谷駐屯地というイメージが強くありました。
今は防衛省と呼ばれている自衛隊市ヶ谷駐屯地に行ってみました。


防衛省は靖国通りに面しています。正面玄関のあたりから見えるように大きなビル群が立ち並んでおり、相当な数の職員を擁していることが推定できます。


正面玄関からは階段を上ってビルに着くようになっており、こういう土地の構造はよく神社でみられますよね。これは、中沢新一の提唱するアースダイバーでいうところの沖積層と洪積層の境目にある構造のようで、興味深いです。


巨大な電波塔も立っています。


防衛省の裏側から見た電波塔。


そして、巨大な中央のビル。

防衛省の裏側からは、自衛隊市ヶ谷駐屯地としての設備もちらっと見えます。
少し前のグーグルマップ3Dでは、迎撃ミサイル群が展開している様子を見ることができました。今は格納庫に収納しているようです。
そして、極秘のスパイ組織「別班」というものが存在していると言われています。

昭和の時代に三島由紀夫が切腹をした建物も残っています。私が高校生だったとき、国語の教師が、オモチャの兵隊のような服を着てなにやら演説をしていたと揶揄していたことを憶えています。一部の人たちにはインパクトを与えたショーだったのでしょう。

東京散歩 その3-朝鮮総連

2019-07-07 11:35:28 | 東京・川崎
前々回紹介の靖国神社と前回紹介の牛込濠(外濠)のちょうど間に、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)があります。


まん中にある、夕日で光っている建物です。
靖国神社からの距離約100mと、すぐ近くにあるところがおもしろいです。国際都市"Tokyo"ならではでしょうか。


建物の前の道路を機動隊が封鎖していますが、朝鮮総連への自動車の出入のときは直ぐ開けていました。


機動隊バス2台と警察車両1台でものものしい警備ですが、道路の反対がわに法政大学があって、歩道を学生たちがひっきりなしに歩いていきます。


朝鮮総連から人が出てくるとき機動隊の人は会釈していて、紳士的に対応しているようです。


コンクリートの塀の上にはたくさんの監視カメラがあって、あちらからも監視しています。

朝鮮総連の建物は一度他の人の手に渡ったと思いますが、いまだに朝鮮総連がここにあるということは、日本政府にも考えがあるんでしょうね。朝鮮総連がここを引き払ってあちこちに分散してしまったら、かえって監視が面倒になるということもあるのでしょう。
世界のグローバル化と国家主義のバランスの中で、今はふしぎな平衡状態が保たれている場所でした。

僕の読書ノート「サピエンス全史(下)(ユヴァル・ノア・ハラリ)」

2019-07-05 20:31:11 | 書評(進化学とその展開)


サピエンス全史の下巻に行ってみよう。

第3部「人類の統一」の後半
・今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源と見なされることが多いが、じつは貨幣や帝国と並んで人類を統一する三つの要素の一つであった。宗教は、超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。
・農業革命に宗教革命が伴っていたらしい。狩猟採集民は野生の動物や植物と対等の地位にあったが、農耕民は動植物を所有するようになった。このとき、神々は人間と口の利けない動植物との仲立ちをするという役割を担うことで重要性を獲得したという。
・西洋人はおもに一神教や多神教の教義になじんでいるが、世界の宗教史を見ると、インドのジャイナ教や仏教、中国の道教や儒教、地中海沿岸のストア主義やキニク主義、エピクロス主義は神への無関心を特徴としていた。仏教の中心的存在は神ではなくゴータマ・シッダールタという人間だ。ゴータマは、現実をあるがままに受け容れられるように心を鍛錬する、一連の瞑想術を開発した。「苦しみは渇愛から生じる」というダルマとして知られる法則は、仏教徒にとって普遍的な自然の法則である。仏教は神々の存在を否定はしない。そして、時がたつうちに悟りを開いた仏や菩薩を崇拝するようになった。
・文化をミーム学でとらえている。これはリチャード・ドーキンスの提唱した考え方だろう。つまり、生物の進化が遺伝子という有機的情報単位の複製に基づいているのと同じように、文化の進化もミームという文化的情報単位の複製に基づいているという考えだ。成功するのは、宿主である人間にとっての利益に関係なく、これを利用して自らのミームを繁殖させるのに非常に長けた文化だ。人文科学者の大半はミーム学を素人臭い試みと蔑み、ポストモダニズムに固執している。しかし、ミーム学とポストモダニズムは双子の兄弟であり、後者はミームの代わりに対話について語るのだという。また、社会科学では、ゲーム理論によって同じような議論がなされる。

第4部「科学革命」
・イスラム教、キリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。一方、科学革命は知識の革命ではなかった。無知の革命であった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。科学革命によって進歩という考え方が登場した。進歩という考え方は、もし私たちが己の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。
・今日の畜産業は悪意に動機づけられているわけではなく、無関心が原動力となっている。卵や牛乳、食肉を生産したり消費したりする人の大半は、それら動物の運命について考えることは稀だ。しかし、科学の諸分野は最近、哺乳類や鳥類には複雑な感覚構造と感情構造があることを立証している。つまり、彼らは感情的苦痛も被りうるのだ。進化は遊びたいという欲求、母親とむずびつきたいという欲望も植えつけた。工業化された農業においては、これらは奪われており、子牛はひどく苦しんでいるはずだ。
・これまで、世界に真の平和が訪れたことはなかった。つまり、戦争がつねに起こりうる状態であった。ところが、今日の人類には、ついに真の平和が実現している。小規模な国境紛争が起こる懸念は残るものの、旧来型の全面戦争に発展しうる危険性は、一部の例外しかない。戦争の代償が劇的に大きくなった一方、戦争で得られる利益が減少したためだ。

第4部の中の第19章「文明は人間を幸福にしたのか」
ここが本書の最も重要、かつ独創的な部分だろう。脳科学や進化学で得られた知見や仏教の智慧などを、そのまま人類史における幸福の理解に落とし込んでいるのである。
・これまで歴史学者は、人々が幸せになったかどうかについて答えることはなく、問題を提起することさえも避けてきた。
・富は実際に幸福をもたらす。しかしそれは、一定の水準までで、そこを超えると富はほとんど意味を持たなくなる。また、病気は短期的には幸福度を下落させるが、慢性疾患の場合、病状が悪化しなければ、この新たな状況に適応して、健康な人々と変わらないほど高い評価を自分の幸福度につける。家族やコミュニティは、富や健康よりも幸福感に大きく影響を及ぼすようだ。良好な結婚生活と高い主観的厚生、劣悪な結婚生活と不幸の間には、密接な相関関係がある。
・生物学者の主張によれば、主観的厚生は、給与や社会的関係、あるいは政治的権利のような外部要因によって決まるのではない。神経やニューロン、シナプス、さらにはセロトニンやドーパミン、オキシトシンのようなさまざまな生化学物質からなる複雑なシステムによって決定される。幸福度に1~10の段階があるとすると、陽気な生化学システムを生まれ持ち、その気分がレベル6~10の間で揺れ動く。こうした人は、どのような外部要因があっても、十分に幸せでいられる。一方、運悪く陰鬱な生化学システムを生まれ持つ人もいて、その気分はレベル3~7の間を揺れ動く。このような不幸な人は、どのような外部要因があっても、気分は沈んだままだ。
・このような幸福に対する生物学的なアプローチを認めると、歴史にはさほど重要性がないことになる。しかし、大きな重要性を持つ歴史的な展開が一つだけ存在する。何十億ドルもの資金を脳の化学的特性の理解と適切な治療の開発に投じれば、革命などいっさい起こさずに、人々をこれまでより格段に幸せにすることができる。
・ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは、この幸せの定義に異議を唱える。子育ては相当に不快な仕事であることが判明した。だが大多数の親は、子供こそ自分の幸福の一番の源泉であると断言する。この発見は、幸福とは不快な時間を快い時間が上回ることではないのを示している。幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっているという。
・ここまでの見方では幸福とは、快感であれ、意義であれ、ある種の主観的感情である。しかし、キリスト教も、ダーウィンやドーキンスでさえも感情はあてにならないと考える。利己的な遺伝子説によれば、DNAが自らの身勝手な目的のために、人々は穏やかな至福を味わいもせずに、あくせく働いたり戦ったりして一生を送るのである。
・幸福に対してまったく異なる探求方法をとってきたのが、仏教の立場だ。2500年にわたって、仏教は幸福の本質と根源について、体系的に研究してきた。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている理由もそこにある。幸せは外の世界の出来事ではなく身体の内で起こっている過程に起因するという見識は、生物学と仏教で共通であるが、仏教ではまったく異なる結論に行き着く。
・仏教によれば、苦しみの根源は苦痛の感情でも、悲しみの感情でもなければ、無意味さの感情でさえない。むしろ苦しみの真の根源は、つかの間の感情を果てしなく、そらしく求め続けることにある。感情の追求のせいで、心はけっして満たされることはない。喜びを経験しているときでも、心はこの感情がすぐに消えてしまうことを恐れると同時に、この感情が持続し、強まることを渇愛するからだ。仏教で瞑想の修練を積むことで、感情の追求をやめると、心は緊張が解け、澄み渡り、満足する。喜びや怒り、退屈、情欲など、ありとあらゆる感情が現れては消えることを繰り返すが、特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け容れられるようになる。そうして得られた安らぎはとてつもなく深く、喜びの感情を必死で追い求めることに人生を費やしている人々には皆目見当もつかない。
・学者たちが幸福の歴史を研究し始めたのは、ほんの数年前のことで、まだ初期仮説を立てたり、適切な研究方法を模索している段階にあるので、結論を出すには時期尚早であると、著者はまとめている。

最後に、第20章「超ホモ・サピエンスの時代へ」において、40億年の歴史を持つ自然選択による生物の進化を超えて、サピエンスそのものを変えるテクノロジーの時代に入ることを予見している。これは、次著「ホモ・デウス」につながっていくのだろう。