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僕の読書ノート「生物から見た世界(ヤーコプ・フォン・ユクスキュル、ゲオルク・クリサート)」

2020-08-28 21:24:24 | 書評(進化学とその周辺)

私は、思索社から昭和48年に初版が出た本書の昭和59年改刷版を購入した(写真上)。学生だった35年くらい前のことである。おそらく、日高敏隆氏が何かの本で本書を薦めていたので買ったのだと思うが、内容が難解だったため28ページで読むのを断念している。そのページにシオリが挟まれているのである。現在は、岩波文庫から出ている(写真下)。ずっと持っていた思索社版を読み直したのだが、329ページあって大変だった。ユクスキュルによる「動物と人間の環境世界への散歩」(1934)と「意味の理論」(1940)、それから、アドルフ・ポルトマン、トゥーレ・フォン・ユクスキュルによる解説から構成されている。クリサートは「動物と人間の環境世界への散歩」で挿絵を描いている。岩波文庫のほうは166ページとコンパクトになっていて、こちらの分量でちょうどいいのではないだろうか。そして、本書の主題である「ウンヴェルト(Umwelt)」を思索社版では「環境世界」と訳しているのに対して、岩波文庫版では「環世界」という訳語にしている。現在では「環世界」のほうが通りがいいようだが、私は思索社版に合わせて「環境世界」と呼ぶことにする。

そもそも本書をしばらくぶりに読み直すことにした理由は、生物の種によって世界の見え方が違っているというユクスキュルの考え方を、人間の世界の見方にも拡張できないだろうかという思いつきだった。同じ人間でも個人によって物の捉え方が違っているということはもちろんあるし、自閉スペクトラム症者と定型発達者とでは世界の感じ方や反応の仕方が大きく異なっているということが言われている。はたして、本書の説を援用できるだろうか?

下記にポイントを抽出してみた。

・ユクスキュルは、動物は知覚道具と作業道具とそれをまとめる制御装置からなる機械であるという機械論には反対する。そこには知覚したり、作用したりする主体がないからだという。生命を有する主体がなければ、空間も時間も存在しえないとし、それはカントの学説と結びつくとしている。

・主体と客体の関係は機能環という図式で表される(下図)。客体のもつある性質は知覚標識の担い手になる。知覚標識を受容器(感覚器官)が受け取り、脳内の知覚器官が刺激を受けるのが知覚世界である。一方、脳内の作用器官は、外界に対する動物主体の応答を与える実行器(筋肉)の動きを制御するのが作用世界である。実行器は客体に対して作用標識を刻みつける。作用標識によって与えられた性質は、知覚標識の担い手である性質に対し、客体を通して必然的に影響を及ぼし、知覚標識そのものを変化させるように働きかける。この知覚世界と作用世界が共同で一つのまとまりのある統一体を作り上げたのが環世界である。この図式に従って、具体的な動物の環境世界、例えばダニが哺乳類に落下して血を吸う一連の流れなどが説明される。

・環境世界の空間として、作用空間、触覚空間、視覚空間、最遠平面が説明される。眼の筋肉運動による遠近の判断ができる距離の平面が最遠平面である。そこより遠くは、遠いか近いかの区別はなく、ただ大きいか小さいかの相違があるだけである。この距離は、ヒトの乳児では10 mであるが、成年では6~8 kmになる。われわれ一人一人はこのシャボン玉で取り囲まれているが、隣人たちとは何の摩擦もなしに接しあっている。

・時間は主体の生み出したものとしている。瞬間が継続することで時間は成立し、同じ時間区分内に体験する瞬間の数は、主体ごと、環世界ごとに異なっている。人間では、瞬間の長さは1秒の18分の1である。空気の振動も、皮膚に加えられる打撃も、1秒の18回以上になると区別ができなくなる。映写機が映す映像のコマは18分の1秒の間隔によって、連続的に映写される。

・対象物への行為によって作り上げる作用像と感覚器官によって与えられる知覚像は、緊密に融合され、対象物は新しい性質を付与され、我々はその対象物の意味を知ることができる。その意味を、作用のトーンと呼ぶ。

・人間が観察した結果、主体だけにしか見えないような現象の起こる環世界がある。これは、外的な刺激や体験とも関連付けられない。こうした環世界を魔術的環世界と呼んでいる。(これらは、遺伝的にプログラムされたものを言っていると思われる)

・筋肉を鐘に例えている。さらに、われわれはそれぞれ別の音を出す生きている鐘をたくさん所有していると仮定して、様々な刺激に応えて主体的な「私のトーン」で答えるグロッケンシュピール(小さな鐘を並べてならす合鐘)は旋律をならすという。

・意味というものは、すべての生物において第一に取り上げるべき問題である。植物も動物も、その器官の形態も素材の配置も、それ自身のもつ意味に負うところが大きい。(生物の発生の過程は、意味という概念で把握されるものだということだろう)

・「もちろん「意味」という概念の上に立てられた自然理解を全体的に把握するためには、詳細な研究が必要である。というのは「思考のトーン」をもっているはずの脳については、われわれは今なお多くのことができないからである」と述べ、思考や脳内のプロセスについては、まだ研究がすすんでないということで、扱いを棚上げにしている。

・人間についての言及は少ない。「私は必ずしも自然全体が生み出したものではなく、人間の本性が生み出したもので、それ以上のことは認識のらち外である」「われわれ人間が動物に優っている点は、生来もっている人間の本性の広がりを広げることができるというところにある....知覚道具も、作業道具も人間が作った。そしてそれを利用できる人間の一人一人に、その環境世界を深め広げる可能性を与えるのである。環境世界の範囲からはみ出すものは何一つない」という記述はある。人間は動物と違って、本性を広げ、道具を使って環境世界を広げることができる存在であるとしている。

・トゥーレ・フォン・ユクスキュルが、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環境世界理論を解説している。その締めの文章で、人間同士の理解について述べている。「他の人間を理解するためにまずわれわれは、自分の主体的世界がすべての人間にとっても同じであるという世界や意見を捨てなければならない。他の生物を理解しようとする努力の中から、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、動物の環境世界の研究の科学的方法を発展させた。たしかに、それはすぐに人間相互の理解の問題に応用するには不十分である。しかし、そこにその手がかりがないかどうかーたぶん重要な手がかりがあると思うのだがー調べてみなければなるまいと」

最後に私の総括である。本書には、動物種によってそれぞれ見えている世界(環境世界)が違うことが示された。そして、人間は動物より広い環境世界を有している可能性がある。また動物種や人間個人によって見えている世界が違うということは、絶対的で客観的な世界というものはこの世にないという考え方にもつながる。一方、本書が書かれた時代的な制約ももちろんあるが、知覚標識から作用標識への脳内での処理過程についてはブラックボックスのままである。人間が表情や言葉によって伝えてくる複雑な知覚標識を主体がどのように把握・処理してどのように作用標識として表現しているのか、そのやり方が個人やなんらかの心理的タイプによって異なっているのかどうか、自閉スペクトル症者と定型発達者における知覚刺激に対する反応の違いといったことについても、とうぜん本書では扱われていない。本書で示された概念を応用したら、こうした問題にも取り組めるのかどうかも私にはわからなかった。しかし、将来何かの考えるヒントになるかもしれないので、環境世界の概念は頭の片隅に置いておこうと思った。


僕の読書ノート「種の起源(下)(チャールズ・ダーウィン)」

2020-05-23 08:13:49 | 書評(進化学とその周辺)

「種の起源」下巻では、地質学(化石)における進化の証拠の不完全さについて延々と議論していく。化石が残るかどうかは、地殻の上昇・下降など様々な自然の要因に影響を受けている。したがって、化石が連続的な進化の様相を示していないからといって、ある種から変種が生まれ、さらに新たな種へと変化していくという連続的な進化は起きていないと結論付けるのは無理があると主張している。そして下に示すように、現代の生物学の課題となっているような現象への気づきがすでにあったのは驚きである。

「すでに優勢な立場にある種類、あるいはその生息地で他の種類よりも何がしかの利点をそなえている種類からは、当然のごとく新しい変種、すなわち発端種がいちばん出現しやすい。(p.145)」と述べる。個体数が多ければ、それだけ遺伝子変異のバリエーションも多くなるので変種が生まれやすくなるという、現代でも通じるような考え方をしている。

生物種が一部地域に限定されて分布しているように見えても、実は広い地域で普遍的に分布していることを考察している。「有袋類は主にオーストラリアだけの種類であるとか、...という言い方もできない。なぜなら古代のヨーロッパにもたくさんの有袋類がいたことがわかっているからだ。(p.169)」私は初めて知ったのだが、有袋類はオーストラリアで独自の進化を遂げたのではなく、多くの地で絶滅しオーストラリアでのみ生き残った種類だということになる。

「そこのすむ生物にとっていちばん重要な要因は土地の物理的環境であるという見方こそが、根の深い誤解なのだ。実際には、成功を収める上でそれと少なくとも同じくらい重要な要因は、競争相手となる他の生物であり、一般には疑問の余地なくこの要因のほうがはるかに重要であると、私は確信している。(p.265)」と述べ、その種が繁栄できるかどうかは、物理的環境以上に競争相手となる他の生物がいるかどうかの影響が大きいと主張している。有袋類がオーストラリアでのみ生き延びることができたのは、そこに競争相手がいなかったからだということになる。

「生物の地理的分布をめぐる主要な事実は、移住(一般にはかなり優勢な生物種の移住)とそれに続く変化、そしてその後の新種の形成という説で説明がつくと思われる。(p.276-277)」とし、その場所で新種が形成された後に移住するという順番ではないとしている。

「コウモリの翼と脚はまったく異なる目的に使用されているのに、それぞれの構造を支えるためになぜ同じ骨が創造されねばならなかったのだろう。たくさんの部品で構成されたきわめて複雑な口器をもつ甲殻類は、結果として必ず肢の数が少ないのに対し、たくさんの肢をもつ甲殻類の口器は、逆に単純な構造をしている。これはなぜなのだろう。個々の花の萼、花弁、雄しべ、雌しべは、それぞれひどく異なる目的に適合しているのに、すべて同じパターンで構築されている。なぜなのだろう。(p.323)」近年になって、ホメオティック遺伝子のはたらき(後述)として説明できるようになった現象に対する問題意識がすでにあった。

最後のほうで、「遠い将来を見通すと、さらにはるかに重要な研究分野が開けているのが見える。心理学は新たな基盤の上に築かれることになるだろう。それは、個々の心理的能力や可能性は少しずつ必然的に獲得されたとされる基盤である。やがて人間の起源とその歴史についても光が当てられることだろう。(p.401)」と述べ、現代の進化心理学などの隆盛も予想していたかのようだ。

 

訳者の渡辺正隆氏による巻末の解説において、ダーウィン以後の進化学の流れが簡潔にまとめられていたので、そこを読むだけでもとても勉強になった。備忘録として下記にまとめておく。

・1859年の「種の起源」の後、1866年にオーストリアのグレゴール・メンデルがメンデルの遺伝の法則を発表した。1900年にこの法則が再発見されたとき、遺伝形質は離散的であるとの認識が広まり、小刻みに少しずつ連続的に作用する自然淘汰はさして有効でないと考えられるようになった。

・1930年代に集団遺伝学が隆興し、生物集団中に生じた遺伝的変異が集団中に広まって定着していく過程において、自然淘汰が大きな役割を演じうることを数学的に証明した。これにより、メンデル遺伝学と自然淘汰説との融合が成立した。そうした理論的予測は、ショウジョウバエなどの実際の生物集団を用いた実証的研究によっても裏付けられていった。

・1940年代に、分類学、体系学、古生物学、生態学などの最新の成果が持ち寄られ、自然淘汰説を中心に進化の総合学説として体系化された。一方で、発生学者の進化生物学離れが起きていた。

・1960年代に分子生物学が興隆したが、当初は進化生物学の進展には結びつかなかった。しかし、1968年に木村資生が中立説を発表し、タンパク質レベルでの変異の多くは中立であり、自然淘汰の網の目にかからないとした。中立的な分子の置換は時計のようにほぼ一定の速度で起こると想定する分子時計という概念も導入された。この後、分子進化の研究は一気に加速した。また、大野乾は遺伝子重複による進化説を提唱した。中立説も重複説も、自然淘汰とは無関係に起こる進化の仕組みであるが、そうやって生じた新しい遺伝子がいったん有利になれば、そこからは自然淘汰の出番となる。

・1980年代半ばに発生生物学において、脚、触覚、体節の発達を制御するホメオティック遺伝子群の存在が明らかとなった。その遺伝子群には、ホメオボックスという共通の配列の領域が含まれ、それはほぼすべての動物群や植物などにも存在し、それを調節する遺伝子がはたらく場所やタイミングを変更することで多様な身体づくりがなされることがわかってきた。そうして、発生生物学および分子生物学から進化学へのアプローチが可能となり、進化発生生物学(Evolutionary Developmental Biology)、略してエボデボが誕生し急速に進展している。そうした既存の遺伝子の使い回しで多様性を増大させていることを、遺伝子のブリコラージュ(間に合わせの器用仕事)と言うことができる。

・1960年代半ばに動物行動学によって提唱された包括適応度という考え方を基盤とする血縁淘汰説によって、社会性昆虫のワーカー個体の利他行動の進化が、自然淘汰説と矛盾することなく説明できるようになった。これを機に、1970年代初めには、動物行動学、動物社会学などの各分野が統合されて社会生物学あるいは行動生態学と呼ばれる分野が誕生し、動物の適応的行動に関する研究が加速された。リチャード・ドーキンスによる利己的遺伝子もその一環だった。また、血縁関係のない個体間での互恵的な利他行動などはゲーム理論を適応して説明されるようになった。動物の行動は自然淘汰が進化させた適応形質であるとのアプローチは、現在、心理学、言語学、人類学、医学などの分野にも援用されつつある。

・生態学では、1950年代以降、自然淘汰の有効性を生態学的に研究する進化生態学が盛んになった。さらに、理論生態学、カオス理論や複雑系としての解析などの動きも出てきた。

・古生物学では、1970年代に、スティーヴン・ジェイ・グールドとナイルズ・エルドリッジによる断続平衡説の提唱により、進化の進み方は漸進的か断続的をめぐる論争が勃発した。現在では、隕石衝突のような外的な要因による突発的で大規模な絶滅と進化が起こることと、そうした激変が収まると再び自然淘汰の出番が回ってくることという、両面で理解されているようだ。


僕の読書ノート「種の起源(上)(チャールズ・ダーウィン)」

2020-04-25 07:50:58 | 書評(進化学とその周辺)

本書を読むことにした理由は、この原点ともいうべき本を通過せずに進化のことを云々できないだろうという義務感だけではない。ダーウィンは自然淘汰説によって進化学を打ち立てただけでなく、人間を含めた動物の利他性にも注目していたといわれている。また、ダーウィン本人は自閉症スペクトラム(ASD)だった可能性も指摘されていて人間としての興味もある。そうした、いくつかの理由があった。そして、八杉龍一訳ではなく、こちらの渡辺政隆訳を選んだのは、読みやすいだろうということと、現代生物学から見た解説が付いていたからである。

こういう古くて難しい本は解説から先に読んだほうがいい、と考えて読んだ解説には次のようなことが書かれていた。

ダーウィンが資産家の家の生まれであったことは、これまでの世界観を変えるほどの大きな思想・理論を生みだすのに大いに役立ったと考えられる。たとえば、ビーグル号に乗船するときは、今の日本円に換算して500万円ほどに相当する支度金を父親に融通してもらっている。また、資産に恵まれていたため、終生、職業に就くことはなかった。彼は資産家の自然史学者として、世界中の自然史学者や市井のナチュラリストを相手に膨大な量の書簡を交わすことで情報交換を行った。そして、さまざまな材料を取り寄せて自ら実験観察も行っていた。人間的には、誰に対しても寛容で親切で、繊細であった。ビーグル号の航海から帰還後は、たびたび自律神経失調症的な症状に見舞われていた(岩波明氏によればASDだったとのことである)。1839年に「ビーグル号航海記」を出版したものの、生物進化についての考察は長年月かけてじっくり温めていて、論文や著作として発表することもなかった。ところが、1858年に突然、一通の手紙を受けたことで慌てふためく。若きナチュラリスト、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが、ダーウィンが密かに育んでいた自然淘汰説とうり二つの内容を発表したいと打診してきたのだ。出し抜かれると慌てたダーウィンは、地質学者のチャールズ・ライエル、植物学者のジョゼフ・フッカーと相談した結果、リンネ学会の集会で、ウォレスの論文とダーウィンの関連文献が同時に発表されることで自然淘汰説に対する両人の優先権が同時に認められる形になったのであった。また、ダーウィンは大著「自然淘汰説」を数百ページほど書き進めていたが、その要約をまとめて1859年に出版したのが「種の起源」だった。個々の生物進化を実験で再現することはできない。つまり通常の科学の方法では扱えない事象である。ダーウィンは、仮説を構築し、傍証を積み上げるという歴史科学の方法を確立することで進化学を科学にした。そのことも、自然淘汰説を打ち出したことと並ぶ、本書の功績だろう。

さて、本書の正式なタイトルは「On the origin of species by means of natural selection(自然淘汰による種の起源)」である。上巻の章立ては次のようになっている。

はじめに

第1章 飼育栽培化における変異

第2章 自然条件下での変異

第3章 生存闘争

第4章 自然淘汰

第5章 変異の法則

第6章 学説の難題

第7章 本能

飼育されている家畜や栽培されている植物の話から始まる。これらは、原種から変異によって性質が変わったものを人が選抜することで新たな品種となったものだ。そして様々な変種に広がっている。自ら飼育したというハトの話がよく出てくる。同じようなことが自然界で起きていても、おかしなことではないという主張である。遺伝の仕組がまだわかっていなかった時代だから、変異がどうして起こるのかについては、まだあいまいなところもある。「変異しやすさには、...用不用もいくらかは関係しているはずである。(p.85)」と、獲得形質の可能性をほのめかすような記述も少しある。

個体差はだれとだれの間にもあるものだが、それを重視している。「個体差は、われわれにとってとても重要な意味をもっている。なぜならちょうど人間が飼育栽培種の個体差をどんな方向にでも蓄積できるのと同じように、自然淘汰が蓄積するための素材を提供するのが個体差だからである。(p.91)」また同様に、「どれかの種の子孫が変化していくあいだや、すべての種が個体数を増やそうとして常に闘争を演じる中で、多様化した子孫ほど、生きるための闘いで勝利する可能性が高くなることだろう。(p.225)」と述べ、種内の多様性も重要だとしている。むしろ、均一化した種は生き残りづらいことを示唆している。こうしたダーウィンの理論の側面は、取り上げられることが少ないかもしれない。

新種の形成において、隔離の一定の役割も認めている。「隔離には、他の地域からの移住とそれが引き起こす競争を防ぐことで、新たに生じる変種がゆっくり改良される時間を提供するという効果がある。(p.190)」これは、日本ローカルの進化学説「すみわけ理論」に似てないだろうか。一方、ダーウィンは結論としてはこう述べている。「しかし、生物が変わる速度は広い地域のほうが一般に早いはずである。さらに重要なのは、広い地域で形成された新しい種や変種は、その時点ですでに多くの競争相手に打ち勝っており、きわめて広い範囲まで分布を広げ、とても多くの新しい変種や種を生じさせることで、生物界の歴史を変える上で重要な役割を果たすだろうと結論できる。(p.192-193)」

自らの学説の正当性については非常に慎重なところがあって、難題や反論を予想して、じっくりと説明していく。そうした難題、反論として次の4つの項目をあげている。①種が移行するとして、その以降途中の中間段階にあたる種類がいたるところで見つからないのはなぜか。②比類なき完璧さをもつ眼のような構造を、自然淘汰が生み出せるのか。③幾何学的にみてすばらしいミツバチの巣房を作るような本能は、自然淘汰の作用で獲得できるのか。④種間の交雑では不稔だったり不稔の子が生まれるのに、変種間の交雑では稔性が損なわれないのはどうしてか。

カッコウが他の鳥の巣に托卵する本能、ある種のアリが奴隷狩りをする本能、ミツバチが巣房を作る本能といった、複雑な本能が自然淘汰でどのように選ばれてきたのかに強い興味を持って説明を試みている。こうしたカッコウやアリが示すような利己的な行動や本能は、「種の起源」出版から100年以上後に、リチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」において改めて解釈し直したところである。そして、働きアリは完全に不妊であるため、その形態や本能で獲得した変更を次代の子孫へと伝えていくことができないような例について、ダーウィンは「この困難は克服しがたいようにも思える。しかし、自然淘汰は個体だけでなく家族にも適用可能だし、そうだとすれば望みの目的が達せられることを考えればこの困難は縮小するし、私としては消滅すると信じている。(p.395)」と述べている。これはもう、自然淘汰を受ける主体は個体ではなく遺伝子であるという「利己的な遺伝子説」にかなり近いところまで来ているように思えるのである。


僕の読書ノート「もっと言ってはいけない(橘玲)」

2020-01-19 17:00:58 | 書評(進化学とその周辺)

「言ってはいけない 残酷すぎる真実」の続編である。前編「言ってはいけない」は、人の性格や知的能力などの性質についての論調が遺伝子決定論に偏っていたが、本書では最後のほうで環境の影響や可塑性(人は変わることができること)についても若干触れることでバランスを取っている。そして、人種と知能の関係、現在世界を席巻しつつあるポピュリズムや差別主義の原因は言語的知能の低さであるという結論を導き出しているところが、本書の最大の主張だろう。気になったポイントを下記に記す。

・同性愛は子孫を残せないので、進化的には淘汰されていくだろうと考えやすいが、実際はそうならないらしい。ゲイ遺伝子の存在は、「遺伝子があなたをそうさせる」の著者ディーン・ヘイマーによる研究でも示唆されている。この遺伝子を男性が持つと子を持てなくなるが、女性が持つと多産になる特性(たとえば男性にもてやすいなど)があれば、進化で残ってくるという理屈らしい。

・リチャード・リンの著書からの引用で、各国(国・地域・民族)別のIQ一覧表が掲載されている。IQがもっとも高い国は、北東アジアに集まっていて、シンガポール:110.8、香港:108.8、中国:106.8、韓国:106.4、日本:105.4である(わずかな差ではあるが、日本より中国、韓国のほうが高い)。もっとも低い国・民族は、サハラ以南のアフリカに集まっていて、ブッシュマン:55.3、ピグミー:57、ガンビア:61.3である。アメリカは人種によって違っていて、ヨーロッパ系白人:99.7、ヨーロッパ系白人とアフリカ系の混血:93.5、アフリカ系:84.3、ネイティブアメリカン:85.2である。

・イスラエルのIQは94.2で、けっして高くはない。ユダヤ人は3つのグループ「アラブ系」「ヨーロッパ系」「オリエント系」に分けられ、それぞれのIQは86、103、91と異なっている。ヨーロッパ系ユダヤ人のIQは高いが、その理由としてあげられているのが、キリスト教世界であるヨーロッパにおけるユダヤ人差別の中で生き残っていくために、一部のユダヤ人であるアシュケナージの知能が高まったとするものだ。アシュケナージのIQは、ヨーロッパで110、アメリカで115とされている。

・言語的知能が低いと(いわゆる口べただと)、世界を脅威として感じるようになり、保守的になるという。なんらかのトラブルに巻き込まれたときに、自分の行動を相手にうまく説明できないからだ。世界を恐れない言語的知能の高い子どもは、新規な体験全般に興味を抱くようになり、「ネオフィリア(新規好み)」で「リベラル」になる。一方、世界を脅威と感じている言語知能の低い子どもは、知らない相手を遠ざける「ネオフォビア(新規嫌い)」で「保守」になる。高度化した知識社会では、ネオフィリア(リベラル)のほうが社会的・経済的に成功しやすく、ネオフォビア(保守)はうまく適応できない。アメリカでは、ネオフィリアは、ウォール街やシリコンバレー、大学やマスメディアで働く富裕層となり「リベラル派」になる。一方、ネオフォビアは、知識社会の敗者としてトランプ支持者となる。(さて、ASD(自閉スペクトル症)も一般的には言語的知能が低いと思われるが、保守になるのだろうか?ASDのグレタ・トゥーンベリさんは明らかにリベラルだ!さらに、日本の自由民主党の国会議員たちは言語的知能がかなり高いと思うが、なぜ保守になったのだろうか?)

・前編では全く考察されていなかったジェームズ・ヘックマンらによる非認知スキルにもふれられている。ここでは、非認知スキルではなく、性格スキル(やる気)とよんでいて、アメリカでは社会的・経済的に成功するためにはこれが必要だとしている。また、知能の遺伝率(約80%)も性格の遺伝率(約50%)は低いので、訓練によって伸ばすことが期待できるとしている。性格の中で仕事の成果(業績)への影響が大きいのは、真面目さ、外向性、精神的安定性の順になっている。外向性は、管理職・営業職など対人関係が必要な業種に高い影響力を持つが、学者・医者・弁護士などでは相関関係がマイナスになる。

・セロトニン運搬遺伝子の発現量が低いSS型のタイプは、日本人に非常に多い。このタイプは「悲観的な脳」になると考えがちだが、実は「悪いことが起きたときに非常に不利にはたらくが、良いことが起きたときには非常に大きな利益をもたらす可塑的な遺伝子である」というエレーヌ・フォックスの説を取り上げている。

・あとがきでこう述べている。知能とアスペルガーのリスクとのあいだには強い相関がある。IQ130 を超えて10上がると、自閉症スペクトラム上に乗るリスクは倍になる。そして、高い知能が幸福な人生に結びつくかどうかわからないと。最後に、天才的な頭脳で大きな成功を成し遂げたイーロン・マスクが、辛い友人関係や結婚生活を送ってきたけれど、けっして一人ぼっちにはなりたくないという彼の魂の叫びを引用して結んでいる。


僕の読書ノート「言ってはいけない 残酷すぎる真実(橘玲)」

2020-01-12 14:19:52 | 書評(進化学とその周辺)
 
人の性格や能力、行動などがいかに遺伝子によって制御されているかについての研究の最前線をわかりやすく紹介したとても素晴らしい本があった。「遺伝子があなたをそうさせる(ディーン・ヘイマー、ピーター・コープランド)」で、英語版は1998年、日本語訳版は2002年に出ている。日本語訳版が出てからでも18年も経つので、この分野の研究は相当進んでいるだろう。最新の研究成果をまとめてくれた本を読んでみたいのだが、探してもなかなかいいのが見つからない。そこで少し視点を変えて、日本でとても売れた新書である本書を読んでみることにした。
 
著者は文系出身なのだが、むしろ理系の学問である進化学にもとづいて論考を進めているところが素晴らしく、応援したい。しかし、書かれている内容は、遺伝子決定論的なエビデンスが社会でどのように受け入れられてきたか、または受け入れられてこなかったかという、社会との軋轢の歴史が中心であるので、進化生物学的な興味で読むと面白くないかもしれない。また、論調が、環境決定論より遺伝子決定論に偏っているので、読んでいて気分は良くない(著者は不愉快な本だと自ら断言している)。夢や希望が得られない。どうすればよりよく生きていけるかの指針にはならない。しかし、遺伝子でここまで決まってしまうのだという事実を認識させるための啓蒙書的な役割はあるのかもしれない。そして、いくら努力しても変えられないこともあるのだという事実は、ある意味気持ちを楽にさせてくれる面もあるだろう。
 
主に取り上げられているテーマは、IQ、反社会性、美醜、男女の違い、における遺伝の影響とその社会との関係である。本書を読んで、目に留まった点を挙げてみた。
 
・精神病の遺伝率は高く、統合失調症が82%、双極性障害が83%である。発達障害の遺伝率は、自閉症が82-87%、ADHDが80%としている。
 
・アメリカの経済格差は知能の格差から来ている。知能の高い人たちの集団ともいえる、アメリカ社会に新しく登場した新上流階級の趣味やライフスタイルは似ている。ファストフート店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。ニューヨーク・タイムズやウォール・ストリート・ジャーナルに毎朝目を通し、ニューヨーカーなどの雑誌を定期購読している。テレビはあまり観ず、休暇はバックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。
 
・心拍数の低さと反社会性、攻撃的な行動は相関する。犯罪者を予測できる近未来社会が想定されていて、例えば犯罪者早期発見システム「ロンブローゾ・プログラム」が提案されている。このプログラムでは、18歳以上の男性は全員、病院で脳スキャンとDNAテストを受けなくてはならない。「基本5機能」は①構造的スキャンによる脳の構造の検査、②機能的スキャンによる安静時の脳の活動の検査、③拡散テンソルスキャンによる白質の統合度と脳の接続性の検査、④MRスペクトロスコピーによる脳の神経化学の検査、⑤細胞機能の精査による細胞レベルでの2万3000の遺伝子における発現状態の検査、からなる。
 
・遺伝と環境で子供の性格や能力が決まってくるが、環境はさらに「共有環境=家庭環境」、「非共有環境=友人関係、学校生活などの家庭外環境」に分けられる。安藤寿康やジュディス・リッチ・ハリスらによる論考が取り上げられていて、子供の成長への共有環境の影響の弱さ、友だち関係からの影響の強さを強調している。例えば次のように記載されている。「家庭が子どもの性格や社会的態度、性役割に与える影響は皆無で、認知能力や才能ではかろうじて言語(親の母語)を教えることができるだけ。それ以外に親の影響が見られるのはアルコール依存症と喫煙のみだ」
 
近年、IQなどの「認知スキル」とは違う、やり抜く力や自制心といった「非認知スキル」が大人になってからの成功に重要で、これは主に親(共有環境)が介入して高めるものだと考えられ注目されているが、それについての言及は皆無であった。その辺りのことを考察していない点については、本書の偏りを感じた。