なんとま~、衝撃的なタイトルをつけてしまいましたが…。
あくまでも語尾に「???」です。
阿麻和利の死に様そのものが謎ですから、
何かと「憶測」でしかないんで、
そこのところ踏まえて読んでくださいね。
読谷村の民話集(古老の口伝集)によると、
阿麻和利は首里軍に攻められ、
生まれシマ屋良村(現・嘉手納町屋良)へ逃げ、
そこから更に逃げ読谷山に入った。
しかし、ついに見つかり、
「マルチャバタキ(俎畑)」というところで斬首された。
と。
マルチャ(俎)とはまな板の意味で、
作物ができない平らな畑ゆえにそう呼ばれていたのだとか。
で、その俎畑の場所を
「闘牛場があった(作る予定だった?)場所」
と古老たちがおっしゃっていることから、
読谷出身の方々に聞いて
まとめた場所が、ここ…かな???ということです。
(この写真よりももっと下おりて右かもしれないけど、だいたいこのエリアっぽい)
で、すぐ近くに阿麻和利のお墓がある、ってね。
……前も書いたけど、ワタシ的には
阿麻和利は勝連グスクで死んだ説を取りたいですなぁ。
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*追記*
この後、色々と本を読んでいると、俎畑、つまりウエンミモーエリアは
現在のトリイステーション内のようです。
「真説 阿麻和利考」(高宮城宏著)より引用↓
ウエンミモは昭和9年に大木原より楚辺876-968番地に地目編入、
原名として親見原の宛字が用いられており、
トゥクブサーモーグヮーより北方へ600米ほど離れている。
現在のトリイ通信施設内に位置している。
(P169)
※トリイ通信施設は徳武佐の北には位置していないため、
「南方へ」もしくは「西方へ」の誤字か?