紀伊勝浦から再びレンタカーに乗って和歌山県の東端・新宮に行きました。
新宮の町に近い熊野速玉大社に寄りました。
熊野速玉大社は、熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山を構成する大社。主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)の夫婦神です。
境内には平重盛お手植えと言われる樹齢1000年のナギの巨木があり、天然記念物に指定されています。
熊野速玉大社の境内に新宮市出身の作家・佐藤春夫の記念館がありました。1927(昭和2)年から1964(昭和39)年に亡くなるまで東京都文京区で過ごした邸宅を移築したものです。
JR新宮駅に着き、レンタカーを返却しました。
駅前のお寿司屋さんで、地元のおいしい魚を食べました。さんまの姿寿司とマグロ尽くしの寿司です。
12:44新宮発の特急ワイドビュー南紀で14:55松阪まで。
松阪から15:24発の近鉄特急で、17:20に京都に帰ってきました。
近鉄特急の車内。
紀伊半島の東側は、いくつかの路線を乗り継いで帰ることもできますが、最も乗り換えが少なくて楽なコースで、とりあえず1泊2日で紀伊半島を一周したということで、旅を終えて帰ってきました。
勝浦の宿を出た後、紀の松島めぐりのクルーズに出かけました。
朝見学した漁市場の近くに遊覧船の乗り場があります。通常のAコース(55分、1650円)と荒天時のCコース(40分、1250円)があり、この日はお天気もよく、Aコースでした。
桟橋を出ると勝浦湾内の島々にホテルがあり、船で渡って泊まりに行くようになっています。
勝浦湾の内外17kmに渡って島が点在し、海蝕洞が口を開けていたり、ラクダ岩、ライオン岩等の奇岩が立ち並んでいて、「紀の松島」と言われています。
右から鶴島、筆島、兜島。
屋島の戦いに敗れた平維盛が入水したという伝説のある山成島。
途中で太地くじら浜公園に寄港するので、そこで下船して鯨の博物館等を見学し、また別の便で観光桟橋に帰って来ることもできますが、時間がなかったので、そのまま乗船して桟橋に帰りました。くじら浜公園には捕鯨船が展示されていました。
よいお天気で、海も島もきれいで、爽快なクルージングを楽しむことができました。
2016年紀伊半島一周の旅(7)に続く。
紀伊勝浦に泊まった翌朝、7時から宿の方に案内してもらって勝浦漁港の魚市場を見学に行きました。
宿から眺めた勝浦の町。
魚市場はJR紀伊勝浦駅からも近い所にあります。
魚市場の見学は、南紀勝浦温泉旅館組合加盟の宿に宿泊した人は前日までの予約で、朝7時から約30分間、中学生以上1,000円、小学生以下500円で、早朝の生マグロせり市を間近で見学、説明を聞くことができます。一般の人は2階見学フロアからのみ見学ができます。(無料)
マグロの主な種類にはクロマグロ、ビンナガマグロ、メバチマグロ、キハダマグロなどがあることとそれぞれの特徴を教えてもらいました。
マグロは遠く遠洋でも獲れますが、勝浦で水揚げされるのは近海で獲れるものです。
目玉が大きいのがメバチマグロ。
マグロの漁獲方法は延縄(はえなわ)漁法で、長さ10kmから100kmにもなる長い親縄に2000~3000の子縄をつけ、その先につけたサンマやイカの餌でマグロを釣り上げるものです。この長い縄を仕掛けてから巻き上げるまでに長い時間がかかるので、近海漁業と言っても、一度の出港から帰って来るまでに3・4日かかるそうです。
高知県からの漁船も寄港していました。
競り場はとても広く、陸揚げされたばかりの生マグロがたくさん並べられていました。
紀伊勝浦は遠洋の冷凍ではない生マグロの陸揚げでは日本一の量を誇っています。
競りを行っている市場職員。この台を動かして競りの場所に行き、仲買人が1頭ごとの番号と値段を紙に書いて差し出し、競り人が一瞬にして最も高値をつけた仲買人を判断して結果を発表します。あまりにマグロの数が多くて、声を出し合って競りをすると時間がかかりすぎるので、この方法をとっているのだそうです。
宿で貸してもらった長靴を履いて競り場の中にも入らせてもらい、マグロの大きさを実感することができました。80kgにもなると人間の背より大きいものがゴロゴロしています。
100kg以上のマグロが揚った日には、宿でもマグロのカマ焼きのご馳走が出るそうですが、この頃にはそんな大物が少なかったそうです。
赤いマンボウのような魚や、
サメも網にかかるそうです。
競り落とした魚を乗せて仲買人がトラックで帰って行きます。
勝浦の町にはマグロを食べられるお店や、お造りの無人販売のお店もあるそうです。
2016年紀伊半島一周の旅(6)に続く。
潮岬から再びドライブで、紀伊勝浦を目指しました。
串本の駅前を通り過ぎて少し走ると、海沿いに橋杭岩の列が見えてきました。
岩の付け根の海岸に道の駅があり、西日の中にたくさんの岩が並んでいるのをゆっくり眺めることができました。
串本の海岸から大島の方に向かい約850mにわたって、大小40余りの岩が橋の杭のように並んでいることからこの名前が付いています。この岩の列は、1500万年前の火成活動により、泥岩層の間に流紋岩が貫入した後に、柔らかい泥岩部が波の力で侵食されて、硬い石英斑岩が杭状に残されてできたものです。
橋杭岩は今までJRの列車の窓からちらっとしか見ることができませんでしたが、今日初めて間近に見ることができたのはドライブ運転手のおかげです。
彼方に今日訪ねた紀伊大島とくしもと大橋が見えました。
海沿いに東へ東へ、紀伊半島の東側に廻りこんで走って行きました。
海の見晴らしもよかったけれど、紀州海岸の山には初冬なのに緑の木々と特別に赤い葉の目立つ木があちらこちらに見え、暖かさが感じられました。
無事紀伊勝浦の宿に到着。
温泉と、天然マグロのお造りに熊野牛のステーキとアワビの踊り食いの夕食を満喫しました。
2016年紀伊半島一周の旅(5)に続く。
樫野崎灯台、トルコ記念館のある紀伊大島から、くしもと大橋を渡って、串本町・本州南端の潮岬側に戻ってきました。
潮岬の突端に芝生の広場があり、その先端に「本州最南端」碑がありました。芝生は約10万㎡の広さで、明治時代、海軍の望楼(物見櫓)があったので「望楼の芝生」といい、毎年1月の最終土曜日にはここで本州最南端の火祭り(芝焼き)が催されます。
少し西側に潮岬灯台がありました。
しかし、官舎だけ写して、どういうわけか灯台の写真が無くなってしまっている(汗)。
樫野崎灯台に続いてこの灯台も、1870(明治3)年にイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントン設計によって造られ、以来、海上交通の要所として沖行く船を照らし続けています。30mの断崖に建つ白亜の灯台で、塔内の68段のらせん階段を上って展望台に登ることができます。また、灯台1階には灯台資料展示室が併設されていて、灯台の歴史、機能・役割などを学べ、2代目潮岬灯台レンズをはじめとした資料が多数展示されています。
灯台の高さは19.55m、光度130万カンデラ、光は19海里の遠くまで達します。
潮岬灯台の見学は
年中無休
営業時間:10月~4月・・・9時~16時 / 5月~9月・・・9時~16時30分
入場料:大人200円(中学生以上) 小学生以下 無料
駐車場:1回300円
灯台下の海岸。
灯台から西方面の眺め。
灯台の写真の代わりは地酒の写真で。
2016年紀伊半島一周の旅(4)に続く。
串本町紀伊大島の東端に樫野崎灯台があります。
1866(慶応2)年の江戸条約で建設が決められた8灯台の一つで、1870(明治3)年6月10日に点灯され、日本で最古の石造灯台として貴重な財産となっています。
現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開ですが、平成14年に展望台が造られ、らせん階段で上まで登ることができます。
灯台の高さ10.20m、光力は53万カンテラで18.5海里(約34km)先まで光が届きます。
灯台の手前に旧官舎があります。
この建物を作ったのは、リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841-1901)で、英国スコットランド生れ、明治元年に灯台技師団のリーダーとして来日、愛媛県松山市の釣島灯台、千葉県銚子市の犬吠崎灯台などを整備、また「修技校」を設置し、後継者育成にも尽力、日本の灯台建築の基礎を築き、「日本の灯台の父」と呼ばれました。
1869(明治2)年4月に着工、1870(明治3)年7月に竣工した日本最古の石造灯台官舎で、平屋建、寄棟造、建築面積162㎡、エルトゥールル号遭難の時には救助の拠点となったことでも知られています。
2003年に国登録有形文化財に指定され、2010年~2011年にかけて改修工事が行われ、竣工当時の部材を大切にして、保存できるものはすべて現状のまま残す処理が行われました。
■樫野崎灯台旧官舎
TEL (0735)65-8515
開館日 土日祝日、11月1日(灯台記念日)、年末年始(12月29日~1月3日)
開館時間 9:00~17:00
入館料 大人(中学生以上) 100円 (トルコ記念館と共通で510円、トルコ記念館・日米館との3館共通で560円)
官舎の前庭には明治初期に常駐していたイギリス人技師が故郷を思い植えたと言われる水仙が今も群生しており、12月にもう花を咲かせていました。
2016年紀伊半島一周の旅(3)に続く。
2016年12月末に紀伊半島一周の旅に出かけました。
特急くろしお3号で8:35に京都駅を発ちました。
窓の外に太平洋の海を見ながらJRきのくに線を南下し、
紀伊半島の最南端駅、串本に着いたのは12:23でした。
先ずは駅近くのお寿司屋さんで海の幸をいただきました。
今回の旅はここからレンタカーを借りてのドライブとなりました。
串本の向かいにある紀伊大島に向かって、くしもと大橋を渡ります。橋は大きなループに続き、
アーチの橋になっています。
紀伊大島を横断して東に走ると、トルコの軍艦エルトゥールル号が1890(明治23)年に遭難した地、樫野崎に着きました。
オスマン・トルコ皇帝特派使節として来日したオスマン・パシャ以下650余名の将兵を乗せた軍艦エルトゥールル号が帰国の途中、9月16日夜に熊野灘で暴風雨にあい、大島樫野崎沖の岩礁で難破、587名の将兵が亡くなり、69名の人が生き残りました。
断崖の上に大きな遭難慰霊碑が建っています。
エルトゥールル号の遭難者の遺体はここに埋葬され、遭難の翌年、和歌山県知事はじめ有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立されました。現在の慰霊碑は昭和12年に改修されたもので、5年ごとに追悼式典が行われています。
遭難者を大島の人たちが命がけで救助したことから、串本町とトルコ国との交流が続いています。
ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1936年)騎馬像。
第一次世界大戦後分割占領されたトルコを解放し、初代大統領となった英雄の像で、2010年に日本とトルコの友好の継続を願ってトルコ大使館から串本町に寄贈されたものです。
串本町トルコ記念館。
1974(昭和49)年12月に建設され、エルトゥールル号の遭難事故と引揚調査の遺品、イラン・イラク戦争での日本とトルコの結びつきなどが展示されています。
映画「海難1890」で見たエピソードなどが思い出されました。
開館時間:9時-17時
休館日:年中無休
入館料:500円
右に見えるのは、日本赤十字社記念碑。平時での最初の国際救援活動となったトルコ軍艦遭難時救護活動を後世に伝えるために建立された、日本・トルコ両国の国旗をデザインしたもの。
記念館の壁はきれいなトルコ・タイルでした。
記念館の窓から遭難現場が見られるようになっていました。
すぐ目の前の断崖の下、中央の岩礁「船甲羅」に船が乗り上げて座礁し、村人達がこの絶壁を降りて遭難者の救助にあたったそうです。
島のあちこちに野生の椿の花が咲いていました。
2016年紀伊半島一周の旅(2)に続く。