ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

京都会館をウォッチング

2011-05-29 23:43:24 | これでいいのか京都(京都会館)
5月29日(日)、今建て替え問題で話題になっている京都会館のウォッチングに行ってきました。

京都市が突然出してきた改築計画。あまりにも唐突にいつのまにか京都会館の命名権が「ローム」に売られていて、岡崎公園再整備計画とやらと関連して京都会館の改築案(90億円もかかる!)はしゃにむに進められようとしています。
日本建築学会賞をとったモダニズムの名建築が建物の本質を失うような大変更を加えられようとしている今、現地で実際に建物を見て考えてみようという企画でした。主催は「岡崎公園と疏水を考える会」。


あいにく、台風の影響による大雨のお天気。




集合場所の会館入口付近に行ってみると、あたりは大勢の人・人・人。
実はこの日は京都会館を会場に合唱祭が行われていたのでした。屋根のあるピロティでは、合唱の練習をする団体の人でいっぱい。


ピロティの天井部分。どことなく和風です。
ピロティがあることによって、道路に向かって建物の足元を開放し、中庭へと自然に人々を誘いこむ石畳が続いています。

ピロティ、中庭、と建物の内部と外部、さらに敷地の外まで水平的に広がる有機的な空間構成によって、そこに集う人達が共に楽しく時間を過ごすことができる、設計者の目指した意図は十分に達っせられているようにみえます。



ウォッチングの人達もたくさん来ていて、約80人程が集まっていました。

人混みを避けて、向かいのみやこメッセの3階に移動、そこからウォッチングすることになりました。
京都工芸繊維大学の中川理教授が解説してくださいました。


京都会館は1960(昭和35)年建築。その設計は村野藤吾、前川國男、尾崎久助(日建設計)の3者による指名設計競技の結果、前川國男が設計を行いました。
その設計説明書には次のように書かれています。

「東山一帯に囲まれた平面的な岡崎公園と、その水平的な性格を象徴するが如き疏水の流れ、それに既存の建物、公会堂、勧業館、美術館等の中層建物の高さなどを考え合わせる時、この場所には巨大なマッスの高層建物を置く事は、公園地帯全域に対して不均衡を来すものと思われる。
 このために建物全体を中層の高さに収め水平に延びた屋根面から大ホールの屋根、小ホールの舞台フライの部分のみを突出せしめる水平線的な構成をとった。
 この公園のもつ水平線的性格は建物のボリウムの流れのみでなくバルコニー手摺、外壁を構成するブレキャスト版等、全館意匠の細部にまで浸透せしめ附近全域及び周囲の風光との調和を図った。」


東山連山のなだらかな稜線の前に、岡崎の地には高い建物は似合わない、それを見抜いて建てられた建物でした。


3階の窓から見える京都会館。
刈り込みされた植栽はみやこメッセのもので、京都会館は大きな欅の木の向こう側になります。やはり、高さは抑えられていて、すっかりあたりの景観になじんで溶け込んでいます。


建物の特徴である水平的な線を表わすのが水平に延びる大きな庇です。
庇が大きく外に延びていることによって、雨風の多い日本の風土にかなった日本的モダニズムの建物が作られたのです。
しかも、大きな庇でも重々しさ、違和感は感じられません。



浮上しているオペラハウスにするには建物の高さを上げねばならず、下部はそのままでも、上に大きな墓石を載せたようなものになるのではと言われています。岡崎公園に大きな墓石ではねえ。
京都市が折角高さ制限をしている岡崎地区も、規制を緩和せねばならなくなり、地区全体の景観が崩されると共に、静かな文化ゾーンとしての性格が変わっていってしまうのではないでしょうか。


みやこメッセで1時間程お話を聞いたあと、京都会館の中庭に移動、そこでも説明を聞きましたが、雨足がますますひどくなってきて、早目に切り上げられました。



建物の外観ではタイルが特徴的。その貼り方はコンクリートを打ってから後で貼るのではなく、最初からタイルがあってコンクリートが流し入れられているので、剥がれにくく、雨も浸み込みにくいのだそうです。




この日は、会館内部のウォッチングができなくて残念でしたが、以下は別の日に内部(第一ホールのロビー)を写したものです。



スケールの大きな空間で、とてもたくさんの入場者がいても、いつも短時間で出入りできたことが思い出されます。


最近はあまり利用することも少なくなってきていた京都会館(それでも西本智実指揮のコンサートもここでありました)、こうしてウォッチングしてみると、昔は様々な催しの度によく来たものだと、懐かしい思い出もよみがえってきます。

それらの思い出を包み込んだ建物、多くの市民に利用され、なじんできた建物を安易に壊したり変更することなく、より使いやすく、より多くの人が使い続けて行くにはどのように改善すれはいいのか、もっとじっくり検討してもらいたいものです。

そして、岡崎の地に「巨大なマッスの高層建物」だけは建ててもらいたくないものです。

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新島襄旧邸

2011-05-28 23:17:40 | ぶらり都めぐり
この日は引き続き、河原町丸太町周辺の建物を探索。
丸太町通りから寺町通りを少し上がると、右手に同志社の創立者、新島襄の旧邸があります。



1878(明治11)年竣工。
木造二階建て。一・二階の外廻りにベランダを巡らすコロニアルスタイルです。
設計は宣教医テーラーの助言のもと、新島自身が行ったそうです。




外観は洋風ですが、内部は畳敷きや箱階段の日本建築の要素が濃いそうです。日本人の設計による日本人のために建てられた明治初期の洋風住宅として貴重で、京都市指定有形文化財になっています。

この日は外から見ただけで、内部の見学はできず、「またいつか」になりました。

この後、すぐ北側にある京都市歴史資料館に寄って帰路につきました。
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旧京都中央電話局新上分局

2011-05-25 23:34:05 | 建物(京大以外の京都府の)
銅駝美術工芸高等学校から少し南下して丸太町通りを越えたところにある「旧京都中央電話局新上分局」。



上京区丸太町通中筋東入ル、鴨川に面して一目でわかる特徴ある建物。

1923(大正12)年建築。
鉄筋コンクリート造り3階建て。
設計は吉田鉄郎。

京都モダニズム建築の夜明けは逓信事業から、と先日京都工芸繊維大学で開かれた展示会で学んだところ、その典型的モダニズム建築。
鴨川べりのこの位置になくてはならない建物です。



レストランになったり、いろいろ変遷した後、今はスーパーマーケット兼スポーツジムになっています。



が、このモダンレトロな建物の入口に普通にスーパー商品が並べられているのは、さすがに違和感があります。



中のお店のフロアは思っていたより狭くて、壁際と室内中央にぎっしりと商品が並べられた中を見て廻ると、あっというまに一回りできます。前にレストランだった時に食べに来た時にはもっと広いように思えたのですが。




丸太町通り側。


下部の通風口。




こちら側は裏の広場。自転車置き場があります。





店内にイートイン・コーナーがあるので、買ったパンと缶コーヒーでここで昼食にしました。


スーパーになってもこうして残されていることは喜ばしいことです。


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銅駝美術工芸高等学校

2011-05-23 21:11:17 | 建物(京大以外の京都府の)
鴨川の西丸太町通りより少し上にある京都市立銅駝美術工芸高等学校、1880(明治13)年に「日本最初京都画学校」として創立し、今も日本で唯一の美術単独高等学校となっています。
場所は中京区土手町通竹屋町下ル鉾田町にあります。



この建物は元は銅駝小学校で、1938(昭和13)年に建てられたものです。設計は京都市営繕課、鉄筋コンクリート造り3階建て。






この時代の小学校建物に共通した雰囲気があります。
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上賀茂神社の手づくり市

2011-05-22 23:18:06 | ぶらり都めぐり
5月22日(日)上賀茂神社の境内で行われている手づくり市に行ってきました。


毎月第四日曜日9:00~16:00、雨でも開催しています。



境内の森の中にたくさんのお店が出店しています。
食べ物から、衣類、陶器、木工品、アクセサリー等々実に様々な手づくり品が並んでいて、目移りしてしまいました。


この日は午前中大雨だったので、午後も地面がぬかるんでいました。


知人が出している粘土でできた魔よけのシーサーの置物と香炉。
前に見せてもらってすごく気にいったので、これを買いに来たのが今回の主な目的でした。
香炉をお買い上げ。


苔玉のお店もあったので、1個買って帰りました。

あと、お漬物も。


大阪から来ているという「梟(ふくろう)珈琲」さんで、おいしいコーヒーとクッキーをいただきました。



すぐ側には、曲水の宴が行われるこんな静かなお庭もあります。


上賀茂手づくり市、7月は24日に行われたところで、次回は8月28日です。
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京都ハリストス正教会

2011-05-18 23:36:53 | 建物(京大以外の京都府の)
夷川通りを歩いていると、柳馬場通を少し下った所に素敵な塔のある建物が見えました。



京都ハリストス正教会です。
門が開いていたので、建物の近くまで寄って見せてもらいました。




日本最古の本格的ロシア・ビザンティン建築と言われています。




木造平屋建、下見板張。
1901(明治34)年築。京都市指定文化財。
設計は京都府庁旧本館を設計した松室重光です。




奥の方はこんなになっています。
上から見たら十字形になっている建物配置です。
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2011年5月湖北の旅 もくじ

2011-05-08 03:08:13 | 近江の国
2011年5月7日、琵琶湖の湖北地方に行ってきました。











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2011年湖北の旅(9)きのもと交遊館

2011-05-08 02:29:36 | 建物(滋賀県)
ゴールデンウィークの湖北の旅の最後は、きのもと交遊館です。

木之本町の北国街道の町家の並びの中に、石張りのギリシャ風建物があります。




元々は湖北銀行木之本支店。1935(昭和10)年築。鉄筋コンクリート造、国の登録有形文化財。
その後滋賀銀行木之本支店となり、2006年から「きのもと交遊館」として地域交流の場として改修・再生されました。


前面4本の柱は直径1メートルもあって、前にせり出し、イオニア式柱頭、溝の彫られた柱身、すべてギリシャ古典様式にのっとった堂々とした建物です。



中に入ったところは、天井の高い銀行のホールを改装して、観光案内所兼カフェになっています。(水・金・土・日曜のみ開店)



奥の方は改装の時に広いホールになって、ダンスホール、コンサートなどに使われているようです。

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2011年湖北の旅(8)北国街道木之本宿

2011-05-08 02:28:34 | 近江の国
江北図書館がある木ノ本の町は木之本地蔵院の門前町であり、北国街道の宿場町として賑わった町並みが残っています。


このJR木之本駅は平成18年10月に建て替えられたもので、近くに昔の駅舎が残されています。


駅前から地蔵院に向かって登っていく坂道の側に蔦のからまるいい感じの建物がありました。





木之本地蔵院。
この前の通りが北国街道で、両側に延びて宿場町のたたずまいの商家が並んでいます。
昭和の始めまでは街道の真ん中に小川が流れ、柳の木が植えられていましたが、今は埋め立てられています。


創業460年の酒屋さん。
清酒「北国街道」



木之本馬市があったあたり。
室町時代から昭和の初期まで毎年2回、街道の民家を宿として牛馬市が開かれ、山内一豊が妻のへそくりで名馬を求めたのもここだと言われています。






うだつの上がっている家がたくさんあります。





元本陣で薬局を営業していた家。


古い薬の看板が並べられています。

本陣の玄関先には馬を繋いだ金輪があり、


本陣薬局の看板。



こちらも創業450年の酒屋さん。
「七本槍」




町並みの南のはずれあたり、北国街道と北国脇往還の分岐点。


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2011年湖北の旅(7)江北図書館

2011-05-08 02:27:20 | 建物(滋賀県)
余呉から再び北陸本線の電車に乗って、木ノ本駅で降りました。

JR木ノ本駅のすぐ目の前に財団法人、江北(こほく)図書館があります。



余呉町出身で苦学して教員になり、後に弁護士になった杉野文弥氏が1902(明治35)年に三十歳代で私財を投じて郷里余呉に蔵書三千冊の「杉野文庫」を設立し、後にこれを木ノ本に移して伊香郡議事堂の一部を借りて充実させ、1907(明治40)年「財団法人江北図書館」として開館したものです。
郷里に図書館を創って多くの青少年に勉学の機会を与えたいという杉野氏の情熱が現在まで引き継がれ、滋賀県で最も古い図書館として活動を続けています。2007年に創立百周年を迎えています。


この建物は元は伊香郡農会の庁舎として、1937(昭和12)年に建てられました。農会とは、農業経営の指導を行う半官半民の団体で、行政の一翼を担っていましたが、戦後は農協に改組されました。建物は伊香郡の公会堂も兼ねていました。

元の用途の農業振興を進める点でも、現在の用途の図書館としても、それぞれ地域の近代化に大きな役割を果たしてきたものとして、意義深い貴重な建物です。



玄関入口を入った所。この奥の右側に狭い通路を挟んでぎっしりと書架が並んでいます。左側はフロア式になっていて、絵本などを備え、子供用の読書室になっています。



二階にあがる階段。


二階の畳敷きの大広間。公会堂の面影を残しています。
和室だけれど、半円形の窓が洋風になっていて、正面玄関上のアーチ部分になっています。
周囲に箱詰めや書棚に本が並べられていました。

どこをとってもものすごくレトロ、とてもなつかしさの漂う建物でしたが、たくさんの本の荷重に耐えている痛々しいくらいの感じがあって、何とか保存、補修していってほしい建物です。



図書館の管理をしておられる女の方がとてもにこやかに親切に対応して下さったので、少しお話を伺ってみました。
その日、利用者の姿は全然見られなかったのですが、やはり本を見に来られる方は少なくなっているようです。滋賀県は公共図書館が充実してきたので、多くの人はそちらに行かれるし、少子化・本離れが進んできていることも影響しているそうです。
例外として、ここにしかない本を訪ねて研究者の方達が見に来られることがあるそう。
ざっと見渡すと、結構新しい本も多くて、滋賀県の歴史とか地理に関する本とかおもしろそうな本もたくさんあったのですが、見に来られる方が少ないとは全くもったいないことです。
もしも老後にこの近くに住んでいたら、毎日本を読みに通えるのになあ。
あるいは、一人で大変でしょうからボランティアで少しお手伝いにでも・・・


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2011年湖北の旅(6)羽衣伝説の余呉湖

2011-05-08 02:26:21 | 近江の国
近江今津駅から4つ目の駅が湖西線の終点、近江塩津駅。そこで北陸本線に乗り換えて今度は琵琶湖東岸を南下、1つ目の駅が余呉駅です。

前からあこがれだった羽衣伝説の余呉湖、三橋節子さんの絵にもなった余呉の天女の里を訪ねました。


湖は駅のホームや電車の窓からは、田んぼを隔てた向こう側、山の手前に一直線になって見えます。
向かいの山が、お江ちゃんの運命を変えた柴田勝家と秀吉が戦った「賎ヶ岳の合戦」のあった賎ヶ岳のようです。
山の向こう側に琵琶湖があります。


10分程歩くと湖のほとり、余呉湖観光館等が建つ広場に着きます。
その辺りでは釣りをしている人達もいました。
湖の周囲は約6.4km、水深13mです。



ちょうどゴールデンウィークの催しをやっていたようで、屋台で食べ物や山菜等のお土産を売っていたので、ちょっと食べてタラの芽を買い込んでしまいました。


湖の手前は豊かな水量の水路と田植え前の水田が広がっていました。


おおっ!これは虎杖(イタドリ)ではあーりませんか!(手前はタンポポ)
「イタドリ・クラブ」の皆さーん、余呉湖の水路脇の土手にイタドリがどっさり生えていましたよー。

余呉湖の周りは広い水田地帯に農家がかたまってあるだけで、駅前にもお店は一軒もなく、観光館と湖の反対側にある国民宿舎の他に、休憩する所もないようですが、そうした何もないところ、静かな農村風景が余呉湖の魅力なのでしょう。
自然がいっぱいの余呉湖の里でした。


次の電車が出るまでの約1時間の間に湖まで行って帰ってきたので、天女が羽衣をかけたという衣掛柳の方には行くことができませんでした。
さらに時間があればレンタサイクルを借りて湖一周をしたかったのですが、またの機会に。

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2011年湖北の旅(5)JRつり広告に銭形の親分が!

2011-05-08 02:24:04 | 近江の国

きゃ~、今津から乗ったJR電車のつり広告に大川橋蔵様


最近出てきたらしいパチンコの新台の広告で、「銭形平次 with チームZ」。
AKBなんとかがちゃらちゃらして大当たりになると、銭が飛んだり、十手をくるくるしたりと、橋様のかっこいいお姿が見られるらしいので、パチンコ屋の前を通る時は一生懸命覗いて見てみるのですが、未だにそれらしきものが見つけられません。
滋賀県ではやってるのに、京都ではまだなのかな。

どこかにあったら、自分ではとても当てられそうにないから、よその人がやってるのを覗かせてもらえたらなんて、夢想してしまいます。


しかし、この電車のつり広告、この写真を撮ったすぐ後に、交換の人が乗ってきて、この1枚だけとり換えていってしまいました

滋賀県でももう終わったということなのだろうか
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2011年湖北の旅(4)琵琶湖周航歌の港

2011-05-08 02:23:16 | 近江の国
ヴォーリズ通りを歩いた後、近江今津駅の近くのアーケードのある商店街でおいしい鰻丼を食べて、もう一度駅から琵琶湖の方に向かって歩きました。



駅から5分くらいですぐに琵琶湖岸に着きます。



ここが今津港。大津、長浜との間に定期便が運行しています。



ちょうど船が出航したところでした。
船着場の先端に見えるのがその船。
手前の三角の形をした石が「琵琶湖周航の歌記念碑」です。

「われは湖(うみ)の子 さすらいの
 旅にしあれば しみじみと
 昇るさぎりや さざなみの
 志賀の都よ いざさらば 」

なつかし~い歌ですねえ。


今津港と駅の間に「琵琶湖周航の歌資料館」ができていました。

9;00~17:00
休館:月曜、年末年始
入館無料
琵琶湖周航歌についてのいろいろな資料が展示され、多くの演奏家による曲を聴くことができます。
しかし、この施設はどこの誰が作って運営しているのだろうか、どうも意味不明だった。



「琵琶湖周航歌」を作曲したのは吉田千秋、作詞は小口太郎です。

吉田千秋は新潟県生まれ、東京農業大学の学生だった大正4年に「ひつじぐさ」を作曲して、雑誌「音楽界」に投稿しましたが、結核のため、大正8年に22才の若さで亡くなっています。

小口太郎は長野県岡谷市生まれ、第三高等学校に入学、ボート部による琵琶湖周航に参加した時、1917(大正6)年6月26日に今津の合宿の宿でこの歌を作詞しました。
ボート部員達がその歌詞を「ひつじぐさ」のメロディにのせて歌ったのが「琵琶湖周航歌」の始まりでした。
小口太郎は、第三高等学校を卒業後、東京帝国大学理学部に入学、「有線及び無線多重電信電話法」の特許を得るなど将来を嘱望されていましたが、徴兵にあい、精神を病んで大正13年に26才で自殺したそうです。

と、いうようなことを、この「琵琶湖周航の歌資料館」に寄って初めて知りました。
こういう背景を知ると、この歌から何か「青春の歌」という感じを受けるのもうなづけるような気がしてきました。


「ひつじぐさ」というのは、日本産の小型の睡蓮のことで、今津町では今これを増やそうとしていて、たくさんのお家の前に睡蓮の鉢が置かれていました。

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2011年湖北の旅(3)旧今津郵便局が風前の灯

2011-05-08 02:22:29 | 建物(滋賀県)
今津ヴォーリズ資料館、今津教会からヴォーリズ通りを歩いて行くと、次に建っているのが、「旧今津郵便局」。





1936(昭和11)年、ヴォーリズ建築事務所の設計で建てられた郵便局です。
昭和53年まで使用され、当初はここで電話交換事務も行われていました。


裏に廻って見ると、こんな風になっていました。



ヴォーリズ建築として、こうして表示板も出ているのに、個人の所有でもうすぐ壊されてしまうという話を聞きました。
前の通りが「ヴォーリズ通り」という名もついているのに、これがなくなるとヴォーリズ建築は二つになってしまい、「ヴォーリズ通り」とはいえなくなってしまいそう。
今津町高島市が買い取るとかして、なんとか残せないものでしょうか。
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2011年湖北の旅(2)日本基督教団今津教会

2011-05-08 02:20:57 | 建物(滋賀県)
今津ヴォーリズ資料館から1分もかからないところにあるのが、ヴォーリズ設計の今津教会。
現在も教会・幼稚園として使われています。


1934(昭和9)年築。
木造、1階建て。国の登録有形文化財。


この入口側から見た建物正面がとても印象的、塔と玄関の屋根の傾斜を揃え、すっきりとしていかにもプロテスタントの教会らしいシンプルな造りです。


後ろから見たところ。
幼稚園は後ろ部分を建替えて使っています。
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