ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

鴨沂高校体育館と鴨沂会館

2013-11-21 21:07:30 | 建物(京大以外の京都府の)
鴨沂高校本館のあるキャンパスから荒神口通りを横切って北側に渡ると、運動グラウンドと体育館、温水プールがあるキャンパスがあります。


体育館は、1934(昭和9)年築。鉄骨鉄筋コンクリート造2階建。




右(東)側から見たところ。



左(西)側から。丸い窓とカーブのデザインがあちこちに取り入れられていてモダニズムらしさを表しています。



本館のあるキャンパスと運動場エリアを繋ぐ地下道の出入口は、鉄筋コンクリート造で半円形、円柱を持つ珍しい造形です。
半円の足元はベンチになっていて、運動の途中で休む場所になるでしょう。



校舎側へ渡る地下道の入り口は今は封鎖されています。




体育館の裏側には屋内プールもあります。
プールは1933(昭和8)年に校舎改築計画の第一弾として竣工されたもので、ボイラーを備えた府下校舎では初めての温水プールでした。



スクールバスがありました。
実は、ここの運動場だけでは狭すぎるので、鴨沂高校運動場は紫野にもあり、スクールバスで往復していたのです。
ところがその運動場が他校に譲渡されることになっていて、鴨沂高校のグランドがここだけになってしまうことになり、それでは今ある体育館もプールも壊されることになるのではないかと懸念されるのです。もし、そうだとしてもやはりここだけでは狭すぎる。どうなるのでしょう?






グラウンドの東側に立つ鴨沂会館は京都府立京都第一高等女学校の卒業生団体である京都鴨沂会の会館です。
1936(昭和11)年築、鉄筋コンクリート造3階建。



こちらも設計は十河安雄で、昭和のモダニズムの香りがする建物です。


昭和初期の最新の学校施設がまとまった形で残っている貴重な施設群です。
何とか壊さないで残してほしいものです。




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鴨沂高校の図書館と作法室・茶室

2013-11-21 20:47:43 | 建物(京大以外の京都府の)
鴨沂高校正門の南側、寺町通りに接して建てられている図書館です。


建てられたのは、1938(昭和13)年。昭和8年から始まった一連の校舎改築の最後に出来上がった建物です。
鉄筋コンクリート造2階建モルタル仕上げで、落ち着いた色調のモダニズムデザインです。



円く張り出した部分の内側は階段室です。



閲覧室だった部屋。




書庫の中の本も全て移転されてしまっています。



本館の東側に回ると和風の建物があります。

女紅場時代の九条家の建物がそのまま残っている作法室と、



お茶室です。

山本八重さんがここでお茶を淹れられたのですね。



作法室の中にも炉が切られていて、高校生の茶道修行に使われてきた所です。

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京都府立鴨沂高校の建物を見学する

2013-11-21 00:35:12 | 建物(京大以外の京都府の)
建て替えが予定されている京都府立鴨沂(おうき)高校の校舎を見学する機会がありました。



河原町荒神口から西へ、京都御苑の東寺町通りに面して西に向かって建っている純和風の門が鴨沂高校の正門です。

この門は、鴨沂高校の前身である「京都新英学校及京都女紅場(にょこうば)」が明治5年に丸太町通り土手町にあった九条家河原町邸の屋敷を利用して開校した時からのものです。
明治33年に現在地に移転してきた時にこの門も移築されてきました。

女紅場と言えば、新島襄の妻、八重が教育に携わったということで、今大河ドラマでも有名になった日本初の公立女学校です。元あった場所の鴨川丸太町橋の西のたもとに「本邦高等女学校之濫觴 女紅場址」の碑がたっています。

この学校は明治37年に京都府立第一高等女学校となり、昭和23年に新制の府立鴨沂高等学校となりました。



「京都府立鴨沂高等学校」



門脇に立つ「明治天皇行幸所京都府尋常中学校」の碑。



ウィーンの森。

玄関の南側にある木々が繁った庭。ベンチに座ってお弁当を食べたり、放課後に友達とおしゃべりしたりと、生徒たちの憩いの場になっていたことでしょう。


本館は昭和10年に完成したコの字型の建物で、教室や職員室のほか講堂、食堂もこの校舎の中にあります。
本館は御所に向かって西を向いて建っていて、鉄筋コンクリート造三階建て、中央の和風の屋根が特徴的です。
設計は京都府営繕技師、十河安雄。




玄関入口部分の重厚な構え。





左右のコの字部分には、南棟には主に普通教室、北棟には部活動室、食堂等、とてもたくさんの部屋が並んでいます。
普通教室の他に、生物・化学・物理・調理・音楽・書道・情報等の目的別の部屋とそれぞれの準備室が揃っていて、教育環境が整えられていたことがわかりました。


部室の中には軽音楽室もあり、もしかしたらジュリーもここで歌っていたかもと思いました。



建物の裏(東)側から見たところ。ところどころに曲線のデザインが取り入れられていて、モダニズムを感じさせられます。




校長室には造りつけの棚が。



廊下。




教室。




こんな古い教壇が残っている教室もあります。




階段。



袴をつけた女学生が登り降りしやすいように、段の高さは低いものとなっていて、永年の使用の間に木がすり減っています。



階段の手すりには曲線が取り入れられています。




階段踊り場に手洗場があります。




三階中央にある「講堂」。
昭和12年には、ヘレン・ケラーが来校し、ここで講演会が開かれたそうです。



とても広い空間で、両側上部に小さなアーチ窓が並んで明り取りの役割を果たしています。




老朽化、耐震化のために建て替えるということで、高校の授業は別の場所で行われていますが、見学会で見てみると、今でも十分に使える建物のようでした。
新しい校舎のプランもできていないのに、拙速にとり壊してしまうよりも、むしろ登録有形文化財として保存することはできないのでしょうか。
耐震強度も再度十分に調べ直して、歴史的にも、建築文化的にも貴重なこの建物をできるだけ残して改修・使い続けていってもらいたいものです。

卒業生達の中から鴨沂高校の校舎を考える会が立ちあがって、在校生達に迷惑をかけないように配慮をしながら、署名運動にも取り組んできています。


鴨沂高校の建物見学の記事はまだ続きます。

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2013年11月鹿児島旅行 もくじ

2013-11-11 01:43:26 | 遠出(国内)
2013年11月8日~10日に鹿児島方面に旅行に行きました。









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2013年鹿児島旅行(9)肥薩線の旅

2013-11-11 00:41:06 | 遠出(国内)
JR肥薩線は鹿児島県隼人駅から熊本県八代駅までの路線です。

鹿児島県、宮崎県、熊本県の県境を越えて急こう配の山間部を走る路線で、昭和2年の開通当時、海岸線を通らず、無理をして険しい山の中に通したのは、戦争が勃発した際に艦砲射撃を受けない山中を通せという軍部の判断によったからということです。

途中には木造の駅舎や鉄道遺産の宝庫で、山間部や球磨川沿いに絶景が見られるおもしろそうな路線なので、特急で通り過ぎず、3つの列車を乗り継いで楽しんできました。



嘉例川駅から3つ目の大隅横川駅です。



1903(明治36)年1月15日、嘉例川駅と同時期に誕生しました。
ここも無人駅ですが、国の登録有形文化財に指定されています。
ホームの柱には第二次世界大戦中に機銃掃射を受けた弾痕が残されているそうです。




吉松駅で観光列車「しんぺい号」に乗り換えました。
吉松 - 人吉間の運行で、上りは「しんぺい号」、下りは「いさぶろう号」と呼ばれます。
名前の由来は、吉松 - 人吉間が建設された当時の鉄道院総裁であった後藤新平と、逓信大臣山縣伊三郎によるものです。観光列車なので、途中駅では数分間の停車時間があり、駅の施設を見学することができます。また、駅間の眺めの良い所では停車し、説明が行われます。



車内は木造でシックに作られています。



真幸(まさき)駅には小さな駅長さんがいました。土日に近くの小学生がボランティアで駅長さんをしているのです。
ホームには「幸せの鐘」があり、自分の幸せの度合いに応じて鳴らしていいそうです。



近くに人家もあまりない秘境駅ですが、地域のボランティアの方達が特産品やお茶のサービスをされていました。駅に入るところでスィッチバックをします。

1911(明治44)年3月11日に開業しましたが、この駅は名前に反して不幸なでき事が続いています。
1945(昭和20)年8月22日多数の復員軍人を乗せた列車が吉松駅との間にある第二山の神トンネル内で立ち往生し、蒸気機関車の煙に巻かれた多くの復員軍人達がトンネル内を歩いて脱出しようとしたところ、これを知らない機関士が列車を後退させ、53名が轢死しました。立ち往生の原因は、空襲攻撃により鹿児島本線や日豊本線の主要橋梁が落下して肥薩線が唯一の運転ルートだったため、多くの復員軍人が我先にと列車にぶら下がり、満員状態だったこと、機関車も前と後ろ押しで走っていましたが、戦時中の酷使による機関車の疲弊、粗悪石炭使用による馬力不足だったことなどです。事故があったあたりに復員軍人殉難碑が建っています。せっかく戦争を生き延びてここまで帰ってきたのに、何ということでしょう。

さらに、1972(昭和47)年7月6日、梅雨前線による大雨の影響で駅の裏山斜面が崩壊し、これが土石流となって真幸駅構内と周囲の集落を飲み込み、死者4名、負傷者5名のほか住家28棟流失の被害を出しました。被害を受けた住民がほとんど他に移り住んだので、駅周辺はほとんど無人となったものです。


この時流れ込んだ重さ約8トンの巨石がそのままホームに残されています。





真幸駅から次の矢岳(やたけ)駅までの間は「日本三大車窓」の一つに数えられているところですが、あいにくの小雨模様で霧で見晴らしがよくなかったのが残念でした。
晴れていたら霧島連山とえびの高原、さらに条件が重なれば桜島、開聞岳までも眺めることができるそうです。



矢岳駅。1909(明治42)年11月21日開業の木造駅舎です。
肥薩線で最も高い場所にあります。(標高536.9m)






駅の構内に人吉市SL展示館があり、かつて矢岳越えで活躍していた蒸気機関車 D51 170が展示されていました。この展示館の中でも特産品が販売されていました。




大畑(おこば)駅。1909(明治42)年12月26日開業の木造駅舎。
「こば」とは焼畑を意味した言葉で、その昔大きな焼畑があったことからこの地名が付けられたという説があります。

駅を間に挟んで線路が半径300mの大きな円を描くループ線とスィッチバックの両方が設けられています。山深い一帯に鉄道を敷設するのには難工事が続き、多くの犠牲者が出たそうです。



ホームに残る湧水盆。乗客が蒸気機関車の煤で汚れた顔や手を洗うのに使われたそうです。
構内に給水塔跡もあります。



肥薩線で次々現れる木造駅舎、どれも無人駅となっていますが、温かみのある懐かしい姿を今も残していて、地域の方々が大切に守っている様子が伺えました。


人吉駅で「しんぺい号」を降り、「九州横断特急」に乗換えました。
右が「しんぺい号」、左が「九州横断特急」。

人吉駅から肥薩線の終点、八代駅まではほぼ球磨川に沿って走り、これもいい眺めでしたが、小雨に煙っていて、写真はなし。
熊本駅で特急を降り、新幹線に乗って京都に帰ってきました。

鹿児島・肥薩線の旅はこれで終わりです。
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2013年鹿児島旅行(8)百年の木造駅舎 嘉例川駅

2013-11-11 00:40:13 | 建物(鹿児島県)
定期観光バス「指宿・知覧コース」は鹿児島中央駅、天文館を通って、終着点は鹿児島空港でした。そこからバスで安楽温泉まで行き、宿泊。

翌朝バスでJR肥薩線「嘉例川駅」まで戻ってきました。





あいにくの雨空の中、駅前広場では地域おこしの祭が行われていました。



小中学校生や地域の人、プロの音楽家等の合唱や演奏があり、広場いっぱいにお店が出されて、たくさんの人が集っていました。




嘉例川駅は1903(明治36)年1月15日開業し、今年で111年、鹿児島県最古の木造駅舎で、登録有形文化財に登録されています。




天井に昔使われていたストーブを通した穴がありました。




元の駅務室にはトラさんの撮影時の様子など昔の駅の写真パネルが展示されていました。





中には「○月分 収入目標 円、一日平均 円」と書く黒板が貼られていました。



昔使われていたタブレット(通票)閉塞機が残されていました。単線区間で列車の衝突を避けるために、駅を通過する時に運転士がタブレットを引っかけて、対向車の運転士に渡すために使われたものだろうと思います。


ホームは1面だけです。



ホーム側に飛び出した駅務室。

無人駅ですが、駅舎は地元のボランティアによって整備・清掃され、ボランティアの「名誉駅長」さんもいます。
百年の歳月を過ごしてきたどっしりした駅舎、地域の人々からも愛されて、いつまでも大切に守られていってほしい駅です。



土・日・祝日に限って売られている駅弁「百年の旅物語 かれい川」。



地元産の材料が盛り沢山で、竹の子ご飯(たけのこ、肉厚のしいたけ)、がね(鹿児島独特のサツマイモの天ぷら)、千切り大根の煮物、なます(大根、人参)、嘉例川コロッケ(しいたけ、竹の子)、田楽(ナス、かぼちゃ)で構成されています。

ボリュームたっぷりでお腹いっぱいになりました。



嘉例川から吉松まで普通列車に乗りました。


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2013年鹿児島旅行(7)知覧武家屋敷庭園

2013-11-11 00:39:19 | お庭
江戸時代の知覧は薩摩藩の武家集落があり、鹿児島に武士団を集中させることなく分散して統治する薩摩藩の外城の一つでした。

知覧特攻平和会館から車で5分程の所に「薩摩の小京都」と呼ばれている17・18世紀からの街並みがありました。


折れ曲がった本馬場通りに沿って、石垣と生垣に囲まれて武家屋敷が並び、それぞれの屋敷には琉球の流れを汲む様式の美しい庭園があり、景観の美しさと今も住み継がれている貴重な街並みが「重要伝統的建造物保存地区」に指定されています。

7つの庭園に入れる共通券(500円)が地域入口の5箇所の取扱所で販売されています。


整然と刈り込まれた生垣の中にはお茶の木もありました。



屋敷の入り口は屋敷内が見えないようにする屏風岩や、魔よけの石碑(沖縄では「石敢當」)があり、琉球貿易が盛んだったため琉球の影響を受けているのだそうです。







ほとんどの庭園はこのような枯山水式です。



ここは唯一池泉式の庭園でした。



森重堅(もりしげみつ)家で、住居は1741(寛保元)年に建てられたもの。森家は格式の高い重臣で、領主の館に最も近く、領主がよく遊びに来ていたため、造りも特別になっているそうです。

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2013年鹿児島旅行(6)知覧特攻平和会館

2013-11-11 00:22:21 | 遠出(国内)
次に行った「知覧特攻平和会館」です。


南九州市知覧町には昭和16年から少年飛行兵、学徒出陣の兵士達が操縦訓練をする施設がありましたが、昭和20年には本土最南端の特攻出撃基地となり、爆弾を装着した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をするという恐ろしい戦法で、沖縄近辺で1,036名の若者が戦死していきました。
昭和60年度から知覧町が「知覧特攻平和会館」を建設し、遺族や関係者から遺品や資料を収集、保存、展示しています。

館内には、1,036名全員の遺影と家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等が展示されていました。あまりにたくさんの遺影で、見学の時間も少なくて一人一人読むことはできませんでしたが、それぞれどんな思いでこの地を飛び立って行ったことでしょう。
ずっしりと重たいものを感じ、戦争を二度と起こしてはならないと思いました。



館の外に復元されていた三角兵舎で、特攻隊員たちが出撃するまで寝起きしていた半地下式の建物です。


その内部です。




会館の周辺では道路の両側に鎮魂のための石燈籠が据えられていました。もう1,036名を超えているようですが、さらにたくさんの燈籠が建て続けられているそうです。



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2013年鹿児島旅行(5)開聞岳と池田湖

2013-11-11 00:21:30 | 遠出(国内)
翌日の観光も定期観光バスで。この日は鹿児島交通観光バスの遊覧バス、指宿・知覧コースで廻りました。

このコースの出発地は鹿児島市天文館。鹿児島中央駅、指宿駅前、指宿いわさきホテル前でも乗車できるので、指宿駅前から乗りました。
バスガイドは男の方。全行程は9時間程、バスが走っている間はほとんどずっとガイドのお話をしてくれていました。


指宿からしばらく田園の中を走ると開聞岳が見えてきます。

薩摩半島の最南端に突き出た岬、長崎鼻の突端から見る開聞岳。裾を長く広げた整った姿で、薩摩富士とも呼ばれています。標高924メートルで、コニーデの上にトロイデをのせた二重式火山の活火山です。この辺りの山や地形にも火山地帯の特長を表しているものが多かったです。


長崎鼻は浦島太郎が竜宮へ旅立った岬と言い伝えられ、乙姫様を祭った竜宮神社もありました。
白い灯台があり、付近の海はウミガメの産卵地にもなっています。天気がいいと、はるかに屋久島も見えるそうです。




開聞岳の中腹にあるゴルフ場で休憩し、昼食をとりました。ここも見晴らしのいい所でした。
開聞岳の麓ではトカラ列島産のトカラ馬が放牧されていました。




次に行ったのがここ、池田湖です。
大昔の火山活動によって形成された周囲15キロ、最大水深233メートルの九州最大のカルデラ湖です。



いました! 知る人ぞ知る、池田湖の「イッシー」です。
その昔、イギリス、ネス湖の「ネッシー」の向こうを張って、「イッシー」という恐竜が池田湖に棲んでいると騒がれたものですが、今もまだ生きていたのですねえ。年が経っているにしては、真っ白で新しそうでした。池田湖では今も大事にされているのですね。

池田湖には、指宿市の天然記念物に指定されている体長1.8メートル・胸回り60センチ・体重20キログラムもの大うなぎが数多く生息していて、これは実際に水槽で飼っているのを見ることができました。
天然記念物になる前に食べた人によると、味は大味でおいしくなかったそうです。



湖畔にはいろいろの花が植えられ、1月は菜の花が満開となって菜の花ロードと呼ばれるそうです。この日も11月だというのに、とても暖かくて、ブーゲンビリアが満開。安納芋ソフトクリームを食べました。

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2013年鹿児島旅行(4)指宿温泉で砂風呂に入る

2013-11-11 00:20:33 | 遠出(国内)
鹿児島市内の観光をした後、JRで指宿まで快速で約1時間移動、指宿温泉のホテルに宿泊しました。
その頃はもうすっかり暗くなっていたので、海の絶景も見えず、


こちらは1夜明けた翌朝の指宿駅です。
椰子の木やブーゲンビリアがあちこちに咲いていて、すっかり南国ムードです。



駅前に足湯がありました。




ホテルの目の前に太平洋の海が広がっていました。





夜、指宿名物の砂風呂に入りました。
天然の砂風呂は海岸にあるようですが、ここはホテルの中に作られた砂風呂です。
広い砂場の中で一人づつ砂に埋めてくれて、10分間そのまま寝ています。砂が結構熱くて、着ている浴衣越しにお腹の辺りがやたら熱くなり、「あつ~い!」と言うと、「熱い時は身体を動かしてください。」ということなので、もぞもぞ動いていたら、手足が砂から出てきてしまいました。
でも、全身がほかほかして、とっても気持よかったです。


砂風呂から出た後は、隣にある露天風呂でさらに温まります。

初めての砂風呂体験でした。


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2013年鹿児島旅行(3)鹿児島の近代建築

2013-11-11 00:19:01 | 建物(鹿児島県)
仙巌園に隣接して大きな近代建築が建っています。


尚古集成館本館。

1865(慶応元)年に島津斉彬によって始められた日本最古の機械工場、日本で初めてアーチを採用した石造洋風建築物で、国の重要文化財になっています。

1923(大正12)年からは島津家の歴史と近代化事業を紹介する博物館として公開され、現在は島津興業によって運営されています。

定期観光バスでは中には入らず、外観を見るしかありませんでした。



尚古集成館のさらに西側にもこんな素敵な建物がありました。
磯工芸館。

鹿児島郡吉野村(現 鹿児島市吉野町)から吉田村(現 鹿児島市吉田町)にかけて広がっていた吉野植林所の事務所として、1909(明治42)年に建てられたもので、昭和61年現在地に移築され、文化庁より登録有形文化財に指定されました。

集成館事業で作られていた独自のカットグラス「薩摩切子」を1985年に復元し、隣接する薩摩切子工場で生産し、ここをギャラリーショップとして販売もされています。

ここも外観だけ。





鹿児島市中心部では、定期観光バスで西郷どんの説明で盛り上がっている時、反対側の窓には次々と立派な近代建築が現われ、西郷像はそっちのけで撮影してしまいました。その時はそれぞれ何の建物かもわからなかったのですが、後で検索してみて、それらしきものを調べてみました。

鹿児島県立博物館(旧鹿児島県立図書館)。

1927(昭和2)年に九州初の鉄筋コンクリート造の図書館として竣工しました。設計は岩下松雄。国の登録有形文化財



鹿児島県教育会館。

1931(昭和6)年竣工。設計は畑村源次郎・三上昇。
鉄筋コンクリート造3階建て。



鹿児島市中央公民館(旧鹿児島市公会堂)。

1927(昭和2)年竣工。設計は片岡安。
1945(昭和20)年6月17日の鹿児島大空襲により、 外部構造を残して焼失したため、改修工事が行われ、 1949年(昭和24年)から中央公民館と改称して利用されています。
鉄筋コンクリート造3階建て、地下1階。国登録有形文化財。




鹿児島県政記念館(旧鹿児島県庁舎本館玄関部分)。

1925年(大正14)年竣工。設計は曽禰中條建築事務所。
鉄筋コンクリート造3階建て。
鹿児島県庁は1996年(平成8年)に鴨池の新庁舎へ移転したため、 玄関部分を残して解体され、現在地へ約100mほど曳家されて、 展示室として活用されています。




ザビエル記念碑。
1549年にフランシスコ・ザビエルが日本で初めて訪れたのが鹿児島だったとは知りませんでした。かつて記念教会がありましたが、太平洋戦争中に空襲で焼失、1949年、ザビエル来航400年を記念して公園を造営し、教会の廃材を使用してこのザビエル来鹿記念碑が設置されました。




公園の向かいには、ザビエルを記念したカトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会が建てられています。




鹿児島市役所。

1937(昭和12)年竣工。設計は大蔵省営繕管財局工務部。
鉄筋コンクリート造3階建て。国の登録有形文化財。




南日本銀行本店(鹿児島無尽鹿児島支店)。

1937(昭和12)年竣工。設計は鹿児島県技師三上昇。
もともとは4階建て(一部6階建て)でしたが、1967(昭和42)年に増築した際は地盤改良などを施し、地下1階地上8階に建て増しされました。全面建て替えの案も出ていましたが、保存を図ることになり、違和感なくうまく増築されています。
国登録有形文化財。



鹿児島最大の繁華街、天文館辺りにある山形屋デパート。
昭和初期のルネサンス調の外観で、電車通りに面して長く続くアーケードも古風な感じで趣きがあります。

天文館という地名は、第25代薩摩藩主島津重豪が天体観測や暦の研究施設として明時館(別名「天文館」)を建設したことに由来しています。


とにかく、鹿児島の町は近代建築がごろごろ、垂涎の町でしたが、駆け足でバスの窓からしか見ることができなかったのが残念です。



付け足し。

鹿児島市では市営の路面電車が走っています。
ここの特長としては、軌道敷のほとんどに芝生が植えられ、緑化が進んでいることです。
車が行きかう町中に芝生の緑が美しく、沿線の騒音が少なくなり、夏には近辺の温度をかなり下げる働きをしてヒートアイランド現象の緩和に役立っているそうです。


鹿児島駅の近くに電車の車庫がありました。


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2013年鹿児島旅行(2)仙巌園

2013-11-11 00:17:50 | お庭
西郷さんゆかりの城山周辺を巡った後は、鹿児島観光の定番、仙巌園へ。


市中心部から東寄りの海沿いにある、薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園です。
1658(万治元)年に第19代藩主であった島津光久によって造園され、その後も歴代藩主によって手が加えられてきました。
別名磯庭園とも言われるように、すぐ目の前が錦江湾の海岸になっています。



錫門。
朱塗りの柱と白い錫製屋根の門で、当主と嫡男だけが通ることができる正門として作られたものです。



約1万5000坪の広大な敷地に御殿と庭園、茶室、レストラン、売店等が広がっています。
この日は菊まつり中で、いろいろな菊の植え込みで園内が飾られていました。三重の塔も菊でできています。



鉄製150ポンド砲を復元したもの。約68kgの鉄製の弾を約3km飛ばす威力がありました。
後方に大砲を鋳造するための鉄を溶かした反射炉跡があります。

幕末に第28代藩主島津斉彬がこの敷地の一部を使ってヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こし、鹿児島沿岸に砲台を設け、外国の侵攻に備えました。


菊花壇と小型の大砲模型。



御殿。
1888(明治21)年からは焼失した鹿児島城に代わり島津忠義公爵一家の住まいとなっていました。
篤姫、勝海舟、グラバー、ロシア皇帝ニコライ2世等もここを訪れています。



御殿の前に池庭がありますが、その奥に広い芝生越しにはるかに見える桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた雄大な眺めとなっています。


















望嶽楼。
琉球国王から贈られた建物です。






仙巌園は島津家が東京に居を移した後住人不在となり、1949(昭和24)年、華族制度廃止に伴い鹿児島市の管理下に置かれましたが、1957(昭和32)年には島津家に返還され、現在は島津興業が管理しています。

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2013年鹿児島旅行(1)鹿児島市内観光

2013-11-11 00:16:35 | 遠出(国内)
新幹線が九州まで繋がってもうだいぶ経っていますが、初めて鹿児島中央駅まで往復新幹線を利用して行ってきました。
新大阪から鹿児島中央まで通常片道20,790円のところが、1ヶ月から2週間前まで(ただし、売り切れ御免)の「スーパー早特きっぷ」なら14,000円と、かなりお得です。


新大阪から3時間45分程で鹿児島中央駅に着きました。



鹿児島と言えば、桜島。
ほとんど毎日噴火していて、市内に降る灰が道路や屋根の上に降り積もるので、灰を捨てる専用のごみ袋が配られて、専用の集積場があちらこちらに造られていました。
この日も煙を吐いていました(右上方)が、まだ少ないほうだそうで、空はそれ程煙っていませんでした。



次に鹿児島と言えば、西郷さん。
「鹿児島歴史探訪コース」の市内観光バスに乗ると、廻るところはほとんど西郷隆盛に関連する史跡でした。
ここは西郷隆盛・従道の生家です。


左側に突き出た部分は土間の造りで、農家を兼ねたような下級武士の家だったことがわかります。



城山の中腹にある西郷が西南戦争の最後に立て籠もっていた洞窟です。



南洲墓地にある西郷隆盛のお墓です。



周り一帯、西郷に従って亡くなった薩摩武士達のお墓がぎっしりと並んでいます。




この墓地からもはるかに桜島が見渡せました。




この日巡った鹿児島市交通局の定期観光バス「かごしま歴史探訪コース」は次のようなコースでした。

鹿児島中央駅(9:05または13:45発)→維新ふるさと館(下車観光)→ザビエル公園→照国神社→西郷銅像→鶴丸城跡→薩摩義士碑→城山(下車)→西郷洞窟→私学校跡→南洲墓地(下車)→仙巌園(下車)→石橋記念公園→桜島桟橋→ドルフィンポート→鹿児島中央駅  以上で所要時間3時間30分、2,200円 
要予約ですが、空席があれば当日でも乗車可能です。

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50周年を迎えた京都府立総合資料館

2013-11-05 23:19:45 | 建物(京大以外の京都府の)
11月5日、こちらの展示会に。

国宝「東寺百合文書」はまもなくユネスコの世界記録遺産に指定されようとしています。
資料館では毎年「東寺百合文書」に関連する展示会を開いています。今年は10月12日(土)~11月10日(日)に開催されていたました。(同時開催 みんなで作る50年史) 



京都府立総合資料館、いろいろとお世話になりました。資料館は1963(昭和38)年の開館から今年で50周年を迎えています。

まもなく建て替えられるとかで、展示会の中でも、今の南側府立大学農場の辺りに建てられる新しい館の模型が展示されていました。かなりの大規模な箱ものになるようです。

この建物の姿を見られるのもあとわずかかもしれません。




なお、次回の展示会は「資料にぞくっ!~昭和で25年・平成で25年を所蔵品でふりかえる~」(同時開催 みんなで作る50年史) です。

2013年11月14日(木)~12月15日(日)  午前9時~午後4時30分
 (休館日 11月23日(土・祝日)、12月11日(水))



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100周年を迎えた大谷大学赤レンガ学舎

2013-11-02 22:27:43 | 建物(京大以外の京都府の)
たまたま前を通りかかった時にこの看板を見つけて、

10月12日~11月28日、大谷大学博物館で開催されていた「赤レンガ100周年記念 赤レンガの学舎」展を見てきました。



東京巣鴨で開学した「真宗大学」が、1913(大正2)年に現在の京都市北区小山、烏丸北大路の地に移転、「真宗大谷大学」として建てられてから今年で100年になります。
その時造られたのは、赤レンガ造本館・講堂、図書館、学寮(学生寮)でしたが、当時の建物が今もそのまま残っているのは、本館・講堂部分で、現在は「尋源館」と呼ばれています。


「赤レンガの学舎」展は前にも見たことがあります。(2010年の記事)



今回は建物の中にも入ることができたので、探検してみました。

建物の中央は車寄せ表入口側から裏開口部まで通り抜けできるようになっています。



二階に上がる階段は元はこの中央部分と建物の両端側にあったのですが、1982(昭和57)年の改装で建物の両端部分がばっさり切り取られてしまいました。



キャンパスが狭くなったとはいえ、堂々と両側に伸ばしていた翼をもぎ取られ、建物としてのバランスが悪くなったようです。もったいないことです。



両側の階段を取り外した時に、階段の横板、この部分を残してベンチを作ったそうで、



尋源館の二階ロビーに置かれていました。
ベンチの下に階段の横板を嵌め込んだ溝跡がありました。

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