2009年3月28日~29日、紀州路の旅に行ってきました。
和歌山の旅の最後は、お決まりの観光地「マリーナシティ」に寄りました。
JR和歌山駅からバスで30分くらい、和歌山から4つ目のJR海南駅からバスで10分くらいです。
南ヨーロッパをイメージした町並みのテーマパーク「ポルトヨーロッパ」には入らず、
目指すは「スパリゾート黒潮温泉」。
海底1500メートルから湧出した温泉につかって旅の疲れを癒しました。
そして、黒潮市場の食堂で海の幸でお腹もいっぱい、帰りの電車はずっと夢の中でした。
紀州藩和歌山城。かの八代将軍吉宗(イメージ→暴れん坊将軍)のいたお城です。
JR和歌山駅から歩いて10分くらいで行けます。
江戸初期の天守閣は1845(弘化3)年の落雷によって焼失しましたが、御三家紀伊徳川家の城ということで特別に許され、1850(嘉永3)年に昔の通りに再建されました。しかし、この天守閣も昭和20年の戦火で焼失し、1958(昭和33)年に鉄筋コンクリートで復元されています。
ここも桜は満開までもう少しというところでしたが、城内あちこちが花見の場所になっていて、屋台も出てお城が市民の憩いの場所になっていました。
海上から見た形が虎が伏したように見える伏虎山の上に建っているので、伏虎城とも呼ばれています。
このトラはかんわい~い。
天守閣から海が見えました。
和歌山市のホテルに泊まって、その夜の食事は外でということで、町に出ました。
駅前の通りにあった味どころ「銀杏」。
和歌山のご馳走と言えば、鯨!です。
白いのがクジラの湯引きです。
クジラを食べたのは久しぶりです。
(なぜかホタルイカもありますが)
クジラの揚げ物に、目張り寿司も。
もう食べられませんというまで、食べてしまいました。
紀州路の旅の続きです。
和歌山の桜の名所、紀三井寺はJR和歌山駅から二駅目の紀三井寺駅から徒歩15分くらいで行けます。
山の中腹にあるので、坂がちょっときついです。
女厄除坂も男厄除坂もあるので、きつくても頑張って登って厄を払います。
3月28日で、桜はまだ五分咲きというところでした。
高い所にあるだけあって、見晴らしはよく、太平洋が見えました。
駅からお寺までの道端には、夏みかん等の柑橘類がたくさん売られていました。
湯浅町の近代建築は現役の小学校の講堂でした。
湯浅町立湯浅小学校。
講堂は1935(昭和10)年の建築で登録有形文化財です。
鉄骨平屋建て、巨大な切妻屋根で玄関部分にアーチ型の開口部があります。
内部は柱のない大きな空間となっており、高い舟底形の天井の美しいデザインだそうですが、玄関から覗き見るだけだったので、よくわかりませんでした。
中では離任式(?)の準備が整っていたようです。
補修をしながら現在も大切に使われているそうです。
後方から見たところ。
湯浅小学校の場所は、ネットのおおまかな地図しか情報がなくて、歩き回ってやっと見つけました。学校を見つけてからも、講堂がなかなか見えず、最初に見つけたのはこの後ろ姿でした。
それからまた学校の敷地周りをぐるっと回ってやっと講堂正面にたどり着きました。半分諦めかけていたけれど、見つかってよかった、よかった。
こんなかわいい金次郎さんも学んでいました。
タイムスリップの町-湯浅町は見所いっぱいで、懐かしさに溢れていました。
まだまだゆっくり見たいところですが、またの機会にして、和歌山の旅を続けました。
JR湯浅駅近くにあった「紀伊国屋文左衛門の像」。
紀伊国屋文左衛門の生誕地が湯浅だったのです。嵐の海にみかん船を漕ぎ出す若さ溢れる文左衛門の像です。
深専寺門前にある「大地震津なミ心えの記」。和歌山県指定文化財です。
嘉永7年11月に大地震があり、その時浜辺や川辺に逃れた人が襲ってきた大津波でたくさん溺死したことから、今後の心得としてこの碑を建て、
「昔よりつたへ言ふ井戸の水のへり、あるひハにごれハ津波有べき印といへれど、この折には井の水のへりもにごりもせざりし、さすれハ井水の増減によらず、この後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし。」とあります。
今でも十分に役立ちそうな教訓です。
この湯浅町の東にある広の集落はあの「稲むらの火」の現地です。
安政の大地震で津波が沿岸を襲った時に、七代目浜口儀兵衛が稲むらに火をつけて逃げ道を知らせ、多くの村人の命を救ったという話です。
湯浅の町ではあちこちのお家の外壁や塀に昔の道具や民具が展示されています。
これは「熊野古道せいろミュージアム」と言って、湯浅町の町並みそのものを美術館に見立て、辻行灯や昔の蒸し器であるせいろを使って、その中に展示しているものです。
↑この四角いのがせいろです。
見慣れた昔の生活用品あり、江戸時代から明治・大正と使われていた古めかしい装飾品あり、よく見てみると、とても貴重な品々がさりげなく飾られていて、とても興味深いです。
「甚風呂(戎湯)」です。
江戸時代創業のお風呂屋さんですが、建物は大正時代のもの。
菱形の窓があいた塀がおしゃれです。
甚風呂を横から見たところ。
かつては港に近いことから漁師が多く利用していましたが、今は営業していなくて、外から見るだけです。
麹資料館。味噌や醤油醸造の元である作っていたところですが、今は行灯など昔の灯りがたくさん展示されています。
北町茶屋「いっぷく」で遅いお昼を食べました。大きな町家を改装した趣のあるお店でした。
あまり観光地化されていないだけあって、町の中に食べ物屋さんが少なくて、お昼にありつけるかと心配になるくらいでした。
でも、ここまで我慢したかいがありました。
鯖の浜焼きの定食です。
この焼き鯖は2軒お隣の魚屋さんで売られていたものを買ってきて、定食につけてもらったものです。
2人で1匹をわけて食べました。焼きたてでホクホクしてとってもおいしかったです。
こちらの魚屋さんです。魚の上で蝿追いの紐がぐるぐる回っているような魚屋さんです。
「隣の食堂で定食につけられます」と出ていたのです。
湯浅と言えば、日本における醤油発祥の地、と実感したのは、今回湯浅を訪れてから後でした。
伝統的建造物地域を歩いていると、醤油の何ともいい香りがあたりに漂ってきました。
いくつかある醸造元のうち、「角長(かどちょう)」に寄りました。創業天保12年の昔ながらの手作り醤油蔵です。
お店の向かい側に醤油資料館(「職人蔵」)を作っておられて、昔からの醤油醸造の様子が展示されています(無料)。
現在の醤油の源泉は、鎌倉時代(13世紀中頃)紀州の禅寺興国寺の開祖法灯円明国師が南宋から伝えた嘗め味噌(経山寺味噌、現在は金山寺味噌と呼ばれている)がその母体と言われています。
嘗め味噌の中に入れた瓜、茄子などの野菜から塩の浸透圧によって出てきた水分は最初は捨てるだけでしたが、その汁を利用してみるとおいしいので、「新しい醤(ひしお)」(調味料)として作られるようになったということです。湯浅の水が良質で醤汁を醸すのに適していたことも幸いして、湯浅は醤油の名産地になったのです。
お店のすぐ裏には太平洋に続く川の船溜まり(大仙堀)があって、栄えた町の様子が伺えます。
金山寺味噌のお店「太田久助吟製」にも寄りました。
店内の様子。
金山寺味噌はご飯にのせて食べるとご飯が進んで大好きなので、買って帰りました。
こいくち醤油と金山寺味噌、左はこれも和歌山名物「めはり寿司」、目をみはって食べるくらい大きいのでめはり寿司と呼ばれます。
3月末、「青春18の旅」で訪れたのは、和歌山県湯浅町。
湯浅駅は1927(昭和2)年築の木造平屋建てです。
和歌山駅からJR紀勢線の12駅目、御坊や道成寺の手前、京都からは特急だと2時間で行けますが、「青春」の旅なので、ゆっくりのコースで、京都9時14分発大阪9時43分着の新快速→大阪9時53分発和歌山11時16分着の紀州路快速→和歌山11時21分発湯浅12時8分着の普通列車で行きました。
紀州路快速は結構乗客が多くて熊取あたりまで立っていなければなりませんでした。
駅から5分くらい歩いたところに熊野古道が通っています。
江戸時代、熊野三山への参詣道として栄えた街道が今も商店街になっています。この一画は昔、聖護院及び三宝院門跡が熊野入峰の道中、護摩を修した跡と伝えられるところ。この立石の道標は1838(天保9)年の建立で、紀三井寺、熊野、伊勢、高野山への参詣道を表したものです。
この立石から10分くらい歩いた一帯が重要伝統的建造物群保存地区で、江戸時代にタイムスリップしたような古い町並みが続いています。
熊野古道の町でもあり、醤油発祥の地である湯浅の町並みは、こんな建物がそこら中ごろごろあるすごい町でした。
こういう伝統的な建物がそのまま今も住み続けられているだけでなく、昭和の頃の懐かしい町並みや商店街もそのままで、しかも人っこ一人いないというのじゃなくて、ちゃんと今も生活のにおいがするうれしい町でした。
この歳になって初めて「青春18」の旅を経験しました。
2009年3月28日~29日、友達と2人で往復4回分を使いました。
(最初の1回分はどこかの誰かがすでに使われたもの)
さて、その行き先は
地下鉄鞍馬口駅から東へ歩いてすぐ、上御霊神社の門前にある小さなお菓子屋さん「水田玉雲堂」、ここだけで売られている伝統のお菓子、唐板(からいた)をやっと手に入れることができました。
平安時代863年から御霊会の疫病よけのお菓子として作られ続けてきたお菓子です。
おせんべいのような形ですが、少し柔らかめで、どこかで食べたことがあるようななつかしい味がしました。
平安時代863年から御霊会の疫病よけのお菓子として作られ続けてきたお菓子です。
おせんべいのような形ですが、少し柔らかめで、どこかで食べたことがあるようななつかしい味がしました。
清水三年坂美術館で「明治工芸の華 帯留めの名品」展が開催されています。
2009年2月27日(金)~5月24日(日)
10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月・火(祝日開館)
大人500円
清水寺から下ってきた三年坂の道沿い、お土産屋さんの並びにあるので、わかりやすい場所です。
館の前面では京工芸品の販売もしていて、その奥と二階が美術館になっています。
(訪れたのは3月8日)
明治になって刀剣装具の金工や根付、印籠の需要が減って金工職人達が失業した一方、帯留めの需要が増え、多くの優れた人材がこの方面に活路を求めました。名工達が高度の技術を発揮し、様々な意匠の魅力的作品が作り出されました。
金工、蒔絵、木彫、牙彫、珊瑚彫など、明治から大正にかけての帯留めの名品が並んでいて、見応えがありました。
小さな帯留めの面の中に、繊細で美しい細工が施されていて、感心してしまいました。デザインも魅力的なものがたくさんあり、どれもこれもほしいっと思ってしまいました。
2009年2月27日(金)~5月24日(日)
10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:月・火(祝日開館)
大人500円
清水寺から下ってきた三年坂の道沿い、お土産屋さんの並びにあるので、わかりやすい場所です。
館の前面では京工芸品の販売もしていて、その奥と二階が美術館になっています。
(訪れたのは3月8日)
明治になって刀剣装具の金工や根付、印籠の需要が減って金工職人達が失業した一方、帯留めの需要が増え、多くの優れた人材がこの方面に活路を求めました。名工達が高度の技術を発揮し、様々な意匠の魅力的作品が作り出されました。
金工、蒔絵、木彫、牙彫、珊瑚彫など、明治から大正にかけての帯留めの名品が並んでいて、見応えがありました。
小さな帯留めの面の中に、繊細で美しい細工が施されていて、感心してしまいました。デザインも魅力的なものがたくさんあり、どれもこれもほしいっと思ってしまいました。