2007年12月22日~23日、東尋坊・山代温泉・金沢へ行きました。
金沢では藩主前田家が武士や町人に対し、茶の湯を奨励したことで、和菓子文化が発達しています。
金沢でお正月に食べるお菓子として定番なのが、「福梅」。年末からお正月にかけてどの和菓子屋さんでも売られています。
前田家の梅鉢紋をかたちどった白と薄紅の2色の最中の中に、やや固めの餡が入っています。
適度な甘さでおいしゅうございました。
金沢の町を観光するには北陸鉄道の金沢周遊バスがとても便利です。
これは鏡花号。他に犀星号と秋声号があってみんなかわいい小型のボンネットバスです。
金沢駅-ひがし茶屋街-兼六園-犀星文学碑前-香林坊-武家屋敷跡-近江町市場-金沢駅 と、主な観光地を巡回していて、15分おきにバスがやってきます。
1回の乗車は200円、1日フリー乗車券は500円。
行った日は連休中で観光客が多かったので、増発便もすぐきていました。
京都と比較するのは、町の規模の違いもあって無理かもしれませんが、便利だなあと思いました。
観光ボランティアガイド「まいどさん」もいて、観光客に優しい町の姿勢を感じました。
あとは通りすがりにちらりとしか見れなかった建物がいくつか。
旧石川県庁本庁舎。
1924(大正13)年、矢橋賢吉、笠原敏郎の設計。石川県で初めての本格的鉄筋コンクリート造りで3階建て。
平成15年に新庁舎が建てられるまで、県庁として使われていたそうです。
正面玄関前に1対のシイの木があって、見事な形をしています。樹齢400年はしていて、国の天然記念物になっているそうです。
石川近代文学館(旧第四中学校校舎)。
1891(明治24)年竣工、山口半六/久留正道設計。
レンガ造りの建物が私を呼んでいたが、残念!時間がなくて大通りのこちらからしか写せませんでした。
上の二つの建物とも金沢市の繁華街香林坊から徒歩すぐのところにあって、近代的な町のすぐ近くに古いものも残されている金沢の町のよさを感じました。
(長町武家屋敷跡も香林坊からすぐ近く)
前田利家と正室まつを祀る尾山神社の神門。
1875(明治8)年に完成した和洋漢折衷造りの重要文化財。
ここを訪れた時には夕闇が迫り、雨も振り出したので、早々に立ち去ったので、詳細はyumeさんところでご覧ください。
兼六園の裏手の森の中にひっそりと立つ洋館。
旧陸軍第九師団長官舎です。1922(大正11)年築。
今は兼六園広坂休憩館になっていて、自由に中に入って休憩できるようになっています。
寒い日に長く歩いて来た身にはストーブの火がありがたいです。
兼六園の模型や、園内の植物の写真などが展示されていました。
軍人といえど師団長ともなると、優雅な暮らしをしていたようです。
金沢市出羽町1-1 バス停石浦神社前から徒歩4分
9:00~17:00
水曜は休館。
旧金沢陸軍兵器支廠は現在は石川県立歴史博物館として利用されています。
「赤煉瓦の3棟の建物は、旧金沢陸軍兵器支廠兵器庫として建てられた。最も古い第3棟は明治42年(1909年)竣工で、後の2棟は大正2年、3年竣工である。
終戦後、昭和21年金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)の校舎に転用された後、昭和47年に石川県が譲り受け、昭和61年から現在の博物館になった。
煉瓦造り2階建てで、左右対称の端正な意匠で、長さは90mに及ぶ。この種の建築としては我が国で数少ない貴重なものとされている。
3棟とも外観は創建時の姿を忠実に復元し、内部はそれぞれ異なった手法で構造補強を加え、そのうえで歴史博物館として再利用した。
平成2年9月11日付けで、重要文化財に指定された。」(案内板より)
設計者は山口半六と久留正道です。
1棟の側面はトイレになっていました。
軍の建物として使われていた頃には重厚な造りに威圧を感じて近寄りがたいものがあったでしょうが、今は博物館として再利用されて少しは親しみやすさも出てきているのではないでしょうか。
おまけ カラスに使われる人の巻
建物の写真を撮っていたら、頭上から横の地面に何かがポトンッと落とされました。すると、近くで立ち話をしていたおじさんがレンガのかけらでその丸いものを割って中身を取り出し、その場に置くとすぐにカラスが1羽降りてきて、その実を食べていました。
落とされたのは胡桃の実、おじさんの説明によると、どこかの木から実を採ってきて、いつもの人のいる近くに落として実を割ってもらって食べているのだそうです。
カラスと人のコラボに脱帽!
旧三田商店のすぐ近くにある金沢文芸館は元は石川銀行橋場支店の建物で、1929(昭和4)年の建築です。
前を通り過ぎただけで、通りの向こう側まで写真を撮りにいけなかったので、全体像が写せませんでした(涙)。
また、中には金沢五木寛之文庫もあって、入って見たかったのですが、時間がなくてパス(涙涙)。
夜はライトアップされているようです。
金沢城と兼六園の近辺には近代建築がゴロゴロしていました。
先ずは、旧石川県庁舎石引分室。成巽閣の裏手すぐ、県立能楽堂の隣に目を引く二つの建物が並んでいました。
向かって左側のこの建物は、
「登録有形文化財。
明治31年に金沢城二ノ丸跡に建築された旧陸軍第九師団司令部庁舎で、昭和43年に現在地に移築された際、両翼がほぼ半分に切り縮められたほかはほぼ原形を保つ。
木造2階建瓦葺で、正面玄関のピラスター(付け柱)やペディメント(三角形の切り妻壁)、上げ下げ窓の下に付けられた手すり状の意匠など、初期洋風建築のもつルネサンス風の外観を特徴とする。
明治期の庁舎建築の好例であり、造形の規範となった建物として貴重である。」
(案内板より)
半分に切り縮められたと聞くと、そういえば何か寸詰まりな感じがします。
こちらは、
「登録有形文化財。旧陸軍金沢偕行社。
明治31年の旧第九師団創設とともに旧陸軍の将校クラブとして金沢市大手町に建てられ、同42年に現在地に移転し、増改築が加えられ現状の姿になったと伝える。
木造2階建、マンサード風の瓦屋根(2つの異なる勾配をもつ屋根)とバロック風(曲線を多用する動きのある意匠が特徴)の外観をもつ。
隣接する旧陸軍第九師団司令部が簡素な庁舎風建物であるのに対して好対照の、華やかな技巧を凝らした明治ロマンを感じさせる建物である。」
(案内板より)
ここからは金沢の近代建築シリーズ(シリーズにする程もありませんが)です。
先ずは、旧三田商店。
金沢市尾張町1の8の5、菓子文化会館と百万石通りをはさんで向かい側にあり、ひがし茶屋街から兼六園に向かう時に偶然見つけましたラッキー
1920(昭和5)年に建てられ、輸入雑貨等を売るお店でした。
金沢市指定保存対象物になっています。
スクラッチ・タイルの外壁の中に、正面角の部分の装飾が凝っています。
入り口の外にある丸い石の突起は雪道で下駄の歯についた雪を払って中に入るために造られたものです。
今は骨董屋さんのギャラリーになっています。
骨董屋のご主人が建物の撮影を快く許してくださいました。
入り口上部のステンドグラス。
建物の裏部分は喫茶店になっています。
もちろん、入ってここでお昼ということにしました。
昔のままのステンドグラスが三ケ所残されていました。
金沢で偶然にも懐かしい思い人に出会ったようで、天にも昇る思いでした。
夜にはライトアップもされているようです。
浅野川の東側に加賀藩が1820(文政3)年にお茶屋を集めて町割りしたのがひがし廓、今は「ひがし茶屋街」と呼ばれて、情緒ある町並みになっています。
雪が多いためか、窓が小さい板戸囲いの家が並んでいます。
お茶屋の一つ、「志摩」に入ってみました。
1820(文政3)年に建てられたお茶屋の造りをそのままに残しており、国の重要文化財になっています。
二階が客間になっていて、客、芸妓がともに舞や三弦、謡曲、茶の湯、和歌、俳諧などの高い教養のある遊芸を楽しんだ部屋です。
襖の取っ手は七宝でできている。
釘隠し。
坪庭の灯籠は雪囲いの中でも灯がともせるようになっていました。
ひがし茶屋街の近くにある浅野川大橋は1922(大正11)年に作られたコンクリート製のアーチ橋で国の登録文化財になっています。
金沢では城下町の名残をあちこちで見ることができますが、中でも典型的な所は長町一帯の武家屋敷跡です。
驚いたのは、それが金沢の中心繁華街香林坊のすぐ裏手にあったことです。
ビルの立ち並ぶ香林坊のバス停から歩いて5分もかからないところ一帯が江戸時代に加賀藩の中級藩士達が住んでいた界隈です。土塀や屋敷跡、石畳の道が残る静かなたたずまいのお屋敷街です。
電線も見えないようにして、景観が守られているようです。
家々の土塀には雪除け用のこもが掛けられていました。
こんな上の方まで雪が積もるんだあ、と感心。
どこか上加茂の社家町に様子が似ていました。
武家屋敷跡野村家を見学しました。加賀藩の重臣だった野村家の屋敷跡に昭和初期になって、藩政時代に栄えた北前船主、久保彦兵衛の豪邸を移築したもの。
建物は藩主を招いた上段の間を始めとして金に糸目をつけない豪華な造り。
庭園は、野村家時代のものが残っていて、足立美術館、桂離宮と共に日本三名園の一つに数えられているということでした。
ちょっと?でしたが。
建物の縁の下まで遣り水が入り込んでいて、向こう側の庭に向かって高低差があり、深い落ち込みになって水が滔々と流れこんで。
橋の陰には見事な鯉が何匹かじっとして動かず、庭の静寂を守っているかのようでした。
他にも足軽の人達が住んでいた家も見学しましたが、にわか雨が降ってきたし、日も暮れてきたので、尾山神社の方へ向かいました。
金沢を訪ねたのは12月23日、今年は雪が遅く、予想した冬景色は見られませんでしたが、さすがに雪の多い町ということで、そこここに雪への支度が整っていました。
有名な唐崎の松の雪吊り風景だけでなく、
ナンテンもしっかりまとめられて、
こんな低い木も、
街路樹でも、ほとんどの木が雪吊り状態になっていたので、おもしろかったです。
いつもテレビで見る兼六園の映像だけかと思っていたら、金沢ではほんとにしっかりと雪の準備がされているのでした。
今日の兼六園の画像を見ると、もう少し積もってきているようです。
山代温泉から翌日は金沢へ。
金沢と言うと、定番の兼六園です。総面積11万4千平方メートルもある林泉回遊式庭園、1676(延宝4)年に加賀藩5代藩主が作庭を始め、13代藩主の1830年頃に完成しています。
金沢城の石川門のすぐ前にあります。このお城も最近復元整備されてきれいになってきていました。
霞ケ池と、足のところが琴の弦を支える琴柱に似ていることから「徽軫(ことじ)灯籠」と呼ばれている灯籠。
唐崎の松。琵琶湖畔の唐崎から種を取り寄せて実生で育てた松だそうです。
園内に流れる曲水は、城の防火用水として作った辰巳用水を利用しており、杜若がたくさんあって、咲いた頃には見事だろうと思われます。
桜の木もたくさんありましたが、今咲いているのが二本あり、一つは十月桜、もう一つは冬桜となっていました。
一箇所だけ、特別苔がきれいな所がありました。
その前にある成巽閣(せいそんかく、旧巽御殿)は、前田家13代藩主が母である鷹司隆子(真龍院)のために1863(文久3)年に建てた御殿です。
2階建て、寄棟造り柿葺き。
階下は武者隠しと豪華絢爛な欄間がある「謁見の間」、廊下の障子腰板に描かれた絵によってそれぞれ「亀の間」「松の間」「蝶の間」と呼ばれる部屋部屋。土筆と万年青の絵の廊下縁側に面した土筆の縁庭園と万年青の縁庭園などがある大名家の風格を備えた書院造りです。
二階は数奇屋風書院造りで、天井の材によってそれぞれ「群青の間」「群青書見の間」「網代の間」「越中の間」と呼ばれる部屋があります。中でも、「群青の間」の天井は杉の板の間の目地が群青(ウルトラマリンブルー)の漆喰(?)でできていて驚きの意匠です。和室の天井にこの色!ワンダフル!でした。
檜の一枚板に花鳥を透かし彫りにして、極彩色に彩った謁見の間の欄間の彫刻といい、障子に嵌められた硝子絵といい、金沢の美術、工芸、文化の粋を見る思いがした建物でした。
2月4日(月)までは、「前田家伝来 冬の衣裳と調度展」が行われていて、華麗な刺繍と絞りを駆使した夜着や小袖などの衣装と調度品を見ることができました。
兼六園の入場料300円の他に、成巽閣に入るにはさらに700円かかりましたが、十分に見応えのあるところでした。
館内は撮影禁止だったので、絵葉書を買いました。
冬の北陸路と言えば、当然カニカニ料理が目的。
フルコースで味わってきました。
カニの刺身に茹でガニ。
焼きガニとカニ味噌の甲羅焼き。
少し焼きすぎて、こがしてしまいました。
カニ鍋。
カニの天婦羅とカニの甲羅蒸し。
カニの混ぜご飯。
そして、もも。
ごっそう様でしたあ。
12月22日、クリスマスの連休は北陸方面にお出かけして来ました。
東尋坊は火山岩の柱状節理が波に侵食されてできた越前海岸の絶景ポイントです。
怒涛逆巻く冬の日本海を予想して行ったのに、全くの想定外。
波もなく穏やかな海で、少し寒さはあるものの風もなくて、海岸を登り降りすると、汗ばんでくる程でした。
中央の平らなあたりが「千畳敷」、ちょうど干潮時のようで、そこまで降りて行けました。
水がこんなに澄んでいました。
観光船がぐっと回り込んで来て、
「大池」という狭い断崖絶壁の下まで入って来ていました。
それを真上から覗き込むと高さは25m、スリル満点、目がくらくらっでした。