2011年11月25日~27日、奈良県の榛原・室生寺・長谷寺・今井町に行きました。
今井町でたくさんの住宅を見て歩き、お腹も空いたし、疲れたのでちょっと一休みしたいなと思ってもなかなかお店らしき所が見つかりません。
今井町はまだあまり観光地化されていないので、お食事処とかお茶する所が少ないようです。
やっと、見つけたここでお昼にしました。
お蕎麦と柿の葉寿司セットをいただきました。
また歩き回った後に休憩した和カフェ。
町家の通り土間部分がカフェになっています。
ほっこりしました。
どちらのお店も町家を少し改修しただけで、落ち着けつる休憩所になっていました。
今井町では、他の町のようないかにも観光客向けのお店がないけれど、それがかえってこの町のよさになっています。
このよさをいつまでも残していってほしいものです。
1903(明治36)年、高市郡教育博物館として建設され、昭和4年より今井町役場にも使用されていました。当時、奈良県の社会教育施設としては、奈良市にある重要文化財「旧帝国博物館」に次ぐものでした。
外観を和風でまとめた明治建築の典型的な建物です。(県指定文化財)
今井環濠の南外側にあります。
現在は、今井町の歴史を詳しく、分かりやすく解説する資料を一堂に集めた今井まちなみ交流センター「華甍」として、展示コーナー、映像シアター、図書閲覧室などがあり、今井町の歴史をさまざまな角度から知ることができます。散策前の下調べに、あるいは歩いた後の休憩を兼ねて、気軽に利用できます。
二階の部屋で何かの講演会が開催されていたようです。
休館:月曜日(祝日の場合翌日)
入館無料:午前9時~午後5時まで(最終入館は4時30分まで)
今井町で最も豪壮で古い住宅は、
今西家住宅。重要文化財。
西側から見たところ。
今西家は、惣年寄の筆頭をつとめていた家で、領主、代官の町方支配の一翼を担い、自治権を委ねられていました。
今井町の西端にあり、建物は、1650(慶安3)年に建てられ、外観を白漆喰塗籠(しろしっくいぬりこめ)で、大棟の両端に段違いに小棟を設け、入母屋造りの破風を前後喰違いに見せ、本瓦葺で、堂々とした城郭風の外観になっています。
こちらは北側の入口。
内部は東側に六間の和室と南に別棟の角(つの)座敷、西側に広い土間があります。
あまり広すぎて全体像がなかなか撮れませんでした。
土間からナカノマとダイドコロ、奥に納戸と仏間を見たところ。
惣年寄は司法権、警察権も委ねられていたので、この土間が取調べのお白洲にもなっていました。
ミセノマ。
柱のない広い土間の上方は、大きな梁3本を中心とした豪壮な小屋組となっています。
土間の一角には、犯罪者をこらしめるために閉じ込めて下から燻す部屋もありました。
見学は事前予約が必要となっていましたが、当日訪ねても見せていただけました。
大人400円。
見学時間:午前10時00分~午後5時00分(最終入館 午後4時30分)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合次の平日)・8月16日~8月22日・12月25日~1月6日
財団法人今西家保存会が住宅と古文書、古美術品の保存・管理と公開、研究調査を行なっていますが、今西家の子孫の方達も南側の別棟に住んでいて、布団を干すのは休館日にするなど、生活臭を見せないように気を使っているそうです。
高木家住宅。重要文化財。
幕末期の上層町家。見学は有料。
河合家住宅。重要文化財。
18世紀中頃の二階建町家。
見学は一部有料。
同家は酒造業を営んでおり、今もお酒を販売していました。
今井景観支援センター。
古くは、西隣りの旧米谷家の所有で、安政3年(1856)の上棟銘のある建物です。西側の1列2室部分は今井町並保存整備事務所に使用、東側の1列3室部分は、建設当初の姿に復元し、来訪者に開放しています。土日祝日休館。
旧米谷家住宅。真ん中の家です。重要文化財。
18世紀中頃の農家風建物で、後に内蔵や蔵前座敷を増築しました。
無料で建物内の見学ができ、ボランティアの方が説明してくれています。
月曜休館。
その内部、高い天井の通り庭。
今井町のポスターに載っているおくどさん。
これは蔵前座敷。
音村家住宅。重要文化財。
金物問屋を営んでいた17世紀後半からの住宅。
見学は事前連絡要で有料。
上田家住宅。重要文化財。
惣年寄をつとめていた家。1744年頃の建築とみられます。
見学は事前連絡要で有料。
中橋家住宅。重要文化財。
江戸時代には米屋を営んでいた18世紀後半頃に建てられた家で、つし二階が増築されています。
山尾家住宅。奈良県指定文化財。
江戸時代後期の大規模町家の好例で、広大な敷地を有し、道路に沿って西方より主屋・隠居所・東蔵が並んでいます。
称念寺。
中世末、寺内町として成立した今井町の中核となった寺院です。
本堂は17世紀初期頃に建設された大規模な浄土真宗本堂で、当初の特徴をよく残し重要文化財ですが、訪ねた時は改修中でした。
これは市指定文化財の太鼓楼(市指定文化財)。
長谷寺、室生寺、談山神社とまわった次の日に、橿原市今井町に行きました。
奈良県南部、近鉄大和八木駅から南へ1駅、八木西口駅で降りて、歩いてすぐ。
飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、その一帯が重要伝統的建造物群保存地区になっている今井町です。
戦国時代、一向宗本願寺派の称念寺を中心としてできた寺内町であり、周囲に堀と土居をめぐらした環濠集落でもあります。織田信長に降伏した後は商業都市となり、江戸時代初期には、東西600m、南北310mの町内に戸数1100軒、人口4,000人程を擁して、自治的特権が認められ、「大和の金は今井に七分」といわれたほど繁栄した町です。
そして、現在まで今井町全体で白壁の伝統的な様式の住いが守り続けられていて、この一帯がそっくり江戸時代のままの姿を残している所です。
蘇武橋の下手道路沿いにある蘇武井。
聖徳太子が斑鳩より橘京へ通う時に、水を飲んだとも、黒駒に水を与えた井戸とも伝えられています。
町の周りを取り囲んでいた環濠を復元した辺り。
かつては、町に入るには木橋を渡って入る9箇所の門がありました。
町の中は至るところにこのような白壁土蔵造りの家が建ち並んでいます。
町内の通りは、見通しを悪くして屈折させ、敵の侵入に備えています。
昔ながらの家でも現在も外観はそのままに、家の内部は住みやすく改装して、住民が今でも住み続けているとのことでした。
室生寺に続いて、談山神社へ。
ここからまたコンデジ写真が復活。
というのは、昨晩泊まった宿で、デジカメの電池を充電器につけてコンセントに入れたまま忘れて出てきたのを、室生寺から談山神社に移動する間に、榛原駅で途中下車、宿と駅の間の送迎バスに乗せて駅まで持ってきていただいて、無事受け取ることができたのでした。榛原の保養センター美榛苑様、ありがとうございました。
談山神社までは近鉄桜井駅南口からバスで約25分、降りてから少し山道を登ると見えてきました。
飛鳥時代の身なりをした人が記念撮影に応じていました。
これが、あこがれの十三重塔。
藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等によって678年に建立されました。現存の塔は、1532年の再建で、木造十三重塔としては世界唯一のものです。
重要文化財。
美しい。。。。
本殿は修復工事中、拝殿の中に談山神社の歴史や民俗を表わすいろいろな宝物が展示されていました。
談山神社の名前の由来は、中臣鎌子(後の藤原鎌足)と中大兄皇子(後の天智天皇)が多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行ったというところからきていて、神社の祭神は藤原鎌足。
おお!藤原鎌足というと、この前行った京大阿武山観測所の裏山にある古墳の主と言われていたというあの人ではありませんか。
ここの展示でも、鎌足は山科に埋葬後、阿武山、そして多武峯へと改葬されたと書かれていました。
拝殿の回廊。
おや、こんなところに荷い茶屋が。
こちらの紅葉は遅いながらも所々見頃になっていて、美しい建物と共に秋を堪能することができました。
榛原温泉で1泊した翌日には、近鉄電車で1駅の室生口大野駅からバス約15分で室生寺へ。
あこがれの女人高野、室生寺。
そこで、いざ写真を撮ろうとすると、あれーーー!!!
デジカメの電池が入っていないではあーりませんか!
涙、涙、
それで、室生寺の美しい姿は携帯の写真で。
金堂は平安初期の国宝。
五重塔も平安初期の国宝。
平成10年の台風で周りの大杉が倒れて大きく傷つきましたが、きれいに修復されていました。
11月末、奈良県南部に出かけました。
先ず、長谷寺へ。
近鉄大和八木で乗りかえて長谷寺駅から歩いて約15分。
駅からお寺までの参道両側にはお土産屋さんや旅館が並んで、なつかしい感じの道が続いていました
長谷寺というと、長い登廊(のぼりろう)で有名。
仁王門から本堂まで階段になった登廊が続いています。
登廊の側には牡丹園がありますが、今は花もなく、、、
かと思ったら、少しだけ寒牡丹が咲いていました。
国宝の本堂、大悲閣です。
1650(慶安3)年徳川家光によって寄進建立されました。
本尊の十一面観音は10m以上の大きさに驚く慈悲深いお姿です。
本堂の前面に舞台が広がる構造は清水寺に似た造りです。
舞台からの五重塔の眺め。
晩秋とは言え、去年の紅葉はとても遅くて、青葉もまだまだ残っていましたが、このあたりの眺めは見頃でした。
長谷寺の開基は686年、西国三十三ヶ所第八番札所の観音霊場です。
米原青岸寺からまた車に乗って、梅花藻の里醒ヶ井を過ぎ、東海道線で米原から三つ目の駅、柏原駅の近く(と言っても駅から歩くと30分くらいはあるそう)の徳源院を訪ねました。
近江佐々木氏からわかれた六角氏、京極氏、高島氏、大原氏のうち京極氏だけが江戸時代まで大名家として残ったのは、お初さんの夫、高次さんの功績とか。
このあたりの柏原荘が京極家初代氏信の領地となり、1283年に寺院を建立したのが、始まりです。
本堂と、
右手にある三重の塔(滋賀県指定文化財)。
京極氏の第5代高氏(道誉)(婆娑羅大名と言われた)が植えたと言われる道誉桜。実は、樹齢300年くらいの2代目。
本堂の裏手小高い所に京極家歴代のお墓が二段になってずらりと並んでいます。
下の段は第19代から後の16人のお墓、
上の段は初代から18代までのお墓が祀られています。
お墓の大きさは京極家の栄枯盛衰を反映していて、高次さんの前の代が最も小さく、存亡の危機にあったことがわかります。
いずれも宝篋印塔で、鎌倉時代から江戸後期のものまで一堂に会していて、それぞれの時代の特徴が現れているので、貴重なのだそうです。
(国指定史跡)
下の段で、一つだけ特別に石廟で覆われているのは中興の祖とされる高次さんのお墓。
京極家は小浜から松江、竜野と転々と移封されたけれど、最後に讃岐の丸亀で存続し、この菩提寺も代々守ってきました。
庭園は江戸初期の池泉回遊式庭園で、清滝山の斜面を利用して紅葉が見事だということですが、この時はまだ少ししか色づいていませんでした。
実は、この日の主目的は「紅葉コンサート フルート・打楽器の夕べ」。
境内を散策したり、お茶室でお茶をいただいた後、午後5時30分から客殿で演奏をききました。
フルートは井伊亮子さん、打楽器は中路友恵さんと久保菜々恵さん。
井伊さんのフルートはもう7回目だそうです。
大きな打楽器はマリンバ、木琴のようなものですが、音がとても柔らかです。
その頃、お庭もライトアップされて、幻想的な雰囲気が盛り上がります。
三重の塔も一段と美しく見えました。
夜が更けるにつれて冷え込んできましたが、気持ちいい音楽の余韻に浸りながら、車で京都まで帰ってきました。
青岸寺の門前、駐車場のすぐ前にすてきな建物があるのを発見。
とてもなつかしい感じのする木造校舎です。
窓枠がアルミサッシなのが残念だけど。
後で調べたら旧米原尋常高等小学校だとわかりました。
11月12日、滋賀県米原までドライブしました。
JR米原駅のすぐ近くにある曹洞宗青岸寺。
元は室町時代佐々木道誉によって建てられた米泉寺でしたが、その後焼失、本尊聖観音像のみ残っていたのを、江戸時代初期に彦根大雲寺の末寺として再興され、伊井家からも援助を得て曹洞宗の寺院として立て直されたものです。
門をくぐると、
一面のイワヒバが青々として広がっています。
これは自生したもので、このお寺は別名、「岩桧葉の寺」とも言われています。
本堂裏の築山林泉式枯山水庭園。国の名勝に指定されています。
現在の形は1678(延宝6)年に彦根城玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したものです。
庭園の特徴は、石組が多く、中央高みに三尊石と枯れ滝組が表わされ、池の部分は枯山水ではあるが、石ではなく、一面の苔でなっています。
この苔は夏でも水は撒かなくても青々としていて、梅雨時、台風の大雨の時などには自然に澄んだ水が湧き出てきて、池になった水を通して苔の緑が見えるのもまた一段と美しいそうです。
そんな時に是非また行ってみたいものです。
回廊を伝って一段高い所に建つ書院にも上がることができ、そこからも庭園を見渡すことができます。
この書院は明治37年、永平寺の森田悟由禅師によって、地方寺院の行脚から永平寺に帰る際に休憩する場として建てられたものです。
書院から本堂を眺めたところ。
あの本堂のお座敷でこの美しい庭園を眺めながら、精進料理をいただきました。
お料理は前日までに予約しておくといただくことができます。
ということは、このお料理はお寺の奥さんとお嬢さんが2日がかりで作ってくださった手の込んだお料理ということで、この美しいお庭を眺めながら、とってもおいしいありがたーいお食事をいただくことができました。
上部には仏像、下部はキリシタンの十字形をしている寄せ灯篭。
ツワブキの花がきれいでした。
ここの庭園では例年紅葉は遅いほうだそうですが、今年は特に遅くてまだまだ青い葉が大部分でした。
この庭園の手入れは、滋賀県の財政援助が得られなくなってから、京都造形芸術大学の学生さんにボランティアで手入れしてもらっていますが、松の木の雪吊りだけはプロの造園師さんにも来てもらって作業しているそうです。
拝観料300円、拝観時間9:00~17:00(毎週火曜日定休日)
精進料理は拝観料込みで2,500円(予約電話番号 0749-52-0463)
お食事の時間10:00~17:00
お抹茶、珈琲、甘味などもあるようです。
JR米原駅東口から徒歩5分と、電車ででもアクセスしやすいので、滋賀県観光の穴場だと思います。