高千穂神社に続いて訪ねたのは、いよいよ今回の旅のハイライト、高千穂峡です。
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷で、高さ80m~100mにも達する断崖が7kmにわたって続いています。
約12万年前と約9万年前の2回の阿蘇火山活動で噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下り、この火砕流堆積物が冷却して固まった熔結凝灰岩となり、柱状節理が生じました。熔結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡です。
国の名勝、天然記念物、祖母傾国定公園に指定されています。
高千穂峡は深い谷の底にあるので、見上げると一番高い所に大きな自動車道が通る「神都高千穂大橋」、その下に「高千穂大橋」、一番下に「神橋」が重なって見えます。
神都高千穂大橋は平成13年竣工のコンクリート橋、高千穂大橋は昭和30年竣工の鉄橋、神橋は大正時代は木橋でしたが、水害で流され昭和22年に石橋となりました。
神橋のたもとでバスを降りて、急な階段を降りて遊歩道を歩いて行きました。
神橋から下を見たところ。はるか下に五ヶ瀬川の渓谷が見えます。
橋から少しの所にある「神硯(みすずり)の岩」。
硯のような平たい石なので、高山彦九郎が名づけたと言います。
甌穴。
河床の岩盤の窪みや割れ目のところに渦巻を生じ、そのエネルギーによって穴ができ、さらにその穴に入った小石が渦巻によって岩盤を削るために深い円筒形の穴ができたものです。
「槍飛」。
五ヶ瀬川の中で最も川幅が狭い所で、1591(天正19)年に今の延岡の領主に高千穂が攻められた際、三田井城が落ちた時に、城を脱出した家来達がここまで逃げてきたが橋がないので、槍の柄を手前の岸についた者は渡り、向こう岸についた者は川の中に転落したと伝えられ、ここを槍飛というようになったということです。
この辺りは川幅が狭いので、大雨の時には川が溢れそうになり、通行止になることもあるそうです。
下の方まで降りて来ると、川の向う側が高い壁になっています。
高さ約70mの切り立った柱状節理が屏風のように見える「仙人の屏風岩」です。
阿蘇山の噴火活動で流れ出した 溶岩が数万年かけて侵食されて生まれた柱状節理がたくさん見られます。
「鬼八(きはち)の力石」。
重量約200トン。高千穂神社の祭神、三毛入野命(みけいりのみこと)が高千穂郷一帯で悪行を働いていた鬼八を退治し、この地を治めたということですが、この時鬼八が三毛入野命に向かって投げ力自慢をした石と言われています。
「七ツヶ池」。
七つの穴が連続した池になっている甌穴群だと思われます。
いよいよ真名井の滝(まないのたき)が見えて来ました。
高千穂峡の川幅が狭まった部分に流れ落ちる滝で、日本の滝百選の一つです。
この神秘の景色はまさに絶景です。
でもボートをうまく操縦しないと滝に打たれることになるとか。
ボートの周りに群がるカルガモ?
ボートは30分2000円で混雑時には乗るのに大分長く待たねばならないようです。
真名井の滝の上の平地にある「おのころ池」とその上の崖に見える「月形・日形」。
素戔嗚尊は、天岩戸開き神話の後、高天原を追放される時に詫びの印として天照大神を表す「日形」と、その半分の存在もない「月形」で自分を表現したと言われています。江戸末期の記録には「月形・日形」の絵図も残されていますが、現在「日形」は崩壊し「月形」のみが上部に見えます。
遊歩道をたどって高千穂峡を楽しんだ後、下流の御橋袂にある食堂で昼食を食べました。
蒟蒻、椎茸、固豆腐等、宮崎県の産物を取り入れた素朴な味のお昼でした。
昼食の後、お土産を買ったり、休憩したあと、13:35に高千穂峡を出発しました。帰りは行きにたどって来た道を引き返すと急な登りになって大変そうですが、ツアーだったおかげで、食堂のマイクロバスで最初に降りた神橋の袂まで車道を回り道して送ってもらい、そこからまた観光バスに乗りました。