ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

都をどりを鑑賞

2014-04-21 22:05:05 | ぶらり都めぐり
4月1日~30日、祇園甲部歌舞練場で行われていた「都をどり」を見に行きました。



先ず、入場するまでお庭を散策などして待ち、




芸妓さんのたてるお茶をいただきました。



お皿はもらって帰ることができます。




「ヨーイヤサー」の掛け声で始まる1時間8景の踊りは絢爛豪華、あでやかで、ただただ夢のような時間でした。
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2014年4月韓国旅行 もくじ

2014-04-15 22:52:51 | 遠出(海外)
2014年4月12日~14日、韓国ソウルに行きました。









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2014年韓国旅行(9)韓国で食べたもの

2014-04-15 01:19:16 | 遠出(海外)
韓国旅行記の最後は、旅行中に食べたものをまとめてみました。


1日目の夕食、蟹の醤油漬け(カンジャンケジャン)。
真ん中の四角いお皿に乗っているのが、生のカニで、いろいろな薬味をつけて食べます。




2日目の朝食、アワビのお粥。




2日目の昼食、本水原カルビ(ポンスウォンカルビ)で焼き肉。



お店の人が炭火で焼いてくれるので、野菜にくるんだり、キムチをつけたりして食べます。



肉のかたまりがおっきい~!焼けたらお店の人が大きなはさみで切ってくれます。
野菜は次から次へと追加で盛り付けてくれます。




2日目の夕食を食べたお店。三清洞近くの昔の韓屋を改装した家です。



お店の内部。



韓定食とはいうものの、宮廷料理風ではなく、京都で言えばおばんざいのような感じでした。



韓国料理と言えば、やはりピリ辛ものが多くて、ピリ辛苦手なビバさんには食べて満足というものがちょっと少なかったです。

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2014年韓国旅行(8)仁寺洞その他

2014-04-15 01:18:22 | 遠出(海外)
景福宮から歩いて15分程の仁寺洞(インサドン)に行きました。



仁寺洞の町並み。
この一帯は朝鮮時代から画家が集まって暮し、朝鮮美術の中心になった地区で、現在は石畳の通りの周辺に骨董店や古美術品、お土産品を売るお店がたくさん集まっています。



仁寺洞ギルにあったソフトクリーム屋さん。
黄色い紐のようなものが垂れ下がっているのれんは



このソフトクリームの形を模しています。
両側から二人で食べられるので、行列ができるお店になっていました。



仁寺洞で買った自分へのおみやげ。




仁寺洞の他に見たものは、

崇礼門(スンネムン)(通称南大門)。
李成桂が1395年に都の城門として建設に着手し、1398年に完成、長い間都の正門としての役割を果たしてきました。1934年、朝鮮総督府が朝鮮の主要文化財を保護する目的で宝物第1号に指定しました。ソウルで最古の木造建築でしたが、2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失し、2013年5月に再建されました。
本来南大門の両側には城壁が連なっていましたが、1907年実質的な韓国支配者となっていた日本によって取り払われ、現在門は大きな通りの交差点の中央に取り残された形になっていて、周りは自動車の洪水になっています。


近くにある南大門市場(ナンデムンシジャン)にも行きましたが、狭い通りに屋台がいっぱい出ていて、客引きの声が飛び交い、あまりにごちゃごちゃで写真を撮るのも忘れてしまいました。




南大門から地下鉄一駅の所にソウル駅があります。新しい駅の隣に旧ソウル駅があります。




旧ソウル駅舎は、東京帝国大学教授の塚本靖によって設計され、1925年に建設されました。以降ソウルの玄関として重要な役割を果たしていましたが、2004年の高速鉄道KTX開通に伴う新駅舎の建設によって約80年間の歴史に幕を閉じました。しばらくそのままにされていましたが、2011年に復元工事を終え、複合文化施設として使われています。




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2014年韓国旅行(7)景福宮

2014-04-15 01:10:23 | 遠出(海外)
3日目の自由行動でも宮殿遺跡を見に行きました。
今度は景福宮(キョンボックン)です。

朝鮮王朝の開祖李成桂が1392年の建国と共に建てた最初の宮殿であり、1395年から約200年間李氏朝鮮の正宮として使用されました。1553年に大火によって焼失し、1592年の文禄の役で再び焼失しました。その後は離宮の昌徳宮が正宮に使用され、景福宮は約270年の間再建されませんでした。朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父・興宣大院君が再建し、1868年から1897年まで正宮となりました。1910年、日本の植民地化により朝鮮総督府の庁舎が景福宮敷地に完成し、李氏朝鮮以来の建物の多くが破却されました。
1990年から復元事業が行われており、2030年までに379棟を復元して1865年には再建当時の75%の水準を回復する予定です。


景福宮の南正門、光化門(クヮンファムン)。
1395年に初めて建設されたのち、何度か焼失、再建、植民地期には朝鮮総督府がこの門の取り壊しを検討しましたが、柳宗悦らの働きかけで保存されることになりました。1968年に鉄筋コンクリート造で外観復元されましたが、朝鮮総督府庁舎があったため正確な位置ではなく、2010年に正確な位置に復元され、一般公開されました。

門の前の広場で王宮守門将兵の交代儀式が行われていて、大勢の見物人で賑わっていました。




光化門の次に興礼門(フンレムン)があり、その次にある勤政門(クンジョンムン)。
向こうに北岳山(プガクサン) が見え、手前にあるのは永済橋。

植民地期から1996年まではこの前に巨大な朝鮮総督府の庁舎があり、景福宮は隠されて見えなくなっていたので、朝鮮の人達にとっては抑圧の象徴のように感じられたことでしょう。



勤政門を宮殿側から見たところ。
向こうにソウルの近代的ビル街が見えます。




勤政門の奥に景福宮の正殿、勤政殿(クンジョンジョン)があります。韓国で最大の木造建築。
国家の大きな儀式を挙行したり、外国からの使臣を接待する重要な場所でした。
手前にある広い中庭には薄石が敷いてあり、中央御道の左右に据えられた石で身分によって立つ位置が示されいています。






勤政殿の内部。壁や天井は鮮やかに彩られていて、日月五岳図を背負う玉座があります。




勤政殿の西方に池に、面して慶会楼(キョンフェル)があります。
王が主催する宴会や国家試験が行われた場所です。48本の石の柱に支えられた2階建ての建物が池に映って、とても優雅です。




勤政殿の北側に王が日常執務したり、会議を行うなどした思政殿(サジョンジョン)があり、その北側に、

王の寝室、康寧殿(カンニョンジョン)があり、



その北側に王妃の居室、交泰殿(キョテジョン)があります。







交泰殿の裏に人工庭園、峨眉山後苑があります。
たくさんの観光客がこの前でポーズをとって写真撮影しているので、人の写っていない絵を撮るのに苦労しました。




宮殿の食糧を保存している様子が復元されていました。




威和堂。
1894(明治27)年7月23日、日本軍が王宮に侵入し、威和堂に在室した朝鮮王朝26代の王、高宗皇帝を発見、クーデターを行った場所で、1924年には柳宗悦が朝鮮総督府の許可を得て、収集した朝鮮民俗美術品を展示し、「朝鮮民族美術館」を開いたところです。
朝鮮総督府による破壊を免れた遺構です。




長安堂(チャンアンダン) 。
1873年、景福宮の最奥部(北端)に高宗が新しく造った乾清宮(コンチョングン)のうち、高宗皇帝が暮らした建物です。他の宮殿建築とは違って、両班(ヤンバン:朝鮮時代の貴族)家屋のように質素に造られています。
乾清宮は日本植民地時代1915年に破壊されましたが、2007年に復元されました。



香遠亭(ヒャンウォンジョン)。長安堂の南側にあります。
高宗が乾清宮とともに造った香遠池に浮かぶ建物で、韓国で初めて電灯がともされた場所です。

1895年10月8日明成皇后(閔妃)は乾清宮で日本からの刺客によって暗殺され焼かれて、この池に捨てられたと言われています。
美しい情景の中にそのような日本の恥ずべき歴史が隠されていたとは、後で知って暗澹とした気持になりました。



長安堂の西側にある八隅亭(パルジョン)(左)と集玉斎(チボッジェ)(右)。さらに右側に協吉堂(ヒョッキルダン)があり、三つの建物が渡り廊下でつながっています。
高宗が書斎としてつくり、接客にも使われました。




景福宮の敷地の東北部に「国立民俗博物館」が建てられています。
1945年に「国立民族博物館」としてオープン、韓国の民俗伝統や生活文化の調査・研究・収集を行ない、展示やレポート、講演会といった様々なスタイルで紹介しています。子供達にもわかりやすく韓国の歴史・民俗を伝えられるように様々に工夫された展示がされていました。





国立民俗博物館を見学して景福宮の旅を終え東側の通りに出ると、そこは三清洞(サンチョンドン)ギル。西側は景福宮の城壁、東側にはおしゃれなブティックやギャラリーが並ぶ通りです。
お釈迦様の誕生日に近い時期なので、通り沿いに色とりどりの提灯が掛けられ、町が華やかになっています。




景福宮の東門、建春門。



三清洞ギルを南に下がって行くと、景福宮の東南角の外側、道路交差点のまん中に変わった建物があります。
東十字閣(トンシッチャガッ)。1867年に建設された景福宮の望楼だったものですが、日本の植民地時代に道路拡張により周りの塀などが撤去され、この建物だけが残りました。
壁面には朝鮮戦争の時の弾痕が残っています。かつては西十字閣もありましたが、今は現存していません。



景福宮は昌徳宮と違って、途中で何度も建て替えられているので、世界遺産には登録されていませんが、規模は大きく、壮麗な宮殿建築と庭園の面影を今に伝えていて、ソウル観光の人気スポットです。韓国時代劇のロケも行われています。



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2014年韓国旅行(6)華城行宮

2014-04-15 01:09:24 | 遠出(海外)
華城行宮(ファソンあんぐう)は水原華城内の西南側山寄りにある宮域で、1789(正祖13)年に建築が始まり、華城建設に伴って拡張して完成されました。
正祖が父の墓地、顕隆園へ参拝するための行幸の際の臨時宿泊所であり、普段は府使(後に留守)が執務する府衙としても活用していました。正祖は正祖13年10月に顕隆園を移してから正祖24年1月まで、12年間13回にわたって墓参を定期的に行いました。
この行宮は、建築物の規模だけでなく、城郭とともに政治的・軍事的面で大きな意味があり、朝鮮王朝時代に造られた数多くの行宮の中でも代表的なものでした。
日本の占領時代に建物のほとんどが壊されましたが、1996年に復元事業を始めて今も復元作業が続けられています。

華城行宮では「宮廷女官 チャングムの誓い」、「イ・サン」、「根の深い木」、「太陽を抱く月」、「屋根部屋のプリンス」、「王の男」など、ドラマや映画のロケがたくさん行われました。



華城行宮の正門である新豊楼。
門の前で毎日武芸の実演と日曜日に守衛の儀式が再現されています。



新豊楼の奥に左翊門、さらに奥に中陽門があります。



その奥正面に華城行宮の正殿である奉寿堂があります。
正祖はここで母親の惠慶宮洪氏の還暦の宴を開きました。



正面に玉座。



左側の部屋では、正祖と王妃が母親に挨拶する様子が人形で再現されています。



正祖の部屋。







宴の時や祭祀の時にお菓子や食事が盛り上げて供えられる様子が再現されていました。



福内堂。
普段は華城の外官職の家族が住んでいた所です。



「チャングムの誓い」で水刺間(スラッカン。宮廷の厨房)の場面が撮影された所です。




「チャングムの誓い」の衣装の数々。



米びつ。
正祖の父親、思悼世子(サドセジャ)が父である英祖の怒りを買い、閉じ込められて飢え死にした米びつもこんな形だったのかな。



週末は陶芸、ビーズ工芸、紙漉き、うちわ造り、餅つき、甲冑体験など、伝統文化を体験することができ、たくさんの子供や観光客が訪れて賑わっていました。



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2014年韓国旅行(5)水原華城

2014-04-15 01:06:32 | 遠出(海外)
MBCドラミアを見て移動、昼食を食べた後、京畿道(キョンギド)水原(スウォン)市にある水原華城(スウォンファソン)へ。

18世紀末に李氏朝鮮第22代国王・正祖が老論派の陰謀により非業の死を遂げた父(思悼世子)の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移し、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めました。中国から西洋築城技術を輸入し、東洋と西洋の技術を融合させて、1794年から1796年まで2年を越える月日と37万人の労力が投入されて華城が完成しました。華城は実学を重視した正祖の理想都市であり、党派政治を根絶しつつ強力な王道政治の実現のための政治的な抱負が盛り込まれたところです。華城への遷都も考えていたようですが、完成直後に正祖が死亡したため、遷都は見送られました。

城郭の築造に石材とレンガ、挙重機(コジュンギ)が始めて使われ、平山城の形態であり、軍事的防御機能と商業的機能を兼ね合わせています。
日本占領時と朝鮮戦争を経て一部が破損・損失しましたが、1975~1979年にほとんど築城当時の姿に補修・復元され、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。


城壁の長さは5.7km、城郭の高さが4~6m、面積は130haに至る巨大な城郭で、現在残っている部分の内部にも大きな自動車道が通っていたり、一般の住宅や商業地域が含まれている広大なものです。




東門として1795年に建立された蒼龍門。東のシンボルは青龍なので、青い旗が立っていました。
ここから城壁の上を歩いて東→北東へとまわりました。



城壁には鉄砲や矢を射る狭間がたくさん開けられています。



大型弓を射るための施設、東北弩台。
大型弓は当時開発された多連発弓で、火薬を設置して射ていました。東北弩台は東北側に出っ張った城壁の上にあり、レンガを積み上げて造られています。



カトリック水原聖地が遠くに見えましたが、これも華城の内部にあります。




東将台、練武台(ヨンムデ)。前に広場があり、兵士たちが武芸の練習を行なった場所です。
その前の広場では伝統的な弓を射る体験ができるようになっていて、大勢の人が参加していました。







長い城壁の上を歩いていくのはいいウォーキングになりましたが、暑い日だったので、こたえました。




東北舗樓(角巾台)。舗樓とは城壁の凸部の雉城の上に建てた見張り台のことを言い、城の中で移動する味方の動向を敵にしられないよう設置された施設で、見張り台や兵士の休憩所として使いました。









北暗門。
暗門とは大門と大門の間に位置している小さな間の門であり、奥深く入った所に造ることによって、敵に知られずに、人、家畜、車、食糧、武器などの軍需物資を城内に供給する重要な役割がありました。



東北角楼。訪花随柳亭とも言い、周辺を監視したり、休憩ができるように造られていました。
戦闘の機能よりは宴会の空間として活用されていました。
高い所にあって、開かれた造りなので、風が吹き抜けて気持のいい場所でした。



眼下に滝淵という池のある庭園も見下ろせて、正祖もここで休憩したかと思うと感激でした。



華虹門。
水原華城を横切って流れる水原川の北側に建てられた水門で、門の上には楼閣があり、民が休むことが出来るようになっています。また、楼閣の左右には大砲が設置出来る施設があり、華城を保護していました。




随分たくさん歩きましたが、まだ城壁の一部を歩いただけで、ここからまだまだ向こうに見える長安門(北門)、それから華西門(西門)、八達門(南門)と続いているのですが、とても全部は見切れず、華城の城郭見学はここで終わりになりました。



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2014年韓国旅行(4)MBCドラミアで大変身

2014-04-15 01:05:43 | 遠出(海外)
二日目は、ソウルから少し郊外に出かけて、車で約1時間40分の移動。
いよいよ今回ツアーのメインイベント、龍仁(ヨンイン)市にあるMBCドラミア訪問です。


ソウルの南40キロにある撮影所で、約43万坪という広大な敷地に韓流時代劇のセットが作られ、セットをそのまま観光で見られるようになっているところです。
東映時代劇村のようですが、あそこほどテーマパーク化していなくて、撮影セットがそのまま広い敷地に展開しており、しかもセットの基壇や骨組み、家具、丹青、瓦など、全て本物の建築材を用いると共に、当時の建築方法で造られているので、韓国の三国時代や高麗時代、朝鮮時代にタイムスリップしたような感じです。
運がよければ、本物の撮影にも出会うことができるそうです。



入口近くにある大きな看板の前で記念撮影ができます。

わーーい!大興奮してしまいました。



「宮廷女官チャングムの誓い」「イサン」「トンイ」「善徳女王」「太王四神記」「チュモン」等々、ここではたくさんの韓流時代劇が撮影されています。

おおっ!イ・ジュンギちゃん主演の「アラン使徒伝」もあるじゃないですか!

現在某局で放映されている「奇皇后」もここで撮影されたそう。




斜面に沿って登っていくと、次々と建物が現われてきます。




この建物は、




水刺間(スラッカン)。「チャングム」の宮廷の台所の場面で使われた所です




有力豪族の館(?)。




貧しい民の家。




山の民の村を表す一帯。
桜がきれいに咲いていました。




裁きを行う庭。武器や拷問道具が置いてありました。




罪人を入れておく牢屋。
ドラマで度々出てくる所ですね。



高台の高楼から都の風景を眺めたところ。




お寺。




お店の並ぶ賑やかな通り。





城門。





昨日見た昌徳宮の正殿とそっくりです。




玉座。
実際に座ってみることもできます。

天井や柱、壁などの豪華な様子が全て見事に再現されています。



王妃の住まい。




「トンイ」のチャンヒビンが粛宗から賜った毒薬を飲んだ庭。
その他いろんな場面に使われるので、この丸い門は見覚えがあります。



東宮殿の庭。
イサンがよくいたところです。



今また「イサン」の再放送を見ていると、「あ、ここあったわ。ここも、あそこも、見たわー。」と、思い出してまた興奮してしまいます。
残念ながら、時間が足りなくて一部分だけ駆け足でしか見ることができませんでした。
もう一度また行ってじっくり見てみたいものです。



最後にチマチョゴリを着る体験をしました。
ドラマの人物が着ていた服は約2000円、一般のは1500円で着ることができ、自分の服の上からはおるだけで簡単にドラマの主人公に変身できます。



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2014年韓国旅行(3)ソウルの夜の大ハプニング

2014-04-15 01:04:11 | 遠出(海外)
夜のスケジュールは最初ソウルタワーとなっていましたが、混雑が予想されて待ち時間も長いからどこか別の所に変えてもいいですよと現地ガイドさん。それで、「どこかソウルの夜景がきれいな他の所」に連れて行ってもらうことになりました。

ツアー旅行とは言え、少人数だったせいか、融通の効く行程でした。



車で30分程北岳スカイウェイを走り、着いたところは北岳山というソウルの北側に聳える山の上です。

展望レストラン、北岳八角亭です。海抜342m。
ここからはソウル市街とまわりの尾根をとり巻いて張り巡らされた城壁(万里の長城みたいな城壁が続いているらしいです)を眺めることができるそうですが、夜だったので、それは見ることができませんでした。


ソウルの町の夜景を眺めて、さあ帰ろう、とした時、何と自動車のエンジンがかからないというのです。おばさん5人とガイドさん(は痩せていた)を載せて、急な坂道を登ってきた、かなり古そうだったワゴン車は、ここでついにダウンしてしまったようです。

代わりにタクシーを呼ぼうとしても、ここまで登って来てくれる車がないとか、誰かを載せてきたタクシーの帰りをつかまえようとしても、この時間に載って来る人が誰もいない、山の上は夜はやはり寒いもので、麓まで歩いて降りなければならないか、それともこの山の上で一夜を過ごすのかと、ぞっとしてしまいました。
とにかく八角亭の中のカフェに入って休んでいてということで、待っていると、ワゴン車の運転手さんが自力で車を直してくれたそうで、やっと下界に帰ってくることができました。

やれやれ、とんだハプニングでした。


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2014年韓国旅行(2)三清洞と北村韓屋村を散策

2014-04-15 01:03:22 | 遠出(海外)
昌徳宮見学の後、宮殿の近くの昔の面影を残す町、三清洞(サムチョンドン)と北村韓屋村(プクチョンハノクマウル)周辺を散策しました。


三清洞は約3kmの通りにおしゃれなショップやギャラリー、伝統的な家屋を改装したカフェやレストランが立ち並び、若者向けのナウい街になっていました。
若いカップルや観光客が大勢歩いていて、とても賑やかな通りでした。


その中の狭い露地を入った所にある伝統的な韓国の民家を改装したカフェに入りました。



ここから靴を脱いで板の間に上がります。







中庭にはキムチを漬けた甕が並んでいました。




メニューに書かれているのは様々な伝統茶で、10ウォン=約1円の換算だったので、1杯600円のお茶が多かったです。

韓国の伝統茶はフルーツや漢方薬を使って作る飲み物で、のどに良い、風邪に効く、疲労回復に良いなど、健康志向で飲まれることが多いものです。

お茶と一緒に食べるのはふわっとした揚げ菓子の伝統菓子です。



私が飲んだオミジャ(五味子)茶。チョウセンゴミシの実を煎じたもので、鮮やかな赤色、甘味と酸味がありました。




他の人が飲んだナツメ茶。
他に柚子茶、生姜茶、かりん茶等がありました。




次に行った北村韓屋村は、昌徳宮と景福宮の二つの宮域の間に位置するエリアで、朝鮮王朝時代の貴族階級両班(ヤンバン)が暮らしていた伝統家屋が今も900軒余り建ち並んでいます。これらの家には現在も住民の方が住んでおられます。












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2014年韓国旅行(1)昌徳宮

2014-04-15 01:02:14 | 遠出(海外)
4月中旬に韓国ソウルに行きました。

海外旅行は昔連れて行ってもらった経験を除くとほとんど初めての体験です。


関西空港から仁川(インチョン)空港まで約1時間50分です。




仁川空港からソウル市中心部まで高速道路で約1時間、道路に沿って桜がたくさん咲いていました。日本の桜とあまり変わりませんが、少し白っぽいということです。松の木もあり、レンギョウやツツジも咲いていてきれいでした。
ソウルは空港より少し南にあるので、桜は既に終わりかけていましたが、ツツジ等とりどりの花が一斉に開いて春真っ盛りといった時期でした。


先ず、昌徳宮(チャンドックン)へ。

昌徳宮は1405年に、李氏朝鮮王朝の正宮である景福宮(キョンボックン)の離宮として建てられた宮殿です。文禄・慶長の役ですべての宮殿が焼失しましたが、1615年に第15代王・光海君が再建し、景福宮が再建される19世紀末までの約270年間、正宮としての役目を果たしました。
景福宮の再建後は再び離宮として使用され、1907年に純宗が大韓帝国の皇帝に即位すると宮殿として使用され、1910年の日韓併合後も李王となった純宗の住まいとなり、その後朝鮮総督府により改築されています。

ほかの多くの王宮が戦争や火災、あるいは植民地時代の日本の支配によって本来の姿を多く失っているのに対し、昌徳宮は保存状態がよく朝鮮時代の趣や生活様式を色濃く残し、世界遺産に登録されています。


昌徳宮の正門、敦化門(トンファムン)は1412年に初めて建てられ、1609年に再建、現存している宮殿の正門としては最古のものです。




宮殿の建物の屋根の上に必ずあるこの飾りは西遊記の猿等が並んでいて、魔除けのためにつけられているものです。
王のいる格の高い建物に近づくにつれて、その数が多くなります。



門の天井。
王宮の建物のほとんどが緑を基調とした上に様々な色を重ねた韓国独特の色彩感覚で塗られています。



仁政門(インジョンムン)を入ると、



広い前庭のある仁政殿(インジョンジョン)があります。国の重要儀式が執り行われた正殿です。



並んで立っている石は、一品から九品までそれぞれ正副の位階順に臣下が並ぶ位置を示すものです。



庇の装飾もきれいに塗られています。



仁政殿の玉座。
後ろの屏風には王権の象徴である太陽と月が描かれています。



宣政門(ソンジョンムン)を入ると、



王が執務をしていた宣政殿(ソンジョンジョン)があり、王と臣下が議論をしたり、儒生の試験会場や宴会の場となるなど公式の執務の場でした。
その中の玉座。この後ろも太陽と月の絵です。

宣政殿の裏には王の日常生活の場、熙政堂があります。王が公務から解放されてくつろぐ場所で、床はオンドル(床下に暖めた煙りを通して部屋を暖めるしくみ)で暖められています。



オンドルのある建物にはこのような煙出しの煙突がつけられています。



王の建物の裏側に大造殿(テジョジョン)、王妃の生活空間である建物があります。王と王妃の寝殿で、王とその家族が生活した中宮殿でもあります。
1917年、火災に遭い1920年に景福宮の交泰殿を移して建てられました。ここで最後の王である純宗が崩御しました。



王妃の座。



王妃の寝台。どちらも螺鈿で飾られています。



楽善斎(ナクソンジェ)。1847年に建てられ、王の死後、王の側室や女官などが残りの人生を送っていたといいます。日本の梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠の妃となった李方子(まさこ)が晩年を過ごした場所でもあります。



宮殿の北には秘苑と呼ばれる王朝庭園が広がっており、多くのあずまやや人工池などがあるそうですが、今回のツアーでは行くことができませんでした。

代わりにここだけ見て我慢することに。



ツツジが花盛りでした。



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霊鑑寺の椿

2014-04-10 00:04:01 | 椿
平岡八幡宮に続いて、これも椿で有名な霊鑑寺を訪ねました。



バス停錦林車庫から東へ、坂を登っていくと「哲学の道」と交差して、その道は4月上旬の今や桜の真っ盛り、大勢の観光客で賑わっていました。


その道から一筋東に入るとやや人影も少なくなり、尼門跡寺院霊鑑寺が静かに佇んでいます。
4月1日~13日に椿の咲く時期にあわせて春の特別公開が行われていました。

お寺の門をくぐると、庭内で咲いている様々な椿の花がお出迎え。



庭園は江戸時代中期様式で、東山連峰に続く山の斜面を利用した池泉回遊式庭園となっています。


中央に般若寺型石燈籠が立っています。


庭園内に60種もの椿がありますが、名札のついているものとないものがあり、名前のわかったものだけ書きとどめておきます。名前が間違っていたらお許しを。

後水尾天皇遺愛と言われる日光(じっこう)。樹齢400年以上という京都市指定天然記念物の木です。




おそらく椿。
小堀遠州が「おそらくこれほど見事な椿はあるまい」と言ったことからついた名前だそうです。



菱唐糸(ひしからいと)。ピンクで蕊が唐子気味になっています。




大紅(だいこう)。赤白混交の大輪です。




羽衣。



ホワイトナン。



白牡丹(はくぼたん)。




衣笠。




秋の山。




ローゼフローラの小さな花がたくさん散っていました。




肥後椿。




孔雀。



月光(がっこう)。



五色八重散椿。




花びらがたくさん散っていました。




崑崙黒(コンロンコク)。




玄関前の散椿の大木。




他にも黒椿など多数の種類があり、庭園だけでなく、本堂、書院の中も公開されていて、狩野永徳や元信、円山応挙の襖絵、御所人形などの宝物も拝見することができました。
コメント (2)
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平岡八幡宮の椿

2014-04-08 22:27:27 | 椿
府立植物園の椿展でいつも椿の名所として紹介されている「平岡八幡宮」に椿を見に行きました。


3月7日~5月18日春の特別拝観で公開されていて、拝観料800円で宮司さんが案内してくれて、大福茶がいただけます。


右京区梅ヶ畑にあり、京都駅からJRバスで約40分、「平岡八幡宮前」で下車してすぐです。西大路からだと「わら天神」、「立命館大学前」を経由して、意外に早く行くことができました。
四条大宮から1時間に1本、市バスも出ています。





参道の両脇から桜と椿の競演でした。
2・3日前は雪が舞う寒い日だったそうですが、4月8日はとても暖かい日差しで、花々が一斉に咲きだしていました。



拝殿の奥に左右に紅白の梅があり、歌舞伎の「靫猿(うつぼざる)」の舞台背景となっている所です。



神殿です。




庇上には琴弾き弁財天の木造が彫られています。



神殿内部の格天井には44枚の花の絵が描かれています。1827(文政10)年に描かれたものです。



御神木のシイの大木。

モリアオガエルが産卵する池や源為朝が射抜いたという石もありました。



平岡八幡藪椿。
室町時代にすでにあったという、樹齢300年とも500年ともいわれる大木です。



濃い赤色の花弁が三角形に開き始め、しべの根本が赤味を帯びているのが特徴です。



社務所の庭に伝説の白玉椿の木があります。
願い事をすると、白玉椿が一夜で花開き、願いが成就したという伝説があるそうです。



ややしだれた枝にたくさんの花が咲いていました。






他にも境内にはたくさんの種類の椿がありましたが、やや終りかけのものが多かったです。






月光。



















葉の先が金魚のしっぽの形をした椿もありました。





境内の椿の数々。




宮司さんが挿し木をして椿の苗を増やしていて、今年は出来が悪かったそうですが、うまくできた年は分けていただくこともできるらしいです。


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松ヶ崎疎水の桜2014

2014-04-05 21:38:46 | 松ヶ崎村風土記


高野川岸、出町柳~松ヶ崎橋あたりまで、延々と桜並木が続いて、今が見頃です。





昨日の春嵐の風にも耐えて、松ヶ崎疎水の桜も満開です。





もう少しすると、この流れも花筏で埋め尽くされることでしょう。
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2014年春の花たち

2014-04-04 22:36:57 | その他の植物

庭の白椿が今満開で、苔の上にもたくさん散っています。



鉢植えの「美保の関ヤブツバキ」。
島根県美保関地方に自生する濃紅色の椿です。
近隣種に「出雲大社ヤブツバキ」があります。



春蘭。
日本の山野に自生する蘭です。



こちらは、洋蘭の一種、セロジネ・クリスタータ・スワダ。
洋蘭栽培の専門家江尻光一さんの須和田農園で改良されたヒマラヤ原産の蘭です。
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