ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

2015年10月東京の旅 もくじ

2015-10-19 01:37:39 | 遠出(国内)
  2015年10月17日~18日、東京に行き、江戸東京たてもの園などを見てきました。












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江戸東京たてもの園(11)その他あれこれ

2015-10-19 01:36:23 | 建物(東京都)
その他にもいろいろな建築や遺物が展示されていましたが、あまりにたくさんあって時間も足りず、外からチラ見するだけしかできませんでした。


☆八王子千人同心組頭の家。

八王子市追分町にあった江戸時代後期の家。八王子千人同心は、江戸時代、八王子に配備された徳川家の家臣団です。甲州と武蔵の国境警備から始まり、日光東照宮の火の番、やがて、北海道の開拓や地誌編纂、江戸警備、長州への出兵にも加わりました。拝領屋敷地の組頭の家は、周辺の農家と比べると広くはありませんが、式台付きの玄関などは格式の高さを示しています。



☆奄美の高倉
奄美大島にあった高床式の倉庫。湿気やネズミの害から穀物を守るために、建物本体を地面から高く上げています。東京都八丈島などにもこのような高床式の建物が見られます。



☆吉野家(農家)
三鷹市野崎二丁目にあった江戸時代後期の農家。野崎村(現在の三鷹市野崎)の名主役を勤めた家といわれ、式台付きの玄関や付け書院のある奥座敷など、格式のある造りです。



☆綱島家(農家)
世田谷区岡本三丁目にあった江戸時代中期の農家。多摩川を望む崖線上にあった広間型の間取りを持つ茅葺の民家です。



☆天明(てんみょう)家(農家)
大田区鵜ノ木一丁目にあった江戸時代後期の農家。名主役を勤めた旧家で、茅葺屋根の正面中央に千鳥破風を持つ主屋・長屋門・枯山水庭園などに高い格式がうかがえます。



☆旧自証院霊屋(おたまや)

尾張藩主徳川光友の正室千代姫が、その母お振りの方(三代将軍徳川家光の側室)を供養するために建立した霊屋です。1652(慶安5)年築。新宿区市ヶ谷富久町。
東京都の文化財。



☆伊達家の門
港区白金二丁目に、旧宇和島伊達家が大正時代に建てた屋敷の表門です。片側にむくり屋根の番所小屋を備えるなど、大名屋敷の門を再現したような形をしています。総欅造りで、門柱の上に架けられた冠木(かぶき)には宇和島藩伊達家の木彫りの家紋が施されています。



☆西川家別邸

北多摩屈指の製糸会社を設立した実業家・西川伊左衛門が、隠居所及び接客用に1922(大正11)年に昭島市中神町二丁目に建てた家です。多摩地域の養蚕・製糸業が最盛期をむかえた時期(大正から昭和初期)に建てられ、よく吟味された部材が使われています。
ちょうど、お茶会が開かれていたようです。



☆会水庵
杉並区西荻北五丁目にあった、茶人山岸宗住(会水)が大正期に建てた三畳台目の小間の茶室です。劇作家の宇野信夫が買い取り、西荻窪に移築しました。



☆万世橋交番

千代田区神田須田町一丁目の万世橋のたもとにあった、明治後期のものと思われる交番の建物。正式名は須田町派出所。



☆上野消防署(旧下谷消防署)望楼上部

台東区上野5丁目にあった1925(大正14)年築の火の見櫓の上部で、元の高さは23.6mあり、1970年まで使われていました。三脚四層式外廊型。



☆皇居正門石橋飾電燈 

石橋の欄干両側に柱石に計6基設置されていたものの一つで、明治20年代のものです。



☆寛永寺灯籠

徳川将軍家の菩提寺である寛永寺に、八代将軍吉宗の没後、1751(寛延4)年に献上されたものです。



☆都電7500形

1962(昭和37)年製造で、渋谷駅前を起終点として、新橋・浜町中ノ橋・(神田)須田町まで走っていた電車です。都電は荒川線を除いて、1972(昭和47)年から順次廃止されました。


☆ボンネットバス


この他にも、江戸と東京の建物遺産がまだまだたっぷりとありました。

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江戸東京たてもの園(10)子宝湯

2015-10-19 01:35:27 | 建物(東京都)
下町中通りの中央突き当りに銭湯「子宝湯」があります。


足立区千住元町に1929(昭和4)年に建てられたお風呂屋さんで、これぞ、お江戸の銭湯の「殿堂」という感じの堂々たるお風呂屋さんです。
入母屋造りの大屋根の下に唐破風の玄関が張り出し、たくさんの彫刻で飾られています。賑やかな装飾と寺社建築のような外観が、関東大震災後に建てられた東京の銭湯建築の特質をよく表わしています。



子宝湯は石川県七尾市出身の小林東右衛門という人が、東京に5軒の銭湯を経営した中の一軒で、気に入った大工を石川県から連れてきて、大金をかけて建てさせたものです。戦後に小林氏から平岡家が買い取り、1988年11月に廃業するまで営業を続けていました。



入口を入ると、中央に「高砂」の翁と嫗のタイル画があり、右が女湯、左が男湯に続くガラス戸です。



男女の脱衣場の真ん中に番台があります。番台の肘掛にまで彫刻がほどこされています。



昭和28年の入浴料金は大人15円です。



脱衣場には乱れ籠が置かれています。改修されてからはロッカー式になりましたが、それ以前のものを再現しています。



脱衣場の天井は高く、折り上げ格天井になっています。








女脱衣場と男脱衣場の間には企業の宣伝板が上げられています。




浴室正面の壁には男湯・女湯両方から見える大きな富士山のペンキ絵が描いて、富士山の絵の下に男女それぞれ3層づつ浴槽が並んでいます。
浴室の天井も二段の窓があり、とても高くなっています。



男湯の壁には「義経弁慶の五条大橋の風景」「那須与一」のタイル画、



女湯の壁には「猿蟹合戦」「雀のお宿」のタイル画があります。
いずれも九谷のタイル絵師、石田庄太郎の作品です。



脱衣場の外回りには、廊下がめぐらされ、ガラス戸と濡れ縁の外に庭園があります。

東京の銭湯の殿堂、今も営業していたら一風呂浴びに行きたかったものです。

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江戸東京たてもの園(9)下町中通り周辺の家々(2)出桁造りがぞろぞろ

2015-10-19 01:34:41 | 建物(東京都)
☆大和屋本店(乾物屋)
港区白金台の通称目黒通り沿いに、1928(昭和3)年に建てられた木造3階建ての商店です。3階の軒下を伝統的な「出桁(だしげた)造り」にする一方、間口に対して背が非常に高い看板建築の特徴も備えた建物です。2階のバルコニーや3階窓下には銅板を用い、3階窓下には「鰹節」という金文字の看板をつけています。




大和屋本店は乾物類の販売を手掛け、海産物の仕入れが困難になった昭和10年代後半以降は主にお茶と海苔を販売していました。
店内には、鰹節や昆布、スルメ、豆、鶏卵などを販売する昭和初期の様子が復元されています。




煙草も販売していたので、店頭に昭和20年代の煙草屋のケースが復元されています。




裏側から見たところ。



☆川野商店(和傘問屋)

1926(大正15)年に、江戸川区南小岩八丁目に和傘製造問屋を営む川野米蔵氏によって建てられた木造2階建て、「出桁造り」の商店です。重厚な屋根の造りや、江戸以来の町家の正統的特質を継承する2階の格子戸などを備えています。
川野商店は明治末から問屋として商いを始め、この家は二代目の建物となります。傘の材料・道具を仕入れて、職人に売り、職人が作った完成品を買い取って販売するという仕組みになっていました。




昭和5年頃の和傘問屋の店先の様子を復元しています。
1階は土間とミセ、田の字型の和室4室、台所と便所、2階に和室2室、渡り廊下と板蔵がありました。



☆小寺醤油店

港区白金五丁目に1933(昭和8)年に建てられた、木造2階建て、「出桁造り」の醤油店です。三光通りの商店街の中にありました。
隣の蔵は袖蔵と言い、鉄筋コンクリート造り、黒いモルタル塗りで、1階に商品などを、2階に家族の生活用品をしまっていました。蔵には店側と道路側に扉がついていました。



欅一枚板の看板に「小寺醤油店」と書かれ、2階縁の刎ね高欄、ガラス窓の組子などに特徴があります。1階は店舗と居間、台所、女中部屋、風呂場、便所があり、2階には和室2室と子供部屋がありました。




昭和30年代の店先の様子を再現しています。
日本酒の他に、醤油・味噌・清涼飲料水・調味料・缶詰なども売っていました。昭和30年代後半まで量り売りが行われていました。



☆万徳旅館
青梅市西分町の青梅街道沿いに江戸時代末期から明治初期に建てられた旅館です。古くは御嶽講の参拝者に利用され、近年は富山の薬売りなどの商人宿として使われていました。
建物は創建当初の姿に、室内は旅館として営業していた1950年頃の様子を復元していますが、内部の構造や建具まわりに大きな改造はなく、古い状態のまま、平成5年頃まで営業を続けていました。木造2階建て、屋根は杉皮で葺かれた杉皮葺きです。




1階の内部は奥まで通り抜けられる中土間を中心に、右側にミセの間と奥に家族の居室、左側に台所と女中部屋・風呂・便所、2階には客室がありました。1階土間の様子は時代劇でよく見る旅籠の上がり框とそっくりです。



☆鍵屋(居酒屋)
1856(安政3)年に台東区下谷の言問通りに、酒問屋として建てられたと言い伝えられており、明治から昭和初期まで酒の小売店、昭和初期から店の片隅で夕方だけ一杯飲み屋を営み、1949年からは本格的に居酒屋として営業していました。小説家内田百閒なども来ていたそうです。
江戸・明治時代には平家でしたが、大正初期に2階部分が増築されました。木造、「出桁造り」の町家の伝統を残した家です。




1階店内は、右側にカウンター席を持つ土間のみせと、左にも座敷席に入れる入口があります。2階は家族の居室が3室あります。



☆仕立屋
1879(明治12)年に文京区向丘一丁目に建てられた「出桁造り」の町家です。
正面の格子や上げ下ろし式の「摺り上げ戸」などに江戸からの町家の造りを伺うことができます。昭和初期はテーラー、戦後は八百屋でしたが、建物の間取りを創建時に、内部を大正期の仕立屋で、親方と弟子4人の仕事場として復元しています。



仕立て用の裁ち板や、火熨斗をかけるこてを温める火鉢などがあります。



江戸時代の町家の風情を残す建物をたくさん見ることができました。


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江戸東京たてもの園(8)下町中通り周辺の家々(1)看板建築づくし

2015-10-19 01:33:30 | 建物(東京都)
下町中通りと名付けられた通りの一帯には、江戸から昭和にかけて下町にあった家々が集められています。





☆村上精華堂

台東区池之端の不忍通りに面して建っていた小間物屋(化粧品店)です。1928(昭和3)年築。木造3階建。
昭和前期には化粧用のクリーム、椿油や香水等を奥の作業場で作って、卸売りや小売りを行っていました。1967年以降は中華料理店などを営む「日増屋」として利用されていました。




正面は人造石洗い出しで、イオニア式の柱を持ち、当時としてはとてもモダンな造りとなっています。
内部は和室が多く、和洋折衷の「看板建築」となっています。「看板建築」とは、木像建築の正面に衝立のように平面的なファサード(建築の正立面)がとりつけられた様式で、大正中期から昭和初期にかけて、都市の商店建築を中心に流行しました。ファサードは、タイルを貼ったもの、銅板を葺いたもの、モルタルで仕上げたものなど様々で、洋風の装飾を施したもの、戸袋に和風の文様を付けたものなど、デザインに工夫が凝らされたものもあり、バラエティに富んでいました。



店内に柱頭が展示されていました。



☆植村邸

建物の前面を銅板で覆った「看板建築」です。中央区新富二丁目に1927(昭和2)年に建てられた、木造3階建ての貴金属や時計を扱う店でした。
正面中央のアーチ部分の飾りは凝ったもので、旧所有者であり、自ら設計したと伝えられる植村三郎氏のローマ字の「U」と「S」を重ねたものか、植村商店を表すものかと思われます。




裏側から見たところ。



☆丸二商店(荒物屋)
昭和初期に千代田区神田神保町三丁目に建てられた「看板建築」です。
小さい銅板片を巧みに組み合わせて模様を形作り、建物の正面を飾っています。銅板は江戸小紋の亀甲、杉綾目、青海波、網代、一文字のパターンで貼られていて、伝統の趣を残す職人技でできています。



この店では昭和20年頃まで荒物屋が営まれていて、昭和10年代の店内の様子を再現しています。鍋や釜、ざる、ほうき、七輪などの日用品を扱い、1階店内だけでなく、2階の一部の部屋にも収め、2階にも客を招き入れていたそうです。




丸二商店の側面と、その裏に隣接していた長屋が移築され、路地の様子が復元されています。この長屋は、総2階であること、台所が奥に位置していることなどが関東大震災後昭和初期に建てられた特徴を表しています。



☆花市生花店
千代田区神田淡路町一丁目に1927(昭和2)年に建てられた花屋です。銅板貼りファサードの「看板建築」で、二階の窓下には四枚の銅板レリーフに四季の花が描かれています。




店内は昭和30年代の花屋を再現しています。白色タイル張りの壁と格天井、両側に作り付けの棚を設け、一方の棚の下に水場を設けています。
二階には家族、三階には3・4人の住み込みの使用人が寝起きしていました。



☆武居三省堂(文具店)
千代田区神田須田町一丁目に1927(昭和2)年に建てられた文具店です。木造3階建て、外壁をタイル張りとして、側柱・戸袋廻り・庇などを銅板で包んだ「看板建築」です。屋根は腰折れのマンサード屋根となっています。

明治時代から筆・墨・硯等の文具の卸売りを営み、後に小売り店に変わり、昭和初期には家族のほか、5・6人の奉公人を含め、15人ほどの人がこの建物で生活していました。1階店舗の奥には台所と居間、湯殿、2・3階にそれぞれ和室が3室づつあり、さらに、地下に荷解きや荷造りを行う場所がありました。



1階店内の様子。作り付けの商品棚が左右両側の壁面を埋め尽くしており、天井には2階の床を支える梁・根太といった構造材が露出しています。



☆休憩所

武居三省堂の隣には店蔵を活用して、1階が休憩所、2階がうどんなどが食べられる店になっています。

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江戸東京たてもの園(7)高橋是清邸

2015-10-19 01:32:22 | 建物(東京都)


港区赤坂七丁目にあった政治家・高橋是清邸の主屋部分を移築したものです。

明治から昭和の初めにかけて日本の政治を担った高梨是清は、本所押上から1902(明治35)年に完成したこの家に移り住み、1936(昭和11)年の2.26事件で暗殺されるまで30年あまり住んでいました。
当時の赤坂は江戸時代の面影を残し、郊外の趣があったと言われ、高橋是清邸も元は丹波篠山藩青山家の中屋敷地でした。高橋が亡くなった後、この家と屋敷地は東京市に寄贈され、主屋は是清の眠る多磨霊園に移築されて休憩所として利用され、庭園は公園となりました。


玄関。家は総栂普請で食堂(洋間)の床は寄木張りになっています。




1階には食堂の他に和室が4室と仏間があります。



2階には寝室と書斎があり、この部屋で暗殺されました。










廊下のガラスはゆがみのある初期のガラスがそのまま残っています。
庭園も赤坂にあった庭園の一部が復元されています。
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江戸東京たてもの園(6)デ・ラランデ邸

2015-10-19 01:29:53 | 建物(東京都)
新宿区信濃町にあった建物で、元は明治時代の気象学者・物理学者であった北尾次郎が自邸として設計したと伝えられる木造平屋建て・瓦葺き・寄棟屋根・下見板張りの洋館でした。
1910(明治43)年頃、ドイツ人建築家、ゲオルグ・デ・ラランデにより、木造3階建ての住宅として大規模に増築されました。デ・ラランデは妻と4女、1男の7人家族でこの住宅で生活していましたが、1914(大正3)年に41歳で亡くなり、その後この建物の居住者は何度か変わりました。
デ・ラランデは、1903(明治36)年に来日し、東京や横浜を中心に多くの建築物を設計し、神戸に残っている重要文化財トーマス家住宅(風見鶏の家)もその一つです。




デ・ラランデの大改造で、スレート葺きのマンサード屋根、下見板張り外壁の3階建てになりました。



玄関。



建物はデ・ラランデによって増築された頃の姿に復元され、室内もデ・ラランデが住んでいた大正時代初期の写真を参考にしつらえられています。

1階は応接室・食堂・2つの洋居間・和室、2階は主寝室と5つの洋室、3階にも2つの洋室があります。


























1階とテラス席が「武蔵野茶房」として、喫茶・食事ができる休憩所になっています。
ここで昼食をいただきました。


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江戸東京たてもの園(5)三井八郎右衛門邸

2015-10-19 01:28:37 | 建物(東京都)
三井八郎右衛門邸は、港区西麻布に1952(昭和27)年に建てられた邸宅です。客間と食堂部分は1897(明治30)年頃京都に建てられ、戦後港区に移築されたものです。また、蔵は1874(明治7)年に日本橋に建てられた三井越後屋の絹蔵であった当初の姿に復元したものです。使われた建築部材、石材、植物などは、京都油小路、神奈川県大磯・世田谷区用賀・港区今井町にあった三井家に関連する施設から集められており、財閥三井家の威勢をうかがうことができます。



建物の南側は伝統的な木造の和風ですが、北側は鉄筋コンクリート造りで簡素な構成です。



度肝を抜かれるのは、二階の廊下で、和風の折りあげ格天井に豪華なシャンデリアが下がっています。二階には三井高公夫妻の寝室と、三井家代々の霊を弔う格式高い仏間があります。



寝室。



一階書院の食堂の間。



書院の客間。二室とも、畳の上に絨毯を敷き、椅子やテーブルを置くという和洋折衷の生活様式を取っています。襖・障子・杉戸に描かれた大半の花鳥風月の絵画は明治期の円山四条派の画家によるものです。



二室の間の欄間は、月の字欄間が設けられ、桂離宮の意匠にならっています。



一階畳廊下の南西角にある櫛形窓も桂離宮の意匠を取り入れたものです。



厨房と配膳室。


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江戸東京たてもの園(4)常盤台写真場

2015-10-19 01:27:33 | 建物(東京都)
常盤台写真場は、現在の板橋区常盤台に1937(昭和12)年に建てられた写真館です。



常盤台は、東武鉄道初の宅地開発により分譲された郊外住宅地で、1935年東武東上線武蔵常盤駅の開業を契機として始まり、理想的な道路網や公園、電気・ガス・水道、暗渠式の排水などを整えた「健康住宅地」として売り出されました。
中央の矢印の先が常盤台写真場の位置です。



建物は木造2階建て、外壁をリシン仕上げとしています。
北西角の塔状になっている部分には元は押入がありましたが、移築の時にエレベーターが設置されました。



西面中央が入口、その右が応接室、左が書生室です。



玄関は普通の家庭の玄関のようです。



玄関内部。



玄関から左手にある階段を上がると、



二階が写真場(スタジオ)になっています。



高い天井と広々とした空間に、北側の大きな窓から自然光が入ってきています。



窓の大部分は摺りガラスになっていて、屋根にはトップライトがつけられています。
照明設備の発達していない時期の写真館の特徴をよく表している建物です。



スタジオの隣には畳敷きの支度部屋があります。



一階は家族の生活空間になっています。
居間。


老人室。



子供室。



応接室。




食堂も北向きの摺りガラスで明るい。



台所。



浴室。

新しい住宅地にある写真館は、スタジオも家族の生活様式もニュースタイルのモダンな建物でした。
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江戸東京たてもの園(3)小出邸

2015-10-19 01:26:32 | 建物(東京都)
1925(大正14)年に文京区西片二丁目に建てられ、子供が独立した後、夫婦で静かに住むために建てられた住宅です。建築後大規模な増改築は行われず、1996年まで家族によって大事に住み続けられていました。
日本におけるモダニズム運動を主導した建築家、堀口捨己が、ヨーロッパ旅行からの帰国直後に設計した住宅で、実質的な処女作です。


ピラミッドのような大屋根の前面に二階建て軒の水平線が突き出ている独特な形です。



門から玄関へ。



玄関前に突き出たポーチ。



玄関内側から見ると、円窓を取り入れた幾何学的デザインが素敵です。



応接室の家具は建物に合わせて設計されたものです。



一階の寝室。作り付けの収納スペースがあります。



二階にはの八畳と六畳の和室があり、伝統的な書院造りです。



風呂場。


他に、茶の間、台所、電話室、女中部屋、脱衣室などあります。
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江戸東京たてもの園(2)前川國男邸

2015-10-19 01:25:12 | 建物(東京都)
次は、前川國男邸です。

日本の近代建築の発展に貢献した建築家、前川國男(1905~1986)の自邸として、品川区上大崎に、1942(昭和17)年に建てられた住宅です。
戦時中資材が不足している中、また、延床面積100平方メートル以上の住宅の建築が法律によって規制されるという困難な状況の中で建てられたものでした。
1945年からは、空襲によって焼かれた前川國男建築設計事務所の事務所を兼ねて、1954年まで使われました。1973年には解体されて、軽井沢の別荘に部材として保存されていましたが、1996年に復元してここに建てられました。


外観は切妻屋根の和風、内部は中央に二階までの吹き抜けがある広い居間を取り、その両側に寝室と書斎が配置され、他に、台所、女中部屋のみのシンプルな間取りです。



玄関は建物の裏側にあります。




居間の南面は格子と障子の明るい開口部になっています。



居間の家具。




こちらも。



居間から木製の階段を上がると、ロフト風の二階があります。



寝室の作り付けのベッド。



台所。



バス・トイレ・洗面がワンルームになっています。

前川國男の作品は、東京文化会館(1961)、東京都美術館(1975)など、たくさんありますが、京都における作品、京都会館は2016年に建て替えられて壊されてしまいました。

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江戸東京たてもの園(1)田園調布の家

2015-10-19 01:23:50 | 建物(東京都)
東京で1泊した次の日、江戸東京たてもの園に行ってみました。



JR中央線武蔵小金井駅北口から、



西武バス5分で「江戸東京たてもの園前」で下車、降りてから徒歩3分。
または、CoCoバス(小金井市コミュニティバス)で15分、「たてもの園入口」で下車、徒歩10分です。



CoCoバスを降りたすぐの所に「玉川上水」が流れていました。江戸時代初期に幕府から命じられた玉川兄弟が開削した江戸市民の飲用水のための水路で、この辺りでは両側の樹木も管理され、桜の名所になっています。



上水に架かる陣屋橋。
玉川上水と並行して通る五日市街道を越え、都立小金井公園に入って行くと、公園の中に、江戸東京たてもの園があります。

1993年から、江戸東京博物館の分館として、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示して次代に継承することを目指しています。

開園時間:4月~9月は9時30分~17時30分、10月~3月は9時30分~16時30分
休園日:月曜日と年末年始
入場料:一般400円、65才以上200円、大学生320円、高校生・中学生(都外)200円、中学生(都内)と小学生以下は無料。


たてもの園の入口、ビジターセンターになっているのは、旧光華殿。
1940(昭和15)年に皇居前広場で行われた紀元2500年記念式典のために建築された式殿です。1941年に小金井大緑地(現在の小金井公園)に移築され、光華殿と命名されました。
ここで、江戸東京の建物やまちづくりの歴史などの展示を見てから、広い敷地に建てられている建物を見てまわります。
また、元ここにあった「武蔵野郷土館」の原始・古代から近・現代にいたる武蔵野の資料も引き継いで展示されています。


最初に見たのは、田園調布の家(大川邸)です。
1925(大正14)年郊外住宅地のひとつであった大田区田園調布に建てられた木造1階建ての住宅です。鉄道省の土木技師であった大川栄氏が建てた家で、夫婦と子供2人とお手伝いさんの住居でした。設計は岡田信一郎設計事務所の三井道男。



玄関。



玄関ホール。



居間を中心に食堂、寝室、書斎が配置され、当時としては珍しく、全室洋間となっています。






居間の横にパーゴラ付きのテラスがありました。



台所の設備も当時としては新しいものでした。

田園調布は渋沢栄一が開発した郊外住宅地で、関東大震災の後、都市を離れ、郊外に住む人々が多くなり、好調に売れていきました。平屋で、来客よりも家族の住みやすさを主体にした、大正から昭和初期にかけての新しい生活様式の家です。増築・改築を重ねながらも創建当初の姿をよく保ちつつ、平成5年まで使われていました。
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都電荒川線に乗る

2015-10-19 01:22:07 | 遠出(国内)
2015年10月17日~18日に、東京に行きました。

朝9時26分京都を出発、11時43分東京着、中央線の快速で吉祥寺駅に12時29分着。
吉祥寺駅から徒歩約3分で武蔵野市立吉祥寺美術館に着きました。

ここで、9月5日~10月18日に開催されていた「生誕200年記念 伊豆の長八ー幕末・明治の空前絶後の鏝絵師」展を観た後、都電荒川線に乗りに行きました。

吉祥寺ー神田ー上野ー日比谷線の三ノ輪と乗り継ぎ、少し歩くと、都電荒川線の三ノ輪橋があります。

もう夕方5時近かったので、辺りは薄暗くなっていました。
都電荒川線は三ノ輪橋から早稲田までの間12.2kmをつないで走っている、東京で唯一残る路面電車です。



早稲田行きに乗りました。



30停留所で170円です。







荒川遊園地前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋四丁目、都電雑司ヶ谷、鬼子母神前、学習院下などの停留所を通過して、



1時間ほどで終点、早稲田駅に着きました。
折り返し、東池袋四丁目まで乗って、東京メトロ有楽町線に乗り換えて宿に向かいました。
沿線には雑司ヶ谷霊園など行ってみたい所もたくさんありましたが、今回はとにかく、東京の路面電車に乗ってみるという体験をしてきました。
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2015年秋仁淀川の旅 もくじ

2015-10-14 01:09:13 | 土佐の国
2015年10月10日~12日に行った高知県仁淀川上流への旅の目次です。







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2015年秋仁淀川の旅(7)佐川駅から旅の終わりへ

2015-10-14 01:08:04 | 土佐の国
9:40安居渓谷を出発。宿の車でバス乗り場のある狩山口まで送ってもらいました。

10:10狩山口発の黒岩観光のバスで10:52佐川駅前に着き、11:01佐川発のJR土讃線に乗り、再びバースデーきっぷの旅で帰路につきました。

途中、バスの窓からはお茶の段々畑が美しく続いている所をたくさん見ることができました。


JR佐川駅です。



佐川駅前の風景。
佐川には司牡丹の酒蔵を始めとする昔ながらの町並みや、明治維新ゆかりの青山文庫、植物学者牧野富太郎生誕の地など見所が多いのですが、まだ一度も行っていないので、またいつかゆっくり訪れてみたいものです。


佐川からの普通電車は11:51高知に着き、12:13高知発13:21阿波池田着の特急南風14号、13:33阿波池田発14:45徳島着の特急剣山8号と乗り継ぎ、徳島からは行きと同じく高速バスで京都まで帰って来ました。

JR四国のバースデーきっぷを使って仁淀川上流を訪ねた2泊3日の旅でした。
今回訪ねた仁淀川上流一帯は主に仁淀川町に属しています。仁淀川町は2005年8月に吾川郡池川町と吾川村および高岡郡仁淀村が合併して仁淀川町となった町です。

奇跡の清流と言われる仁淀川、その流域には春のひょうたん桜、各地の神楽や秋葉祭り、焼畑農業の跡、伊野の紙博物館と、まだまだ見ていない所が多いですが、今回初めてこの辺りを巡ることができて、とても思い出深い旅となりました。


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