ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

鴨川湯

2020-03-27 02:38:52 | お風呂屋さん巡り
鴨川のすぐ側、北大路橋の東側、府立植物園前のバス停のすぐ南に北大路通りに面して鴨川湯があります。


           (2020年3月25日)

夜になると、「ゆ」のネオンサインが北大路側に出ていて、すぐに見つけることができます。

深風呂と浅風呂の浴槽が壁際ではなく、浴室の中央にあるのが特徴です。
昔ながらの柳行李の脱衣カゴが揃っているのも珍しく、浴室内には様々なタイルが貼られています。
サウナと水風呂(ライオンの吐水口付き)、奥の壁際には、薬湯、電気風呂、ジェット風呂が並んでいます。
この日の薬湯は、ローズ&サンダルウッドのバラ色のお風呂でした。


重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」

2020-03-22 02:06:14 | 遠出(国内)
丹後地域では約1300年前から絹が織られていましたが、1720年に京都西陣から「ちりめん」の技術が伝わり、絹織物産地として大きく発展していきました。加悦地域は、与謝峠を介して、丹後と京都をつなぐ物流の拠点となり、大きく栄えた住宅や土蔵、ちりめん工場、職工宿舎などが一帯となって存在しています。古いものでは江戸時代中期、主には明治初期から昭和初期の屋敷が多く立ち並び、丹後ちりめん産業の隆盛を今に伝える町並みになっており、2005年に重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」として認定されました。与謝野町は、2017年に宮津市、京丹後市、伊根町とともに、「300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊」として「日本遺産」にも認定されています。




旧加悦町役場庁舎から西山工場までの南北700mの旧街道は、16世紀後期の安良城築城に端を発する、敵兵の侵入を防ぐためにつくられたとされる、途中4ヶ所で鉤の手に折れ曲がった形をしています。







井筒屋旅館。
大正時代に建てられ、1933(昭和8)年に再建された総2階平入りの建物で、正面入口には銅板葺き入母屋屋根の車寄せがあり、旅館の玄関にふさわしい構えです。今も旅館として営業を続けています。



松村家住宅。1888(明治21)年築。
明治期から昭和17年頃まで旅館を営んでいました。明治期の宿帳にはロシア人や中国人の名も記されており、様々な人がちりめん街道を往来していたことがわかります。






表がわの間でちりめん織機を展示実演するお家がありました。



杉本家住宅(下之町)。1848(嘉永元)年築。
中庭を持つ地区内でも大規模な住宅。明治43年、当主の利右衛門が電気事業の必要性を強く感じ、丹後電気株式会社を設立し、現加悦小学校グランド南側の土地に発電所を建設しました。またこの建物は、地区内で2番目の郵便局、その後「杉本医院」として医者をされていた場所でもあります。



川嶋家住宅。1929(昭和4)年築。
昭和2年の丹後大震災後に建てられた川島酒造の酒蔵で、当時は蔵の奥にある井戸水で酒を造っていました。銘柄は「大山政宗」といい、戦後の酒の統制まで造り酒屋を営業していました。大きな建物の割に窓が小さく、酒蔵の特徴をよく表しています。
土日のみ、10時~17時30分、酒蔵の中でカフェ「ちりめん茶屋」が営業されています。



旧尾藤家住宅。1863(文久3)年~1930(昭和5)年築。
江戸時代に大庄屋などを務めた生糸ちりめん問屋で、当主は代々庄蔵を名乗りました。明治初期には北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有しました。丹後銀行頭取、加悦鉄道の社長、加悦町長も務めました。
主屋は江戸末期に、但馬の綿屋長右衛門の主屋を移築したもので、明治から大正にかけ、蔵や屋敷などが増築され、昭和3年には大林組設計部長今林彦太郎の助言を得て、洋館を増築しました。中庭を囲んで、ロの字型に座敷や5つの蔵が立ち並び、和と洋の融合する大規模建築で、京都府指定有形文化財になっています。同時に尾藤家から与謝野町に寄贈され、保存修復工事の後、一般に公開されています。
入館料200円で館内を一巡して案内してもらえました。 9時~17時開館。 休館日:月曜日・年末年始 



実相寺。加悦谷唯一の日蓮宗の寺院。
この前で街道が直角に折れ曲がっています。



下村与七郎家住宅。 1804(文化元)年築。
地区内に現存する最も古い建物。右端の窓は「機屋窓(はたやまど)」と言って、外からは中が見えず、光は上から入ってくるようになっている珍しいものです。左側の土蔵は、明治20年から8年間、加悦郵便局として使われました。局舎2階では、モールス信号による電信が始められ、変動の激しい生糸価格をいち早く知ることができました。







下村家住宅(旧丹後産業銀行)。1920(大正9)年築。
宮津を本店として設立された「丹後産業銀行」の加悦営業所の蔵で、側面には丹後産業銀行の「産」の文字が刻まれています。 丹後の金融機関は融資の担保にちりめんや反物を取ることから、蔵が大きく作られています。



下村五郎助家住宅。 1904(明治37)年築。
街道がもう一度折れ曲がる南西角に位置することから屋号を「角屋(かどや)」と称し、明治初期に北前船による廻船問屋を営むことにより富を築きました。その後、ちりめん業に取り組んで京都に店を設立し、昭和初期には加悦に株式会社丸中を立ち上げました。 




天満神社と宝巖寺。



渋谷家住宅。1897(明治30)年築。
切妻造り平入り厨子二階建てで、正面には腰高の格子と「えんがき」があり、ちりめん産業が盛んであった丹波地域の特徴をよく表しています。

現在は「天風庵」(骨董・がらくた屋)となっています。




杉本家住宅(上之町)。1893(明治26)年築。
二階両側の軒近くまで防火用の壁、うだつがあがっています。ちりめん街道の家の中で、うだつがあるのは、ここだけです。明治20年から34年にかけて「生糸縮緬仕切通(機屋)」を家業とし、その後薬局も営んでいました。



珍しく街道側に入口がない造りの家もありました。



旧伊藤医院診療所。1917(大正6)年築。
木造二階建て入母屋造り桟瓦葺きの洋館です。漢方医学が主流であった当時、西洋医学の診療所として地域で最初に開業しました。



玄関まわりの漆喰の装飾は「健康」を主題としており、加悦の左官職人萬吉によって描かれた鏝絵です。


杉本治助家住宅。
加悦谷の丹後ちりめん創始者の一人、手米屋小右衛門の直系にあたる家。早い時期から織物業の近代化や製織技術の新開発にも注力しました。



杉本家住宅(西山第二工場)。明治~大正時代。

主屋は、丹後最大のちりめん工場(西山工場)の職工たちの集会所として明示40年代に建てられました。二階が講堂であったため階高が高いです。



西側には、明治30~40年代建築の西山第二工場があり、大正中期には計5棟の工場がありました。



何と、その工場の中から「ガチャガチャ」と機を織る音が聞こえてきました。今もこの工場の中でちりめんの製造が続けられているのです。






加悦町のマンホール。大江山の鬼もいます。

2006年(平成18年)3月1日、与謝郡加悦町・岩滝町・野田川町の3町が合併し、与謝野町が発足しましたが、加悦、岩滝、野田川の各地区に庁舎が残されています。

加悦SL広場を見に来たついでに、駆け足でちりめん街道を見てまわりましたが、与謝野町には原種ヤブツバキの大木や、蛭子山古墳と作山古墳の古墳公園、与謝野鉄幹の父・与謝野礼厳、与謝蕪村の母親のふるさとなどがあり、またいつかゆっくり来てみたいものです。



ちりめん街道から与謝野駅までバスに乗って、16時50分与謝野駅発の特急たんごリレー6号で17時43分福知山着、17時49分福知山発19時9分京都着の特急きのさきで帰ってきました。京都丹後鉄道の切符は硬券でした。



旧加悦町役場庁舎

2020-03-22 02:04:50 | 建物(京大以外の京都府の)
旧加悦駅の近くに重要伝統的建造物群保存地区「ちりめん街道」があります。
ちりめん街道の北側の入口に「旧加悦町役場庁舎」があります。


1927年の丹後大震災でそれまでの庁舎が倒壊したため、1929(昭和4)年に建てられ、建設費の半分ほどを織物業の篤志家が寄付しました。
2002(平成14)年まで町役場として利用されていました。
木造2階建、寄棟造り、桟瓦葺き洋館。設計は大林組設計部長今林彦太郎。京都府指定文化財です。



玄関車寄せ前面の門の形の屋根にも瓦が乗せられ、変わった趣をしています。

3月末までは改修工事のため、中を見ることはできませんでしたが、2階の旧議場の天井は当時の新素材で高級品であったベニヤ板で貼られ、壁はクリーム色漆喰の当初の姿に戻されています。
4月1日からは、観光案内所や喫茶コーナー、イベント会場として活用されることになっています。 年末年始を除き年中無休 9時~17時


加悦鉄道旧加悦駅

2020-03-22 02:03:56 | 建物(京大以外の京都府の)
加悦SL広場を見た後、丹海バスに乗って与謝野駅の方に向かって帰る途中の「ちりめん街道」バス停で降り、付近を散策しました。


与謝野町役場加悦庁舎近くに、加悦(かや)鉄道の旧加悦駅があります。

この駅は、1926(大正15)年12月、加悦鉄道の開通に伴って、終点駅として開業し、1985(昭和60)年に廃駅となりました。
1977年に駅構内の一部が「加悦SLの広場」となり、加悦鉄道で使用していた鉄道車両が保存されていましたが、1996年に大江山鉱山駅跡に移転しました。この年、旧駅舎が与謝野町の文化財に指定されました。
2001年、駅舎を曳家して近くに移し、跡地に与謝野町役場加悦庁舎の新庁舎ができました。



旧駅舎には「加悦鉄道資料館」が開館し、三つの部屋に鉄道資料類が展示されています。



天井は格天井になっています。



特定非営利活動法人「加悦鐵道保存会」が管理運営し、展示品の解説をしています。

開館:土・日・祝日 9時~17時
入館無料

加悦SL広場が3月末で閉園に

2020-03-22 02:02:45 | 遠出(国内)
京都府与謝郡与謝野町滝にある「加悦(かや)SL広場」が2020年3月末で閉園になるというので、21日に行ってきました。

7時32分京都発の特急きのさき1号で8時38分綾部着、8時51分綾部発9時13分西舞鶴着までJRで行き、


JR西舞鶴駅のホームから続きになっている京都丹後鉄道の西舞鶴駅に移動すると、隣接して京都丹後鉄道の車両区があり、ラッピング列車が停まっているのが見えました。



9時37分西舞鶴発の京都丹後鉄道で宮津、天橋立、岩滝口と過ぎて、



10時25分与謝野駅に着きました。。




与謝野駅の駅舎の中に「丹後山田駅資料室」がありました。
「丹後山田駅」とはなんじゃろうと思ったのですが、与謝野駅は1925年~1990年は国鉄、続いてJR西日本の「丹後山田駅」と言われ、1990年に北近畿タンゴ鉄道に移管されると「野田川駅」となり、2015年からは京都丹後鉄道の「与謝野駅」と改称されたのです。
国鉄時代は複数の線路が引き込まれ、1926年~1985年には加悦鉄道がこの丹後山田駅から加悦駅まで走っていたので、この駅はかなり重要なポイント駅だったようです。資料室には、国鉄・JR西日本だった頃の、駅にゆかりのある鉄道部品や、戦争中に出征する兵士達を見送る写真が展示されていました。




駅前に大きな建物があり、駅が賑わっていた頃に、丹後ちりめんの行商人達がたくさん泊まったという旅館「大正亭」の跡ではないかと思われました。

与謝野駅から11時1分発の丹海バスで11時31分に「SL広場西」で下車、徒歩5分で「加悦SL広場」に着きました。
与謝野駅からレンタサイクルがあるらしいので、それを借りて廃線跡を走ろうかと思っていたのですが、3月末までの冬季は休業していて利用することができず、時間待ちの長いバスで行くしかありませんでした。


SL模型が乗っているアーチが「加悦SL広場」の入口になっています。



加悦鉄道の旧加悦駅を復元した建物が入場受付になっています。
加悦駅は大正時代の代表的な洋風建築の一つとして知られ(町指定文化財)、待合室には当時の時刻表、ランプ、時計、ベンチなどが置かれ、展示室には昔の駅で使われていた鉄道用具やレールがたくさん展示されていました。



駅舎の二階も飼料が展示されていました。

加悦鉄道は、1925(大正14)年、丹後地方の町民823名の出資によって設立され、翌年、国鉄の連絡駅、丹後山田駅から加悦駅の間、5.7kmが開業しました。
当初は沿線の特産品である丹後ちりめんを京阪神地区に輸送することを主目的としていましたが、その後、加悦駅の南西にある大江山でニッケルの採掘が開始されたため、1940(昭和15)年に加悦駅から大江山鉱山駅までの貨物専用線が2.6キロ延長し、1942(昭和17)年には丹後山田駅から北東の岩滝町にある精錬所(日本冶金工業大江山製造所)への専用線も開通しました。しかし、戦後は蒸気機関車からガソリン車、ディーゼル機関車に変わり、さらに、自動車交通の波に押され、1985(昭和60)年に加悦鉄道は廃止されてしまいました。

その後、1996年からは大江山鉱山駅跡地に、加悦鉄道を走っていた多くのSLや気動車など27両を展示して、鉄道保存展示施設「加悦SLの広場」として、宮津海陸運輸株式会社が運営してきました。しかし、車両の整備をする技術継承が困難で、車両の維持が難しいという理由で、2020年3月末で閉園することになったのです。



閉園前だというので、家族連れや鉄道好きらしい男性がたくさん来ていました。
3月31日までは毎日営業しています。午前10時~午後5時開園。入場料大人400円。




場内周遊ミニ列車「ロケット号」と、きかんしゃトーマス・バッテリーカーも走っていました。



重要文化財になっている2号蒸気機関車(旧鉄道省形式120)(鉄道院時代に123号に番号変更)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1873(明治6)年にイギリスで製造され、輸入されたもので、日本で2番目に古いSLです。1874年から大阪~神戸間を走り、活躍していましたが、1915年、簸上鉄道(島根県)に払下げ。1926年に加悦鉄道が購入、1956年まで297,800キロを走りました。

なお、加悦鉄道の1号車は鉄道省5100形で、加悦鉄道開業の際、相模鉄道より購入したものでしたが、1936年に解体され現存していません。




1261号蒸気機関車(旧鉄道省形式1260)Cタンク。(与謝野町指定文化財)
1923年、日本車輛製造(株)で製造のC形タンク機関車。1943年ニッケル鉱石輸送のために、国鉄より加悦鉄道が譲り受ける。ニッケル輸送、貨物輸送、旅客輸送に活躍。1967年使用廃止。



(左)C58形蒸気機関車(C58390号)
  唯一の本格的テンダー(炭水車)式1C1型機関車で、テンダー式として、最初の密閉式運転室を採用し、主に寒冷地に配属されました。
1946年、旧国鉄が汽車製造(株)で製造。函館本線、石北本線に配属され、1975年まで走りました。同年、展示用として旧国鉄より借用しました。

(右)C57蒸気機関車(C57189号)
  歴代蒸気機関車のうち最も端麗とされ、「貴婦人」と呼ばれました。
1946年、旧国鉄が三菱重工三原製作所で製造。国鉄新潟機関区、山陰本線、羽越本線等で1971年まで走りました。1973年展示用として、旧国鉄より貸与を受けました。




4号蒸気機関車。C形タンク。(与謝野町指定文化財)
1921年、河東鉄道(長野電鉄)が川崎造船所兵庫工場で製造。河東鉄道3号機。1934年に長野電鉄より譲り受け、1940年、空気圧縮機、空気ブレーキ取り付け。旅客と、日本冶金大江山製造所の貨物輸送に活躍し、1967年まで稼動しました。



103号蒸気機関車。
アメリカのH.K.PORTER CO.社が1915年に製造し、長門鉄道を経て、1947年、東洋レーヨン滋賀工場で入替用に使用、1964年まで稼動。同年、宝塚ファミリーランドへ寄贈され、カウキャッチャーなどが整備されたのち、展示保存されていました。





京都市の大宮交通公園に展示してあったC160は、同公園の改修に伴って、加悦鐡道保存会に譲渡され、2019年12月に「加悦鐡道資料館」に帰郷し、旧加悦駅の横に展示されています。
上の写真は大宮交通公園にあった時(2019年9月28日)のものです。



投炭練習機。
蒸気機関車のボイラーに石炭を投入する基本動作、火床の理想的形成方法などを訓練するための設備で、左の石炭庫から右のボイラーの中に投入します。


手動式の転車台で、現在でも動かす事ができます。




キハ101。(与謝野町指定文化財)
1936年、加悦鉄道10周年を記念して、日本車輌株式会社で新造した半鋼製片ボギー車。貴重な三軸車。第2次世界大戦中は木炭を燃料にしたこともある。
2004年4月、動態化復元に成功しました。



40900形 内燃三等荷物動車(キハユニ51号)。(与謝野町指定文化財)
1936年、芸備鉄道(昭和12年国鉄が買収)が発注し、日本車輛株式会社で製造。40900形キハユニ18。1952年、舟木鉄道(昭和36年廃止)へ払い下げ。1962年加悦鉄道に譲り受け、改造後キハ51。1985年まで稼動。1994年キハユニ51に修復。ローカル線専用のデッキ付き。



DB201。
1953年、株式会社森製作所で製造。戦後、石炭価格の高騰に伴う運転経費の増大に対処するため購入。蒸気の足回りを利用した草分け的ディーゼル機関車。森製作所製機関車の唯一の生き残り。”森ブタ”の愛称で親しまれています。1999年動態化復元に成功しました。







DC350形内燃機関車(DC351号)。
1956年、南部鉄道が汽車製造(株)で製造。1967年、加悦鉄道が譲り受け、蒸気機関車廃止後の日本冶金工業大江山製造所の貨物列車を牽引しました。



DB202。
1963年、株式会社日立製作所で製造。日本冶金川崎で、構内側線、神奈川臨海鉄道で1984年まで使用しました。動態保存中。



小型内燃機関車(KD-4) 通称「カトーくん」。
1956年、日本通運が加藤製作所で製造。キリンビール専用線、専売公社専用線などで使われていましたが、1976年廃車になり、1999年加悦鉄道が譲り受け展示しました。動態保存中。

後方に続くのは、遠州鉄道ト400形無蓋貨車(ト404)。
1923年遠州鉄道が大阪梅鉢鉄工所で製造。2000年遠州鉄道で廃車となり、加悦鉄道保存会が譲り受け展示しました。
加悦鉄道ではニッケル鉱石を輸送するための無蓋貨車を50輌以上保有していました。



ラッセル雪かき車 キ165。
1938年、旧国鉄土崎工場で製造。山陰線で活用した雪かき車。後部に連結した蒸気機関車より動力と圧縮空気を供給され、前方と左右の翼で積雪を左右に押し分けて除雪を行います。1981年加悦町が展示用として国鉄より借用しました。




TMC100。
1961年、富士重工宇部工場で製造。保線用として譲り受け。方向転換もできるラッセル併用多目的車輌。動態保存中。




ハブ3号形客車 付随荷物緩急車。(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1889年ドイツで製造、九州鉄道が購入。1922年に伊賀鉄道へ払下げ後、1927年から加悦鉄道で走行。客室(定員24人)と手荷物室にわかれています。



ハ10形付随客車。(ハ10号)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1926年、伊賀鉄道が大阪梅鉢鉄工所で製造。加悦鉄道創業の際、新車を譲り受けました。二重屋根を持つボギー台車で、創業から1968年まで旅客輸送に活躍しました。



内部。中央一段高くなった屋根の下に明り取りの窓があります。







ハ4975形付随客車。(ハ4995号)(与謝野町指定文化財)(日本産業考古学会産業遺産認定)
1893年、旧逓信省鉄道庁新橋工場で製造。1928年、鉄道省より加悦鉄道に譲り受ける。定員40人。木造、2軸、二重屋根を持つ、明治期の代表的非貫通型客車で、「マッチ箱」と呼ばれていました。製造当初の照明は天井より吊り下げたランプでした。1935年に廃車となり、加悦駅構内で倉庫として使われていましたが、1970年復元されました。


椅子は畳貼りになっていました。




サハ3104。
1925年、藤永田造船所で製造。キハ083稼動までのつなぎとして譲り受け。元は電車でしたが、加悦鉄道では客車として1972年まで朝夕時のみ稼動(3年間)。その後側板を撤去し、休憩車として利用。1996年移転に伴い、”カフェトレイン蒸気屋”に改造しました。
閉園前のためか、レストランは営業していませんでした。



京都市電 N5号。
京都市電は、1985(明治28)年、京都の七条駅-伏見間に日本最初の電車として開通し、1961(昭和36)年、京都駅-北野神社間の廃線によって廃車しました。北野線所属28両中の23号車(1910年梅鉢鉄工所製造)が宝塚ファミリーランドを経て譲渡、展示されていました。
同じく北野線で走っていた1911年梅鉢鉄工所製で京都市平安神宮で保存されている市電が、2020年に重要文化財になったので、これも同じような価値がある車輌ではないかと思われます。


以上のように、加悦SL広場には蒸気機関車6輌、内燃機関車9輌、付随客車6輌、その他の車輌6輌で計27輌の車輛が展示されています。
これだけの数の貴重な産業遺産が残るSL広場、閉園になったら、これらの車輌はどうなるのでしょうか? 保存のために、与謝野町や京都府が何とか動いてもらえないものでしょうか?



加悦SL広場がある場所は、元は加悦鉄道の「大江山鉱山駅」があったところです。この南西方向には大江山があり、その北西山麓から1934年から1945年までニッケル鉱石が掘り出され、この駅から運び出されていました。大江山鉱山の採掘には、日本人鉱夫の多くが出征し人手が足りなくなると、学生、囚人が大量に投入され、さらに戦争の連合軍捕虜が投入され、強制的に労働を強いられました。



SL広場の近くに3本の煙突が立っているのが見えました。これは、ニッケル鉱山の跡で唯一残っているもので、採掘した土を乾燥させるための設備でした。大江山ニッケル鉱山の跡がこんなに近くにあるとは全く意外でした。

辺りは今では「大江山運動公園」になり、アスレチックやグランドゴルフができるようになっており、近くには「道の駅 シルクのまち かや」「よさの野菜の駅」「リフレかやの里」「加悦工芸の里」などの施設が立ち並んでいました。


これでいいのか京都シリーズ もくじ

2020-03-20 00:44:15 | これでいいのか京都
京都が京都でなくなる、最近の京都の町の破壊状況はひどいもので、あちこち見て回って実感してきました。
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

まもなく建て替えられる京都バス高野車庫

2020-03-11 01:07:06 | 建物(京大以外の京都府の)
高野橋のたもと、川端通りと北大路通りの交差点に、京都バスの高野車庫があり、敷地の南西端に二階建ての事務所兼整備工場の建物が建っています。




いつから建っているのかわからないけれど、シンプルで懐かしい感じの建物です。

しかし、近寄ってみると、建て替え計画の札が出されていました。
まもなく5月から建て替えの工事が始まり、地上3階建てになるそうです。建物が高くなると、比叡山も少し見えなくなるかもしれません。


玉の湯で「極楽映画館写真展」を観る

2020-03-08 02:04:50 | お風呂屋さん巡り
中京区押小路通り御幸町西入ルにある銭湯「玉の湯」で、「極楽映画館写真展」が開かれているので、見に行ってきました。



建築史家の藤森照信さんの著書「藤森照信のクラシック映画館」(青幻舎)の出版を記念して、同書のために昔懐かしい映画館の写真を撮影した中馬聡さんの写真が玉の湯に展示されています。(2020年3月2日~4月24日)
展示は玉の湯の営業時間(午後3時~午前0時)内。日曜日は休みです。



前面にある男湯のタイル絵。



女湯のタイル絵。

銭湯で写真展って、どこに展示してあるのだろうと思って中に入ると、何と、写真は浴室の中、タイルの壁に写真が貼られ、ビニールでカバーされていました。
明治36年から全国各地に広がり、多くの人々の娯楽の場となった映画館の建物の中から、新潟県上越市の高田世界館や愛媛県喜多郡の旭館などの写真が展示されていました。ただし、見れたのは女湯のみ、男湯に展示されている写真は備え付けのファイルで見ました。

お湯に浸かりながら、懐かしい映画館の写真を見られるなんて、ほんとに「ごくらく、ごくらく~」でした。
でも、じっくり説明文を読んでいたら、ぼ~っとのぼせてきそうでした。

お風呂は右列に洗い場、左側に深い浴槽と浅い浴槽、突き当り奥にサウナ、その手前の右側に水風呂、左側に薬湯(本日はよもぎ湯でした)、洗い場の手前には低周波風呂があります。
ペンキ絵もタイル画もありませんが、ガラスの裏から青と黄色の光を当てて模様を描いた壁がきれいでした。
男湯にはライオンと羊の吐水口があるようです。
玉の湯特性のタオルやTシャツも売られていました。



ゆっくりお風呂に入って、写真展を観て、外に出ると、こんなことになっていました。