ビバさんのさんぽ道

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旧御所水道ポンプ室

2019-11-02 01:58:05 | 建物(京大以外の京都府の)
びわ湖疏水船で山科四ノ宮から下ってきて、蹴上の終着点に着くと、そこには立派な旧御所水道ポンプ室がありました。九条山浄水場ポンプ室とも言われ、ここから御所へ流す防火用の水を大日山貯水池に汲み上げるためのポンプ室でした。


1912(明治45)年竣工。レンガ造り平屋建。琵琶湖第二疏水の工事に伴って完成し、設計は片山東熊と山本直三郎です。
御所に水を送るために、高い位置であるここに作られました。大正天皇が皇太子だった時に琵琶湖から船でここまで下って来る計画があり、到着時に高官達が入口前で揃って出迎えるために、疏水に向かって立派な玄関が作られています。中にはポンプがあるだけです。




船から見上げた玄関。円柱付きのバルコニーが玄関前にあるネオ・ルネサンス様式の造りです。



船から降りた場所が建物の真ん前で、狭い空間しかなく、建物全体の姿を撮るのが難しかったです。



疏水に面した正面の両側に張り出し部分があります。レンガ造りの隅は石積みになっています。



西面の入口。屋根の上にはドーマー窓があります。



南側に回り込んで敷地から出るあたりにも、コンクリート造りの変わった建物がありました。


最近、旧御所水道ポンプ室は文化審議会によって、国の登録有形文化財に指定するように答申されました。



すぐ近くにインクライン(傾斜鉄道)のレール跡があり、動物園前の船溜まりまで528mの間、三十石船を乗せて運ぶ台車が保存展示されています。



インクライン横の高台に本願寺に防火用の水を送る水源地の跡がありました。
京都駅近くにある東本願寺までも防火用の水が送られていたのです。

琵琶湖と東本願寺との高低差52.8mを利用して、自然水圧により御影堂の屋根まで水が噴きあがるという仕組みが、田邊朔郎の設計で作られました。ここで一旦水を貯め、専用の水道管(直径30cm)を、三条通、白川沿い、四条通、大和大路、五条大橋の下、河原町通りをへて東本願寺まで地面の下を通しました。3年の工期をかけて1897(明治30)年に完成しましたが、現在は管の老朽化で使われていません。



近くに田邊朔郎(1861~1944)の銅像もありました。片手に設計図を持つかっこいい姿です。

幕臣の家に生まれながら、東京帝国大学で土木工学を学び、第三代京都府知事北垣国道に引かれて、23歳の時から疏水工事に携わり、28歳の時に完成させました。

この時には見ることができなかったのですが、疏水合流トンネルの北口に田邊の揮毫した扁額「藉水利資人工(すいりをかりてじんこうをたすく)」(明治天皇の竣工式勅語より)があります。自然の水の力を人間の仕事に役立てるという意味です。

この近くに「疏水工事殉職者弔魂碑」があります。田邊朔朗が1902(明治35)年に自費で建立しました。田邊の筆で「一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんじ、ばんこおんにうるおう)とあり、17名の殉職者を慰霊しています。



その辺りの高台からは向かいの蹴上浄水場や市街地を遠く眺めることができます。
今も疏水を流れてきた水が、京都市民の命の水となっているのです。



その近くに、「義経地蔵」という大きなお地蔵さんがありました。
遮那王(源義経)が金貸し吉次に連れられて奥州に向かうため、粟田口から九条山の坂に差し掛かった時、馬に乗った平家の武者9人とすれ違い、馬が水たまりの水を跳ね上げて遮那王に掛けてしまいました。平家の武者達の無礼な態度に怒った遮那王は、吉次の止めるのも聞かず、9人の武者達を次々と切り殺してしまいました。冷静になった遮那王は、自分の倒した武者達が哀れになり、街道沿いに9体の地蔵を建てて供養としました。この地蔵はそのうちの一体と伝えられているものです。「蹴上(けあげ)」の地名は、武者の乗った馬が水を「蹴上げた」事からこの地名が始まったとも言われています。


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