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ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

復元された京都府旧議場

2014-11-15 23:16:59 | 建物(京大以外の京都府の)
       

「京都府庁旧本館は、110周年を迎えます。」
ということで、京都府庁旧本館で10月30日~11月16日「観芸祭」が開かれています。

中でも、今年は旧議場が明治の姿に復元されたので、11月15日(土)と16日(日)に限り、旧議場が一般公開されています。

15日(土)15:00~17:00
16日(日)10:00~12:00,15:00~17:00
申込不要、無料です。それぞれ11:00と16:00に建物の解説があります。




いつもの通り、京都府庁旧本館の入口から入り、





紅葉したしだれ桜の木を眺めて中庭を通り過ぎると、





建物の裏側に旧議場が続いています。
京都府庁旧本館玄関のちょうど反対側、北からの眺めです。
マンサード屋根。




こちら側にも車寄せがあり、府議会議場に直接入れます。






この建物は1904(明治37)年12月20日に竣工。翌明治38年11月15日に(まさに本日。ちなみに11月15日は坂本龍馬の誕生日であり、命日でもあるんですよね。)ここでの最初の府議会が行われ、以来66年間使われました。京都の府議会はここができる前は、明治12年最初の選挙が行われ、府庁は二条城、府議会はこの地にあった中学校の聖堂で行われ、初代議長はかの山本覚馬でした。

新しい府議会場が府庁西側にできた後、ここは大幅に改修され、平成24年まで府政情報センターとして使われていましたが、今回、天井、壁、1階を中心に明治初期の姿に復元修復されました。

壁は漆喰で塗られていて、議場正面の大きな面を平らに塗るのは大変な作業だったそうです。





二階の回廊は傍聴席、その上には採光のための半円形の窓がついています。

元は天井からシャンデリアが下がっていて、飾りカーテンもありましたが、今回の改修ではまだ復元されていません。




二階の柱は漆喰ではなく鉄パイプ製、アーチ部分はレンガでできています。
全体にルネサンス式に和風の要素も取り入れたデザインです。




正面の要石他、いろいろな箇所にアカンサスの植物模様が散りばめられています。






























議員席は全部で60席。意外に狭いものでした。
一番前の席だけ机下に引出しがあり、議会の開始を知らせる鐘が入れられていたものと思われます。

床には黄麻でできている赤いじゅうたんが敷き詰められていて、床の下には床暖房の鉄パイプが設置されています。明治の昔からスチームヒーターの暖房を取り入れていたとは驚きです。




演壇と議長席。
議長席や理事席部分の木は明治当初のままです。




その横の理事席。ここに蜷川さんが座っていたのかな。


旧本館の方で改修工事のパネル展示があり、昔の議会の写真もありました。二階の傍聴席にぎっしりの人があふれているものもあり、京都府政の歴史を感じさせるものでした。
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間もなく壊される旧春日小学校

2014-11-06 23:57:15 | 建物(京大以外の京都府の)
上京区河原町丸太町西北角にある旧春日小学校校舎。





春日小学校は創立が1869(明治2)年で、明治10年にこの地に移転してきました。
現在の建物は昭和初期の建物ですが、平成7年に廃校となり、現在は校舎を使ってデイケアセンターや学童クラブが行われています。

左側が昭和の校舎、右側が後で増築された部分ですが、中でも繋がっているそうです。鉄筋コンクリート造り、3階建て。設計は京都市営繕課。

河原町丸太町を通る度に、昭和初期の小学校建物に心惹かれていいなあと思っていました。ところが、統合先の御所南小学校の児童数増加による過密問題の対策として、春日小学校跡地に新校舎を建設することになり、11月にこの校舎が壊されることになったそうで、その前に真近に見ておきたいと思って、行ってきました。



平日の昼間だったせいか、門が開いていて、校庭に入ることができました。





縦長の窓とアーチ窓が特徴的な外観です。




正面一番高い所に、校章でしょうか、丸に「春」の字が掲げられています。





校庭の隅にはプールがあり、子供達がいた時のままに水を湛えていました。
壁には子供達が描いた絵が。





校舎の中をちょっと覗いてみると、学童クラブの製作途中のかぼちゃのお化け等がありました。
校舎が壊されたら学童クラブやデイケアセンターはどうなるのだろう?


京都市中心部の小中学校は統廃合でどんどん少なくなっていて、校舎も壊されていくのが多くてもったいないことです。いくつかの学校は別の用途ででも活用されて残されているのですが、この辺りの風景のシンボル的存在だったこの学校、何とか残せなかったものかと残念です。

そもそも、統合しておいて、そちらに児童が増えたからまたこちらに戻すなんて、どういうこと!?


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楽町楽家2014

2014-06-05 01:14:32 | 建物(京大以外の京都府の)
2005年から開催されてきている「楽町楽家」。住まいとしての町家を体感し、その良さと魅力を知ってもらったり、町家で暮らすための知恵や課題などを学ぶことができるように、たくさんの町家が公開されています。

今年は5月24日~6月1日に開催されていたので、何軒かのお宅を訪ねさせていただきました。




加藤さんのお宅。
築99年の上京区西陣の伝統的な織家建て町家で、40年位前まで織物を織っていた機がそのまま工場あとの土間に据えられていて、糸繰機も二階の間にありました。しかも、織物業をしていた当時とほとんど変わらない間取りのお家に今も住んでおられるのが驚きでした。
通り庭にある井戸は今も飲用に使えるおいしい水が湧き出ています。
明治時代の五月人形もよく保存されて、飾られていました。


次にお訪ねしたのは、


下京区島原大門のすぐ東にある、




「ギャラリーのざわ」さん。
住みながら、ギャラリーとして文化的催しに自宅を提供されているお宅です。
大正時代の建築か、戦前は足袋屋さんをしておられて、縦4列に部屋が並ぶとても大きな町家でした。

布や紙製品の作家さんの作品が展示されている中で、建築士末川協さんの「京町家の構造について」の講演をお聞きしました。
京町家の耐震性について、地震の動きを柔軟に吸収する京町家では、へたにすじかい等入れない方がいいということで、今まで何となく感じていた「地震に弱い木造家屋」という先入観念を覆されました。しかし、木造住宅にも、江戸時代からの京町家、昭和初期以降の「町家」、その後の在来工法の木造住宅、建築基準法施行以降の住宅といろいろあるので、それぞれに耐震改修にも方法が違うようです。いろいろ勉強になりました。




最後に訪ねた長野さんのお宅。
大正初期に中京の呉服屋さんがお母さんのために北区衣笠に建てられた別荘で、町家というよりは郊外の邸宅という感じの建物です。現在はご当主が論語の塾と少林寺拳法の道場として使われています。
明治時代の錦絵や着物の図案本もたくさん展示されていました。


追記

中京の呉服屋さんというのは高倉三条にある「千切屋」さんで、お母さんが亡くなられた後はここで呉服の陳列会を催し、その頃は西大路もまだ整備されていなかったので、千本今出川の電停から人力車でお客を送迎していたそうです。
また、上村松園さんの実家の茶葉屋も「ちきりや」と言って交流があり、その絵「人生の花」は千切屋の娘が嫁入りする日を描いたそうです。
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堀川団地

2014-03-23 00:29:55 | 建物(京大以外の京都府の)
3月1日~23日堀川団地を会場にして「City in Memory(CIM)記憶の街」というアートプロジェクトが行われていたので、かねて訪ねてみたいと思っていた堀川団地に行ってみました。



堀川団地は戦後全国初の店舗付集合住宅として、丸太町通りから北、中立売通りより南の堀川通りに沿って何棟もの建物が建てられ、60年以上の歴史を刻んで来ています。南から順に椹木町団地、下立売団地、出水団地1~3棟、上長者町団地となっています。
京町家をモデルに設計された個性的なこの団地は、人々のあこがれの的であった頃から、年月を経て時代の変化とともに役割が変わりつつあり、長い歴史を積み重ねてきた団地の隅々に住んできた人達のささいな日常の名残が漂っています。






昨年10月から12人のアーティストが「記憶の街」というテーマのもと、団地に実際に滞在して住民の方々と関わりながら創造活動をしてきました。
今回は「記憶の部屋」という団地の一室で長時間体験する部屋と、「記憶の倉庫」という団地の住民の方々から集められた品が展示されている部屋が公開されていましたが、当日参加で案内していただけたのは、「記憶の倉庫」の方でした。

期間中の木~日の毎日7回7名づつが団地の一室に案内していただけました。



商店街の端にある階段を上がると、




2階、3階が住居部分になっています。
これは堀川通りとは反対側から見たところです。



2階の廊下の外側に意外に広い庭のような空間が広がっていました。




「記憶の倉庫」のお宅の中です。1軒の住宅は6畳と4.5畳の和室と3畳位の台所とトイレ、玄関だけの間取りでしたが、収納部分もたくさんあり、一人で住むには十分な広さ、家族で住むにはやはり狭くなってくるでしょう。




いろいろな住民の方の家族の思い出の品々が集められていました。




窓から堀川通りとその向こうに堀川を見ることができます。


この近くには白山湯と長者湯という銭湯が今も営業しているのは、堀川団地に内湯がないせいでしょうか。


団地の中には既に改修中の棟もありました。この棟の商店も内部で工事が行われていて、どのようにリニューアルされるのか、心配です。

外観は残して内部を住みやすい住宅として改修し、堀川通りの景観も守り、商店街の活性化もめざしていくことはできないでしょうか。




おまけ。

堀川下立売交差点の東南角にあるこの建物も前から気になっています。庇の下の模様が中華の丼の模様に似ているのです。

市民がおすすめする「京都市建物遺産」に推薦したいです。

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橋本変電所を経て石清水八幡宮へ登る

2014-02-02 02:11:06 | 建物(京大以外の京都府の)
橋本の古い街並みを出て京街道を東へ少し行ったところ、街道と京阪電車の軌道の間に、京阪電鉄橋本変電所があります。


鉄筋コンクリート造二階建、1926(大正15)年竣工の近代化産業遺産ですが、今でも働いています。



南側の「かもしか児童公園」から眺めていると、京阪電車が走り抜けて行きました。
電車の先頭の向こうに見える対岸の天王山の中腹に、アサヒビール大山崎山荘の赤い屋根が見えました。




京街道から変電所に向かう道の脇に大きな常夜灯がありました。
石清水八幡宮への道を照らすもので、「天明七年」と彫られていました。




そこから八幡宮に向かって急な坂道が続きます。
橋本の駅の南側、男山の北側斜面一帯にぎっしりと一戸建ての住宅が建てられています。よくこんなに急な坂道の町に住んでいられるものだと、ぜーぜーと坂道を上りながら思いました。




住宅街の中に狩尾(とがのお )神社があります。
石清水八幡宮が鎮座する前からこの地にあった神社ですが、明治10年に石清水八幡宮の摂社になっています。
社に行く参道はさらに険しい階段になっていたので、パスさせていただきました。



住宅街を過ぎて八幡宮が近づいて来ると、辺りは竹林が多くなってきました。
きれいに整備された林もあり、生い茂り荒れ果てた林もあります。整備された竹林では、春になるとタケノコがたくさん生えて来るのでしょう。




八幡宮の境内に着くと、エディソンの記念碑がありました。
電球を発明したエディソンが、そのフィラメントに八幡の竹を使い続けたのです。




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八幡市橋本の街を歩く

2014-02-02 01:40:13 | 建物(京大以外の京都府の)
2月1日に「歩いて・紅茶で・新酒であったか橋本の旅」という催しがあったので、行ってきました。

八幡市商工観光課の主催で、午前10~11時の間に京阪橋本駅で受付して、約4キロと約5キロの二つのコースを自由に散策して、石清水八幡宮を目指すものです。


受付場所は京阪橋本駅と言っても、駅から少し西に行った所にある駐車場でした。駅に案内板がなかったので、わかりにくく、やっと見つけました。



駐車場と駐輪場のあるこの辺りが鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が陣屋を築いた所らしいです。
会津藩や新撰組もこの戦いで大勢亡くなったところです。

今は京阪電車が走り抜けています。



京阪橋本駅のすぐ目の前にこんな石碑がありました。

写真右面に「橋本渡舟場三丁 山崎停留所十丁 柳谷観音一里廿丁 長岡一里 粟生一里半 善峯二里」、左麺に「昭和二年十月 京都三宅安兵衛遺志建之」、写真には出ていない一面に「湯沢山茶久蓮寺(ゆたくさんちゃくれんじ)跡」、もう一面に「京大坂街道 右 八幡御幸橋八丁 左 樟葉八丁 南 志水近道廿丁」と彫られていました。

大正末から昭和初期(1921~1930年)にかけて、京都市中京区の西陣帯地卸商、三宅清治郎が父安兵衛の遺命にもとづいて京都府南部を中心にたくさんの石碑を建立したものの一つだということがわかります。

湯沢山茶久蓮寺は常徳寺という曹洞宗の寺院のことで、現在の京阪軌道上にあり、1813(文化10)年に焼失したという記録が残っています。豊臣秀吉が訪れた時に、茶道に詳しい秀吉にお茶を出してまずいと言われると困ると思い、白湯を何杯も差し上げたため、秀吉が「湯たくさん茶くれん寺」と言い、以後寺号としたという伝説が残っています。

この碑に、「山崎停車所」が書かれていることから、明治43年に京阪電車が開通した後、橋本駅利用者のために、橋本の渡船場から対岸に舟で渡り、国鉄山崎駅や柳谷観音、長岡天神、粟生光明寺、善峰寺などへ行く道しるべとしたものです。



橋本駅の北側、東西に大阪と京都を結んだ京街道があり、その両側に江戸時代の宿場町と明治になってからの遊郭の名残りを残す建物が並んでいます。




一番大阪寄りのほうにある銭湯「橋本湯」。
昭和4年創業です。
























橋本検番だった大きな木造の建物もありましたが、写真を撮り忘れました。



通りに面した欄間に手の込んだ彫刻が彫られているお宅が多かったです。




ばったり床几のあるおうちも、



ステンドグラスのあるおうちもあちました。




街道の家の裏側に流れる小川に橋がかかり、木津川の堤防、山崎への渡し場に続いていました。



橋のたもとに道標があり、「柳谷わたし場」「山さき あたご わたし場」「大坂下り舟の里場 津の国そうじ寺 わたし場」と彫られています。


橋本の街は京阪電車の窓から見て前から来たいと思っていたのですが、一人で歩く機会がなくて、今回の企画を新聞で見つけてやっと訪ねることができました。
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旧建部歯科医院

2014-01-31 21:53:00 | 建物(京大以外の京都府の)
こんなに近くに登録有形文化財の建物があるのを知りませんでした。



左京区下鴨本通りと北大路通りの交差点、洛北高校前の一つ南の「一本松」バス邸のすぐ前、下鴨本通りの西側、通りに面して東に向かって建っているこの建物、




前からちょっと気にはかかっていたのですが、古ぼけた建物の玄関に「建部歯科」と出ているけれど、どうも診察はしていないようなので、廃業したのかなあと思ったり、不動産か建築事務所のような看板もかかっているので、「ハテナ?」の建物でした。

ところが最近、玄関前にこの「登録有形文化財」の標識がかけられているのに気がつきました。




帰って検索してみると、「旧建部歯科医院」でした。

1953(昭和28)年、増田友也氏の設計、京都大学体育館を設計した方です。
鉄筋コンクリート造2階建、東西6.5m、南北6.4m、建築面積48㎡という小規模で、「診療室をもつ小住宅」として発表され、戦後鉄筋コンクリート造小住宅の好例ということでした。

屋根は片流れ、東面、玄関右の診察室側の壁面に上下に通した縦ルーバーを嵌めているのが特徴的です。



隣のパーキングの看板が大いにお邪魔ですが、




西側から見たところ。

南側は2階建の居住部、北側は診察室としていたそうです。2階の広いバルコニーが住んでいた家族の暖かい生活を感じさせています。

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釜座町町家で掘り出し物市

2014-01-26 00:55:34 | 建物(京大以外の京都府の)
釜座町町家(かまんざちょうちょういえ)でいろいろな町家の蔵や押し入れから出てきた掘り出し物を販売する市が1月25日(土)と26日(日)に開かれているので、見に行ってきました。



三条通り新町西入ル北側にあります。
木造2階建、明治初期に建てられたもので、二階は虫籠窓図子の江戸期京町家の特徴を残しています。
この「町家」を「ちょういえ」と読むのは、明治20年頃に釜座町役に家が託された後、代々町内会所有の町家として寄り合いや地蔵盆など地域の伝統的催事場所として使われてきたためです。




近年、京町家netが改修工事を行い、京町家作事組・京町家情報センターとしても使われています。





入ったところは「みせ」の間の土間になっていて、




通り庭(土間)の上は火袋の吹き抜けになっています。
修復でできるだけ当初の形に復元されています。




前栽の向こう側には「はなれ」があります。





「掘り出し物市」では1階の間やはなれに食器や着物、掛軸などいろいろな品が展示されていて、たくさんのお客さんでごったがえしていました。
売り上げは町家を紹介するイベント「楽町楽家」の運営費に充てられるそうです。

26日も午前10時~午後4時開催されます。
どんどん売れているようですが、後から補充もあるそうです。

「京町家net」について詳しくはこちらで
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節分間近の吉田山近辺

2014-01-23 22:46:16 | 建物(京大以外の京都府の)
今日はこちらへ。



吉田神社にお札を納めに参りました。




節分には少し早いのですが、すでに火炉ができているというので、お正月に飾ったしめ縄を持参しました。




大きな穴が掘られていて、まだ底のほうに少しだけしか入れられていませんでした。




驚いたのは、神社の側の吉田幼稚園がすっかりきれいに建て替えられていて、神社に向かう坂道の横の、以前は木が生い茂った山だったように記憶する所が削りとられて平地になり、たくさんの遊具が備えつられていたことです。園舎からは大きな階段を伝って遊技場に降りてくるようになっていて、大勢の園児さん達が楽しそうに遊びまわっていました。



そして、さらに驚いたこと。



東大路通りを超えて一条通りを西に行くと、旧左京区役所が壊されてなくなっていたことです。

ガーーーーン! ショックです。


R字形外壁の姿が昭和初期の独特の香りを漂わせていた生前の素敵な姿はこちらにあります。
もうこの姿は永遠に見られないのですね(涙、涙、涙)。

京都市が、左京区役所をアクセス不便な松ヶ崎の地に移転させたあと、この建物を支所や区民のための施設に活用してほしいという要望を無視して、京大に売却してしまった結果、このような無残な姿になってしまいました。京都会館と同じように。


もう一つ、旧「喫茶このえ」のあった地には三階建ての民家が建っているし、、、
久しぶりに吉田近辺を歩いてみると、びっくりすることばかりでした。
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鴨沂高校体育館と鴨沂会館

2013-11-21 21:07:30 | 建物(京大以外の京都府の)
鴨沂高校本館のあるキャンパスから荒神口通りを横切って北側に渡ると、運動グラウンドと体育館、温水プールがあるキャンパスがあります。


体育館は、1934(昭和9)年築。鉄骨鉄筋コンクリート造2階建。




右(東)側から見たところ。



左(西)側から。丸い窓とカーブのデザインがあちこちに取り入れられていてモダニズムらしさを表しています。



本館のあるキャンパスと運動場エリアを繋ぐ地下道の出入口は、鉄筋コンクリート造で半円形、円柱を持つ珍しい造形です。
半円の足元はベンチになっていて、運動の途中で休む場所になるでしょう。



校舎側へ渡る地下道の入り口は今は封鎖されています。




体育館の裏側には屋内プールもあります。
プールは1933(昭和8)年に校舎改築計画の第一弾として竣工されたもので、ボイラーを備えた府下校舎では初めての温水プールでした。



スクールバスがありました。
実は、ここの運動場だけでは狭すぎるので、鴨沂高校運動場は紫野にもあり、スクールバスで往復していたのです。
ところがその運動場が他校に譲渡されることになっていて、鴨沂高校のグランドがここだけになってしまうことになり、それでは今ある体育館もプールも壊されることになるのではないかと懸念されるのです。もし、そうだとしてもやはりここだけでは狭すぎる。どうなるのでしょう?






グラウンドの東側に立つ鴨沂会館は京都府立京都第一高等女学校の卒業生団体である京都鴨沂会の会館です。
1936(昭和11)年築、鉄筋コンクリート造3階建。



こちらも設計は十河安雄で、昭和のモダニズムの香りがする建物です。


昭和初期の最新の学校施設がまとまった形で残っている貴重な施設群です。
何とか壊さないで残してほしいものです。




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鴨沂高校の図書館と作法室・茶室

2013-11-21 20:47:43 | 建物(京大以外の京都府の)
鴨沂高校正門の南側、寺町通りに接して建てられている図書館です。


建てられたのは、1938(昭和13)年。昭和8年から始まった一連の校舎改築の最後に出来上がった建物です。
鉄筋コンクリート造2階建モルタル仕上げで、落ち着いた色調のモダニズムデザインです。



円く張り出した部分の内側は階段室です。



閲覧室だった部屋。




書庫の中の本も全て移転されてしまっています。



本館の東側に回ると和風の建物があります。

女紅場時代の九条家の建物がそのまま残っている作法室と、



お茶室です。

山本八重さんがここでお茶を淹れられたのですね。



作法室の中にも炉が切られていて、高校生の茶道修行に使われてきた所です。

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京都府立鴨沂高校の建物を見学する

2013-11-21 00:35:12 | 建物(京大以外の京都府の)
建て替えが予定されている京都府立鴨沂(おうき)高校の校舎を見学する機会がありました。



河原町荒神口から西へ、京都御苑の東寺町通りに面して西に向かって建っている純和風の門が鴨沂高校の正門です。

この門は、鴨沂高校の前身である「京都新英学校及京都女紅場(にょこうば)」が明治5年に丸太町通り土手町にあった九条家河原町邸の屋敷を利用して開校した時からのものです。
明治33年に現在地に移転してきた時にこの門も移築されてきました。

女紅場と言えば、新島襄の妻、八重が教育に携わったということで、今大河ドラマでも有名になった日本初の公立女学校です。元あった場所の鴨川丸太町橋の西のたもとに「本邦高等女学校之濫觴 女紅場址」の碑がたっています。

この学校は明治37年に京都府立第一高等女学校となり、昭和23年に新制の府立鴨沂高等学校となりました。



「京都府立鴨沂高等学校」



門脇に立つ「明治天皇行幸所京都府尋常中学校」の碑。



ウィーンの森。

玄関の南側にある木々が繁った庭。ベンチに座ってお弁当を食べたり、放課後に友達とおしゃべりしたりと、生徒たちの憩いの場になっていたことでしょう。


本館は昭和10年に完成したコの字型の建物で、教室や職員室のほか講堂、食堂もこの校舎の中にあります。
本館は御所に向かって西を向いて建っていて、鉄筋コンクリート造三階建て、中央の和風の屋根が特徴的です。
設計は京都府営繕技師、十河安雄。




玄関入口部分の重厚な構え。





左右のコの字部分には、南棟には主に普通教室、北棟には部活動室、食堂等、とてもたくさんの部屋が並んでいます。
普通教室の他に、生物・化学・物理・調理・音楽・書道・情報等の目的別の部屋とそれぞれの準備室が揃っていて、教育環境が整えられていたことがわかりました。


部室の中には軽音楽室もあり、もしかしたらジュリーもここで歌っていたかもと思いました。



建物の裏(東)側から見たところ。ところどころに曲線のデザインが取り入れられていて、モダニズムを感じさせられます。




校長室には造りつけの棚が。



廊下。




教室。




こんな古い教壇が残っている教室もあります。




階段。



袴をつけた女学生が登り降りしやすいように、段の高さは低いものとなっていて、永年の使用の間に木がすり減っています。



階段の手すりには曲線が取り入れられています。




階段踊り場に手洗場があります。




三階中央にある「講堂」。
昭和12年には、ヘレン・ケラーが来校し、ここで講演会が開かれたそうです。



とても広い空間で、両側上部に小さなアーチ窓が並んで明り取りの役割を果たしています。




老朽化、耐震化のために建て替えるということで、高校の授業は別の場所で行われていますが、見学会で見てみると、今でも十分に使える建物のようでした。
新しい校舎のプランもできていないのに、拙速にとり壊してしまうよりも、むしろ登録有形文化財として保存することはできないのでしょうか。
耐震強度も再度十分に調べ直して、歴史的にも、建築文化的にも貴重なこの建物をできるだけ残して改修・使い続けていってもらいたいものです。

卒業生達の中から鴨沂高校の校舎を考える会が立ちあがって、在校生達に迷惑をかけないように配慮をしながら、署名運動にも取り組んできています。


鴨沂高校の建物見学の記事はまだ続きます。

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50周年を迎えた京都府立総合資料館

2013-11-05 23:19:45 | 建物(京大以外の京都府の)
11月5日、こちらの展示会に。

国宝「東寺百合文書」はまもなくユネスコの世界記録遺産に指定されようとしています。
資料館では毎年「東寺百合文書」に関連する展示会を開いています。今年は10月12日(土)~11月10日(日)に開催されていたました。(同時開催 みんなで作る50年史) 



京都府立総合資料館、いろいろとお世話になりました。資料館は1963(昭和38)年の開館から今年で50周年を迎えています。

まもなく建て替えられるとかで、展示会の中でも、今の南側府立大学農場の辺りに建てられる新しい館の模型が展示されていました。かなりの大規模な箱ものになるようです。

この建物の姿を見られるのもあとわずかかもしれません。




なお、次回の展示会は「資料にぞくっ!~昭和で25年・平成で25年を所蔵品でふりかえる~」(同時開催 みんなで作る50年史) です。

2013年11月14日(木)~12月15日(日)  午前9時~午後4時30分
 (休館日 11月23日(土・祝日)、12月11日(水))



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100周年を迎えた大谷大学赤レンガ学舎

2013-11-02 22:27:43 | 建物(京大以外の京都府の)
たまたま前を通りかかった時にこの看板を見つけて、

10月12日~11月28日、大谷大学博物館で開催されていた「赤レンガ100周年記念 赤レンガの学舎」展を見てきました。



東京巣鴨で開学した「真宗大学」が、1913(大正2)年に現在の京都市北区小山、烏丸北大路の地に移転、「真宗大谷大学」として建てられてから今年で100年になります。
その時造られたのは、赤レンガ造本館・講堂、図書館、学寮(学生寮)でしたが、当時の建物が今もそのまま残っているのは、本館・講堂部分で、現在は「尋源館」と呼ばれています。


「赤レンガの学舎」展は前にも見たことがあります。(2010年の記事)



今回は建物の中にも入ることができたので、探検してみました。

建物の中央は車寄せ表入口側から裏開口部まで通り抜けできるようになっています。



二階に上がる階段は元はこの中央部分と建物の両端側にあったのですが、1982(昭和57)年の改装で建物の両端部分がばっさり切り取られてしまいました。



キャンパスが狭くなったとはいえ、堂々と両側に伸ばしていた翼をもぎ取られ、建物としてのバランスが悪くなったようです。もったいないことです。



両側の階段を取り外した時に、階段の横板、この部分を残してベンチを作ったそうで、



尋源館の二階ロビーに置かれていました。
ベンチの下に階段の横板を嵌め込んだ溝跡がありました。

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京の夏の旅2013(4)長谷川家住宅

2013-09-10 17:28:34 | 建物(京大以外の京都府の)
「京の夏の旅」文化財特別公開で9月いっぱい公開されている長谷川家住宅に行ってきました。



京都市南区東九条札辻町にあり、あまり行ったことのない方面でしたが、京都駅から市バス81号系統で「札ノ辻」で降りると徒歩三分、地下鉄十条駅からでも徒歩10分と意外に近かったです。


住宅の前の通りは高倉通り、ずっとさかのぼると御所正面に突き当たる位置です。一筋東は河原町通り、そのすぐ東に鴨川が流れていて、この辺り一帯はほんの少し前(!)までは一面の農村、九条家の領地だったそうです。長谷川家は室町時代から代々東九条村で農業を営んできた庄屋の家です。



幕末には、長州征伐の時には会津藩士達が投宿したそうです。



門を内側から見たところ。



門から玄関までの道。



住宅は1742(寛保2)年に建てられ築約270年です。
農家建築らしく松の大木の棟木がある広い土間がありながら、町家の特色も残し、二階の窓は虫籠窓で光が入るのを調節しています。



玄関の横には昔の消防ポンプがありました。


家の内部は撮影禁止でした。
2011~2012年に修復工事が行われ、2012年12月に国の登録有形文化財に指定され、「京都市民が残したいと思う京都を彩る建物や庭園」にも選定されています。
現在は「長谷川歴史・文化交流の家」として、コンサートや織物教室等に活用されているようです。

建物だけでなく、11代当主であった長谷川良雄の描いた水彩画や、10代当主であった長谷川清之進が描いた「会津軍勢絵巻」、「高瀬川図」、西洋舶来品等が展示されていました。

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