ソニーの元取締役の天外伺朗さんが書かれた『マネジメント革命 「燃える集団」を実現する「長老型」のススメ』を読みました。
内容は、90年代以降に日本企業に採用されてきた成果主義への批判と、なぜ以前のソニーでは画期的な新商品が開発されてきたのかという原因の考察です。この二つの事柄は、ソニーで画期的な新技術を開発せしめた企業内の要素を、成果主義は破壊してしまうという論旨で結びつきます。
内容自体はオーディオブック『「フロー経営」の極意』と重なりますが、そこで天下さんが語ろうとしたことを、この本でより整理して叙述した印象があります。
一つ「なるほど」と思わされたのが、なぜ成果主義が組織をダメにするのか?という問いに関する天下さんの指摘。
マネジメントという行為では、普通の管理者は「指示」を出します。「指示」を出すのは、その通りに部下が動けば物事にうまく対処できると思っているからです。
しかし、マネジメントにおいて、管理者が物事を完璧に把握しているという事態の方が本当は稀なのでしょう。一人の管理者の判断が複数の部下よりも正しく状況を把握していると考えるほうが、よく考えれば、ありえない話です。
つまり、よいマネジメントを構築する上では、
上司は必ず間違う
上司の指示には絶対に誤りがある
ことを原則とすることが肝要です。
これは、その上司が優秀かどうかという問題とは別の話です。
組織というものが、同じレベルの人たちで構成されていると考えれば、優秀な上司の周りほど優秀な部下が集まっています。つまり、
一人の上司よりも複数の部下たちのほうが正しい
ということがわかります。
経営とは、部下たちの方が物事を知っていることを前提にしたうえで、それでも組織に一定の方向性を出すために仕方なく「指示」を出すものだ、ということになります。
部下というものは、本来、その「指示」を受け取った上で、その「指示」を現場で修正・変更してより最適な解を求めて動くことが求められます、
天下さんはこのことを、「やり過ごし」という言葉で表現し(これは経営学者の高橋伸夫さんが広めた言葉だそうです)、組織にとってはそれが不可欠であることを指摘します。
「やり過ごし」とは、
「上司の指示・命令をみずからの判断で優先順位をつけて遂行し、必要に応じて指示されないことまで自主的におこなって、つねに時機に応じた解決策を提示すること」
と定義できる行動です。天下さんは、よい経営のためには、部下が率先して上司の命令を無視・修正して現場に対応できる環境にあるかどうかが重要であると述べます。
「タテマエ論とは裏腹に、どこの企業でも、健全な運営がされているところは、現場がデシジョンの主体なのだ。それは、現場に最も情報やノウハウが集積しており、現場における判断がもっとも的確で素早いからだ」(p.126)
ここから、上司に本当に求められる資質とは、部下が自由に上司の指示を無視・修正して行動できる環境作りができることであり、また部下が自分の指示をどのように無視・修正してよい成果を上げたのかを見極めることである、という洞察が得られます。
それに対して、部下がどれだけ自分の指示を守っているかどうかだけに気を配っている上司は、部下が現場の情報にあわせて行動することを妨げている点で、好ましくない管理者であるということになります。
上司として求められる資質は、誰よりも賢くなることではない。むしろ、賢いのは部下であるという前提をもちながら、その部下が自分の判断で行動できる環境を作ることができることにある、と著者は言いたいのではないかと思います。
この本では、上記のような「やり過ごし」型マネジメントのさらに上の段階に、「長老型マネジメント」という形態が記述されています。ただ、この後者のレベルのマネジメントは、そもそも記述すること自体がかなり難しいと天下さん自身も自覚されているように思います。
従来のマネジメント=指導者型マネジメントが指示によって部下をロボットのように操作しようとするのだとすれば、やり過ごし型マネジメントは、指示を出しながらも、それが部下によって裏切られることを許容します。
天下さんによれば、90年代まで日本企業が躍進できたのは、このやり過ごし型マネジメントが行われてきたからです。それは、上司自身が、自分が「ダメ上司」であることをうすうす感じながらも、表面上は指示を出して、後は部下に自由に行動させるという形態だったと言えます。
日本企業では上司は「ダメ上司」として部下から半分軽蔑されながら、上司はなんとか愛嬌でごまかしてきた、ということです。また、そんな上司の下だからこそ、部下は自分で勝手に行動できたのだと言えます。
この段階では、上司は、自分の「ダメさ」を半分知りつつ、なんとかそれをごまかしているような状況です。
それに対して長老型マネジメントとは、自分より部下の方が現場について知っていることをはっきり認めるあり方です。このタイプの上司は、「自分は部下よりわかっていない」という考えをはっきり認めながら、同時にそのことに対する劣等感をも克服・昇華しているあり方だと言えます。そのようなことは、口で言うのは簡単でも、実際に到達するのが難しいことは、誰にも分かることだと思います。
つまり、組織の外側の状況も、部下の行動も、すべては自分の外側の動きなのだから、それらを自分でコントロールすることはできないと悟った状態です。
また、そのようにコントロールを手放しているがゆえに、ある種の「流れ」「知恵」みたいなものを洞察できる状態に至っているとも言えます。
このようなスピリチュアルなことは、そもそも記述することには向いていません。そのような「長老」のあり方を言葉で細かく規定しようとすればするほど、それはすべてを手放すことで得られる洞察というものから離れていくからです。
天下さんは「長老型マネジメント」の定義として、「指示を出さない」「愚者のおおらかさ」「徳でおさめる」「自分より能力の高い人が大活躍」「部下を信頼し、包み込む」などと共に、「順調なら任せる。危機的状況ないしは変化が必要なときだけリーダーシップを発揮」ということを挙げています。
それに対し、「やり過ごし型マネジメント」は、「指示を出さない」「部下を信頼し包容・評価」などの特徴を「長老型」と共有しながら、基本的にはチームに自律的に行動させるというレベルで止まっています。
つまり、同じように部下に自由に行動させているように見えても、従来の「やり過ごし型マネジメント」の上司が、部下への劣等感から、危機的な状況では動けなくなるのに対し、そのようなコンプレックスを克服している上司は、個々の状況は部下に任せながら、コントロールを手放すことである種の次元の高い精神状態に達し、それによって状況をより一段高い視点で見ることが可能になっているということです。
しかしこのような洞察は、論理的な言葉で説明することは困難です。しかし、だからこそと言うべきか、そのような境地こそ、本当は、上司が目指すべき状態だと、著者は言いたいのだと思います。
内容は、90年代以降に日本企業に採用されてきた成果主義への批判と、なぜ以前のソニーでは画期的な新商品が開発されてきたのかという原因の考察です。この二つの事柄は、ソニーで画期的な新技術を開発せしめた企業内の要素を、成果主義は破壊してしまうという論旨で結びつきます。
内容自体はオーディオブック『「フロー経営」の極意』と重なりますが、そこで天下さんが語ろうとしたことを、この本でより整理して叙述した印象があります。
一つ「なるほど」と思わされたのが、なぜ成果主義が組織をダメにするのか?という問いに関する天下さんの指摘。
マネジメントという行為では、普通の管理者は「指示」を出します。「指示」を出すのは、その通りに部下が動けば物事にうまく対処できると思っているからです。
しかし、マネジメントにおいて、管理者が物事を完璧に把握しているという事態の方が本当は稀なのでしょう。一人の管理者の判断が複数の部下よりも正しく状況を把握していると考えるほうが、よく考えれば、ありえない話です。
つまり、よいマネジメントを構築する上では、
上司は必ず間違う
上司の指示には絶対に誤りがある
ことを原則とすることが肝要です。
これは、その上司が優秀かどうかという問題とは別の話です。
組織というものが、同じレベルの人たちで構成されていると考えれば、優秀な上司の周りほど優秀な部下が集まっています。つまり、
一人の上司よりも複数の部下たちのほうが正しい
ということがわかります。
経営とは、部下たちの方が物事を知っていることを前提にしたうえで、それでも組織に一定の方向性を出すために仕方なく「指示」を出すものだ、ということになります。
部下というものは、本来、その「指示」を受け取った上で、その「指示」を現場で修正・変更してより最適な解を求めて動くことが求められます、
天下さんはこのことを、「やり過ごし」という言葉で表現し(これは経営学者の高橋伸夫さんが広めた言葉だそうです)、組織にとってはそれが不可欠であることを指摘します。
「やり過ごし」とは、
「上司の指示・命令をみずからの判断で優先順位をつけて遂行し、必要に応じて指示されないことまで自主的におこなって、つねに時機に応じた解決策を提示すること」
と定義できる行動です。天下さんは、よい経営のためには、部下が率先して上司の命令を無視・修正して現場に対応できる環境にあるかどうかが重要であると述べます。
「タテマエ論とは裏腹に、どこの企業でも、健全な運営がされているところは、現場がデシジョンの主体なのだ。それは、現場に最も情報やノウハウが集積しており、現場における判断がもっとも的確で素早いからだ」(p.126)
ここから、上司に本当に求められる資質とは、部下が自由に上司の指示を無視・修正して行動できる環境作りができることであり、また部下が自分の指示をどのように無視・修正してよい成果を上げたのかを見極めることである、という洞察が得られます。
それに対して、部下がどれだけ自分の指示を守っているかどうかだけに気を配っている上司は、部下が現場の情報にあわせて行動することを妨げている点で、好ましくない管理者であるということになります。
上司として求められる資質は、誰よりも賢くなることではない。むしろ、賢いのは部下であるという前提をもちながら、その部下が自分の判断で行動できる環境を作ることができることにある、と著者は言いたいのではないかと思います。
この本では、上記のような「やり過ごし」型マネジメントのさらに上の段階に、「長老型マネジメント」という形態が記述されています。ただ、この後者のレベルのマネジメントは、そもそも記述すること自体がかなり難しいと天下さん自身も自覚されているように思います。
従来のマネジメント=指導者型マネジメントが指示によって部下をロボットのように操作しようとするのだとすれば、やり過ごし型マネジメントは、指示を出しながらも、それが部下によって裏切られることを許容します。
天下さんによれば、90年代まで日本企業が躍進できたのは、このやり過ごし型マネジメントが行われてきたからです。それは、上司自身が、自分が「ダメ上司」であることをうすうす感じながらも、表面上は指示を出して、後は部下に自由に行動させるという形態だったと言えます。
日本企業では上司は「ダメ上司」として部下から半分軽蔑されながら、上司はなんとか愛嬌でごまかしてきた、ということです。また、そんな上司の下だからこそ、部下は自分で勝手に行動できたのだと言えます。
この段階では、上司は、自分の「ダメさ」を半分知りつつ、なんとかそれをごまかしているような状況です。
それに対して長老型マネジメントとは、自分より部下の方が現場について知っていることをはっきり認めるあり方です。このタイプの上司は、「自分は部下よりわかっていない」という考えをはっきり認めながら、同時にそのことに対する劣等感をも克服・昇華しているあり方だと言えます。そのようなことは、口で言うのは簡単でも、実際に到達するのが難しいことは、誰にも分かることだと思います。
つまり、組織の外側の状況も、部下の行動も、すべては自分の外側の動きなのだから、それらを自分でコントロールすることはできないと悟った状態です。
また、そのようにコントロールを手放しているがゆえに、ある種の「流れ」「知恵」みたいなものを洞察できる状態に至っているとも言えます。
このようなスピリチュアルなことは、そもそも記述することには向いていません。そのような「長老」のあり方を言葉で細かく規定しようとすればするほど、それはすべてを手放すことで得られる洞察というものから離れていくからです。
天下さんは「長老型マネジメント」の定義として、「指示を出さない」「愚者のおおらかさ」「徳でおさめる」「自分より能力の高い人が大活躍」「部下を信頼し、包み込む」などと共に、「順調なら任せる。危機的状況ないしは変化が必要なときだけリーダーシップを発揮」ということを挙げています。
それに対し、「やり過ごし型マネジメント」は、「指示を出さない」「部下を信頼し包容・評価」などの特徴を「長老型」と共有しながら、基本的にはチームに自律的に行動させるというレベルで止まっています。
つまり、同じように部下に自由に行動させているように見えても、従来の「やり過ごし型マネジメント」の上司が、部下への劣等感から、危機的な状況では動けなくなるのに対し、そのようなコンプレックスを克服している上司は、個々の状況は部下に任せながら、コントロールを手放すことである種の次元の高い精神状態に達し、それによって状況をより一段高い視点で見ることが可能になっているということです。
しかしこのような洞察は、論理的な言葉で説明することは困難です。しかし、だからこそと言うべきか、そのような境地こそ、本当は、上司が目指すべき状態だと、著者は言いたいのだと思います。