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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『こころのバランスが上手にとれないあなたへ』 田中千穂子

2007年06月28日 | Book


臨床心理士の田中千穂子さんは著書『こころのバランスが上手にとれないあなたへ』の中で、箱庭療法を手がかりに
「自分とつながる」ということを次のように説明されています。

箱庭療法とは、箱の中の砂の上に自分の気に入ったパーツ(ミニチュアの玩具)を、「そのときの自分の気持ちにぴったりあうように置いていく」作業を指します。箱庭を置くという作業は、「自分のなかで漠然と捉えているイメージを、砂の上に表現する」ことを意味します。つまり、自分の中にあるものを外に出すという作業です。

そこで表現された箱庭が本当に「自分の中」にあったものなのかは誰にも分からないでしょうが、ともかく、そこには無から有へと生じた何かがあります。

この箱庭を置く作業では、クライアントは自分の中にある「イメージ」を箱庭の中に表現していきます。そのイメージは言語化されていない場合もあるでしょうが、ともかく作業する人は、自分で自分の「こころをみる」ことをして、「イメージ」を箱の中に表現していきます。その辺りのことは次のように説明されています。

「まだ自覚的にはつかめていない自分のこころの端っこに、パーツや砂の助けを借りることで、かろうじて手がとどいた、と言ってもよいでしょう」

また別の臨床家の方は箱庭療法を次のよう説明されているそうです。

「心理療法の場で、言葉という象徴ではまだうまくとらえられないでいる自分自身の全体性、もしくは自分が他者や世界と関わっている姿の全体性を箱・砂・パーツといった、言語以外の象徴表現でとらえようとする試みである」と。

そこでは、

イメージ(感覚)→箱庭

という展開があります。この、「自分の中にあるものを現実界に出す」よう手助けする作業は、箱庭療法に限らず、心理療法に共通する特徴なのだと思います。

厳密に言えば、イメージより感覚の方がより先に生じているのでしょう。英語学者の大西泰斗さんは、イメージを用いた英文法理解を説く著作のなかで次のように述べています。

「「感覚」とは、ある表現に対してネイティブが抱いている感触であり、手触りだ。表現がネイティブの中に惹起する、未分化な心理的実在である。一方「イメージ」は、感覚に対して与えられた人工的な特徴づけだ。…「感覚」と「イメージ」は、生のフィールとそれに付された名前と考えてよい」(『英文法をこわす』NHKブックス p.15)。)

田中さんも、「フィーリング」と「考える」という二つの世界をつないでいるのがイメージです」と述べています(p.169)。


自分の中にあるものが何なのかは、それを表現しない限りは私たちには分かりません。

それに対して、何かが表現されると、予想していたものと同時に予想もしなかったものも外に出てくることがあります。私がブログを書いていてよく出くわす快感は、キーボードを叩いているうちに、自分でも考えたこともなかったような論理・考えが出てくることです。

おそらく成功するカウンセリングの多くは、そのように患者自身も予想しなかった考えが患者の口から飛び出してきているのではないでしょうか。田中さんは、箱庭療法では、「クライエント自身もまた、自分が置いた箱庭の意味を「ああ、そういうことだったのか」と、あらためてつかんでいくことができるようになる」ことが起きると指摘します。また、それによって初めて、クライエントは「自分とつながる」ようになるということです。つまり、自分でも予想もしなかったような箱庭の解釈やカウンセリングでの語りを体験し、表面的な考えを超えた思想が自分の中にあることを発見すると言うことです。それを「無意識」と呼ぶかどうかは些細な問題です。著者は次のように述べます。

「このように、箱庭を置くという無意識的な動きと、その置いたものを自覚し、考えていこうとする、きわめて意識的な動きの双方が車の両輪となって、自分が自分にとどいていく、自分が自分につながっていく、という「自己への道」が活性化していくのです」(p.160)。


こうみていくと、自分とつながるうえで重要なのは言葉それ自体ではなく、言葉を選ぶ態度だということが分かります。

田中さんが引く例では、例えば映画を見た時に、単に「よかった」とか「面白い」と言っても、それはその映画について自分が味わった感触に上手く届きません。「よかった」や「面白かった」などという類型的な表現は、自分の感覚の上を滑っていくだけです。

それに対して例えば「ほんわかした気分になった」「ほんのりとした気分になった」というと、「面白かった」よりは、本音に近づいた感覚があります。

ただ、その際にも重要なのは、話し手が注意深く自省して自分の気持ちを言い当てようという意欲があったかどうかです。

心理学の体系の効用と危険もここにあります。つまり、心理学の常識をひっくり返すような論理は、表面的な考えに染まっていた私たちの奥にある感触に最初は届きます。私たちはそれに驚いて、心理学が絶対だと思い込みます。

しかし、そのように心理学が絶対だと思い込んでいると、自分の感覚を言い当てようという注意深さを失い、心理学の言葉を自動的に口にするだけになります。すると、心理学の体系はとたんに生気を失ったものになります。また、このことは、心理学だけに当て嵌まることでもないでしょう。

田中さんは、そのように自分の感覚を言い当てていく作業は、絶えず再解釈にさらされていくことを指摘します。つまり、私たちの感覚には「これだ」という終わりはなく、掘り下げようとすればするほど、言い当てていない部分があることに気づきます。

だから、その言い当てていない気持ち・感覚をずっと抱えていくことも重要になります。

大切なのは、「解答」としての形式的な言葉を使えるようになることではなく、言葉の不完全さを自覚しながら、その不完全さに耐えて、自分の感覚を保持していくことだということです。

そこに初めて、人の主体性が生まれる、と、そう述べているのではないかと思います。


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