ドイツの社会学書籍『グローバル化の社会学―グローバリズムの誤謬 グローバル化への応答 』を読みました。著者はドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック。
原著は1997年に出された本なので、かれこれもう10年前の本です。ただ読んでいて思わされたのは、内容がまったく古びていないこと。今の私たちにとって目新しい指摘はなされていませんが、著者が論じている問題は今も問題であり続けています。
90年代以降になってたしかに社会・世界は急速に変化しています。しかし、変化の速度は急激でも、基本的な方向性(純粋市場化・情報のグローバル化・文化間の衝突)は、東欧の壁崩壊以後に定まっており、その進路を猛スピードでこの世界は突っ走っているという印象です。
内容をすべて紹介するのは冗長になるので、私にとって印象的だった部分について触れたいと思います。
上にとってのグローバル化
まずベックは、他の多くの論者と同じように、「グローバル化」は多国籍企業のみに莫大な利益をもたらし、社会の大部分には富を還元しないということを指摘します。つまり、生産拠点・営業地域・指揮系統が世界各地に分散しているのが常態であり、多国籍企業は税金を自社にとってもっとも有利な国で払うことにすることが可能であるということです。
このことは、政治と経済との結びつきによって国家の支配を形成していた旧来の「国家資本主義」モデルが無効になることを意味します。資本主義がその歴史において、とりわけ20世紀において、政治・行政が巨大経済組織に様々な便宜を払っていたのは、巨大経済組織がもたらす税収によって初めて国家は財源を賄うことができ、またそれら組織によって職が生み出されるという計算があったからでした。
グローバリズム化が引き起こしたのは、そのような政治と経済との結びつきがもはやありえなくなるのではないかという危険の可能性でした。多国籍企業はコスト削減のために安価な労働力が豊富な地域に生産拠点を移し、納税額の最も低い場所で納税するように組織編制するようになります。
多国籍企業がもはや国家を必要としなくなったのが、グローバル経済の特徴と言えます。つまり、多国籍企業は「超国籍企業」になるというわけです。
それゆえ多国籍企業は、出自である国家の社会安定のために貢献する必要から解放されます。それに対して、国の大部分の雇用を創出する中小企業が、同時に法人税をも支払うことで福祉に貢献するよう強いられます。
グローバル化の一つの側面は、上で述べたように、多国籍企業にとってもはや国家・国境・政治は以前ほどの重要性をもたないということにあります。現代の資本主義は、国家の援助を受けずに活動することが比較的可能になっており、また国家に対する義務(=納税)をも免れつつあります。
下にとってのグローバル化
エスタブリッシュメントにとってグローバル化がもつ意味がこのようなものだとすれば、「下々」の人々にとってはグローバル化はどのような意味合いをもつのだろうか?
単純に言えば(複雑に言うこともできないのだけど)、流通や通信にとって世界中がつながることは、逆に個々の地域が直接世界とつながることを意味します。それは、生産拠点の世界への分散が同時に現地の文化と超国籍企業との接触であり、それによってローカルとしての場が再活性化されることを意味します。
国民国家という官僚制制度の下では「中心-辺境」という枠組みで世界から排除されていたローカルが、もう一度「中心」とつながるきっかけを与えられるわけです。ただその「中心」は国民国家における首都ではなく、「世界」という秩序も制度もない曖昧な「中心」なのですが。
超国籍企業が跋扈する世界とは、政治の影響力が及ばない世界であり、それゆえ指揮系統が場に依存しない状態です。そこでは「中心」というものが、「首都」や「本社ビル」といった具体的な場に依存しなくなります。むしろ「中心」とは、人々の観念の中に生まれるものと言っていいでしょう。「中心」とは場によって生まれるのではなく、頭脳の行為を意味するのであれば、場は関係ないわけです。
そのような「中心」が世界各地のローカルに生産を指令するとき、ローカルは「中心」とつながっているのですが、そのときローカルがつながっている「中心」とは、人間の頭脳と言ってもいいように思います。
これは何も超国籍企業と生産拠点という例だけのことではなく、通信による人々のつながりに関しても言えることでしょう。私以外の人が100万人以上はすでに言っていることなので書くのが気をひけますが、グローバルな移動が容易になったり、インターネットで世界中とつながることは、人々の頭の中から国境・境界・秩序の絶対性を(比較的)崩していっているはずです。
そこで生じるのは文化・生活様式の「マクドナル化」といったものではなく、もっと複雑で捕まえがたい事態です。「マクドナル化」とは、一つの基準が世界を支配することを意味します。しかし、そのような想定は、一つの指令機関が社会を隈なく統制できると考える旧来の国民国家像と結びついています。
通信や流通・移動手段の高度化による「場」の喪失がもたらすのは、そのような予測可能な秩序ではなく、ローカルと別のローカル、ローカルと「中心」とが予測不能な接触・衝突を起こすという事態です。
トランスナショナルな国家の構築の必要性
ベックも指摘しているように、このように「上」も「下」もグローバル化の流れに沿って、「国家」「首都」とは無縁な「中心」とつながりながら行動するように強いられています。
同時に、もはや国民国家という境界内で成立する資本-労働との対立という枠組みは崩壊していきます。階級闘争というものは国家が付与できる権利の獲得を巡る闘争であるがゆえに、「国家」に縛られない行動が可能になった大企業にとっては、もはや「労働者」と交渉のテーブルに就く必要性はなくなりました。
派遣労働の増加を見ても分かるように、現代でも低賃金にあえぐ人々は多数いるのですが、生産・事業の場所を容易に世界各地に転換できる体制になった企業は、団体として圧力をかけてくる「労働者」と向き合う必要がありません。「労働者」は依然として場に拘束された生活を強いられる中で、大企業はその場から逃避することで、階級闘争を回避することができます。こうしてグローバル化においては、「上」と「下」とが接触せずにいることが容易になっていきます。
こうした状況から、立場の弱い人は大量に存在しながら、彼らが団結することも不可能になり、見えない無数の失業者・貧困者へとなっていきます(「失業・貧困の個人化」)。
ベックは、現代において要請されているのは、国家という制度を失うことで基本的人権・市民権を失いがちな人々の権利を守るためのトランスナショナルな権利・制度であると指摘します。それには国境を越えて行動する超国籍企業の行動を拘束する規定も含まれます。彼はそのために必要な条件に関して、次のハーバーマスの言葉に自分の主張を代弁させます。
トランスナショナルな権利・制度を作るためには、諸国民国家が共同しなければならない。そのためには「〔トランスナショナルな〕内政として認識できるように、拘束力ある協同の手続きで結束しなければならない。そのさい、そうした協同の手続きは、コスモポリタンたる義務を負う諸国家の共同体によって取り決められる。肝心な問題は、広い範囲にわたって一体となった複数のレジームの市民社会と政治的公共圏において、コスモポリタンとして強制力をもちつつ連帯しようとする意識が芽生えうるかどうかである。市民の意識状態が内政に影響を及ぼすように変化したことによるこうした圧力の下で初めて、グローバルな行為能力をもったアクターの自己了解も変化し、選択の余地なく協同して互いの利害を尊重しなくてはならない共同体のメンバーとしてみずからをよりいっそう理解できるようになるのである」
その後でベックは自分の言葉で次のように述べます。「そのつどの公共圏において、国際関係からトランスナショナルな内政へのこうしたパースペクティブの転換に、国家の垣根を越える仕方で注意が払われず、住民グループ自体が自分たちの利害関心からしてこの転換に賛同することがないならば、政府側のエリートにそうしたパースペクティブの転換を果たさせることなど期待できはしない。別の言い方をするならば、トランスナショナルな国家は、トランスナショナルな国家についての意識があり、そうした国家を意識するようになることによって、はじめて可能になる」(p.211)。
ベックは、このトランスナショナルな国家と旧来の国民国家との違いについて、後者が「国境の画定とナショナルな対立」を軸にしているのに対し、前者は「グローバル化とローカル化」という軸をもっていると述べます。
このトランスナショナルな国家(諸国家による協同構築物)は、旧来の国民国家のように言語・民族の統一性を排他的に確保するためではなく、むしろあらゆる属性を持つ個人の権利を保護するためのものであり、国境・民族を越えて差異を保証するための制度です。ベックは次のように述べます。すなわち、「エミール・デュルケムが行った〔機械的連帯と有機的連帯という〕区別」を引き合いにして、異質な国家どうしが協同することで「有機的な主権」を産出するのだ、と。彼は旧来の国家が有していた権限に由来する権利を「排他的主権」と呼び、それに対してトランスナショナルな国家が生み出す権利を「有機的な主権」あるいは「包容的主権」(すべての者を包括するような権利)と呼びます(p.252)。
こうした「国境を越える」視点をもつからこそ、「グローバル化」と経済成長至上主義とをベックは区別することができるのだと思います。少なくとも現在の日本で「グローバル化」が論じられる際、その多くは「日本はそれに対してどう対応すべきか?」という問いと結び付けられ、「いかに競争力を高めるべきか?」という問いへと自動的に転換されていきます。
しかしベックにとってグローバル化とは、旧来の主権国家がその支配能力を失う中で、巨大組織に依存することのできない大部分の人々の権利はどのように維持されるべきかという問いと結びつきます。
それゆえに、経済成長至上主義は、必然的に他国の貿易赤字を招くこと、あるいはコスト切り詰めのために賃金の低下を招くことが、ベックにとっては当たり前として「問題」にされます。
おそらく日本のアカデミズムでもこうした議論は行われてきたのでしょうが、一般の人々に届く議論はどうしても、グローバル化と経済競争という問題に絞られ、「日本はどうすべきか」という視点だけで論じられます。そこからは必然的に、他国に生きる人々の生活を犠牲にすることへの配慮のない、経済成長戦略だけが論じられることになります。
最初に述べたように、この本が出版されたのは1997年であり、またこの本で扱っている内容は多くの人がどこかで聞いた話でしょう。にもかかわらずこの本の内容がアクチュアリティを失っていないのは、グローバル化という現状認識を行いながら、そこから「国家」という枠組みが失効していることと、グローバル化と成長至上主義とを短絡的に結び付けていない点にあります。むしろ、グローバル化による経済競争の激化によって被害を受ける人々の間には、国境を越えた共通点があることをも指摘します。
そう書くとまるで「万国の労働者よ、…」という議論を想像してしまいますし、ベック自身はマルクス主義を否定するにしても、どこか理想主義的に見える部分もこの本にはあるのですが、しかし私には成長至上主義に陥ることを防ぐきっかけとして、それは大切な視点ではないかと思います。
原著は1997年に出された本なので、かれこれもう10年前の本です。ただ読んでいて思わされたのは、内容がまったく古びていないこと。今の私たちにとって目新しい指摘はなされていませんが、著者が論じている問題は今も問題であり続けています。
90年代以降になってたしかに社会・世界は急速に変化しています。しかし、変化の速度は急激でも、基本的な方向性(純粋市場化・情報のグローバル化・文化間の衝突)は、東欧の壁崩壊以後に定まっており、その進路を猛スピードでこの世界は突っ走っているという印象です。
内容をすべて紹介するのは冗長になるので、私にとって印象的だった部分について触れたいと思います。
上にとってのグローバル化
まずベックは、他の多くの論者と同じように、「グローバル化」は多国籍企業のみに莫大な利益をもたらし、社会の大部分には富を還元しないということを指摘します。つまり、生産拠点・営業地域・指揮系統が世界各地に分散しているのが常態であり、多国籍企業は税金を自社にとってもっとも有利な国で払うことにすることが可能であるということです。
このことは、政治と経済との結びつきによって国家の支配を形成していた旧来の「国家資本主義」モデルが無効になることを意味します。資本主義がその歴史において、とりわけ20世紀において、政治・行政が巨大経済組織に様々な便宜を払っていたのは、巨大経済組織がもたらす税収によって初めて国家は財源を賄うことができ、またそれら組織によって職が生み出されるという計算があったからでした。
グローバリズム化が引き起こしたのは、そのような政治と経済との結びつきがもはやありえなくなるのではないかという危険の可能性でした。多国籍企業はコスト削減のために安価な労働力が豊富な地域に生産拠点を移し、納税額の最も低い場所で納税するように組織編制するようになります。
多国籍企業がもはや国家を必要としなくなったのが、グローバル経済の特徴と言えます。つまり、多国籍企業は「超国籍企業」になるというわけです。
それゆえ多国籍企業は、出自である国家の社会安定のために貢献する必要から解放されます。それに対して、国の大部分の雇用を創出する中小企業が、同時に法人税をも支払うことで福祉に貢献するよう強いられます。
グローバル化の一つの側面は、上で述べたように、多国籍企業にとってもはや国家・国境・政治は以前ほどの重要性をもたないということにあります。現代の資本主義は、国家の援助を受けずに活動することが比較的可能になっており、また国家に対する義務(=納税)をも免れつつあります。
下にとってのグローバル化
エスタブリッシュメントにとってグローバル化がもつ意味がこのようなものだとすれば、「下々」の人々にとってはグローバル化はどのような意味合いをもつのだろうか?
単純に言えば(複雑に言うこともできないのだけど)、流通や通信にとって世界中がつながることは、逆に個々の地域が直接世界とつながることを意味します。それは、生産拠点の世界への分散が同時に現地の文化と超国籍企業との接触であり、それによってローカルとしての場が再活性化されることを意味します。
国民国家という官僚制制度の下では「中心-辺境」という枠組みで世界から排除されていたローカルが、もう一度「中心」とつながるきっかけを与えられるわけです。ただその「中心」は国民国家における首都ではなく、「世界」という秩序も制度もない曖昧な「中心」なのですが。
超国籍企業が跋扈する世界とは、政治の影響力が及ばない世界であり、それゆえ指揮系統が場に依存しない状態です。そこでは「中心」というものが、「首都」や「本社ビル」といった具体的な場に依存しなくなります。むしろ「中心」とは、人々の観念の中に生まれるものと言っていいでしょう。「中心」とは場によって生まれるのではなく、頭脳の行為を意味するのであれば、場は関係ないわけです。
そのような「中心」が世界各地のローカルに生産を指令するとき、ローカルは「中心」とつながっているのですが、そのときローカルがつながっている「中心」とは、人間の頭脳と言ってもいいように思います。
これは何も超国籍企業と生産拠点という例だけのことではなく、通信による人々のつながりに関しても言えることでしょう。私以外の人が100万人以上はすでに言っていることなので書くのが気をひけますが、グローバルな移動が容易になったり、インターネットで世界中とつながることは、人々の頭の中から国境・境界・秩序の絶対性を(比較的)崩していっているはずです。
そこで生じるのは文化・生活様式の「マクドナル化」といったものではなく、もっと複雑で捕まえがたい事態です。「マクドナル化」とは、一つの基準が世界を支配することを意味します。しかし、そのような想定は、一つの指令機関が社会を隈なく統制できると考える旧来の国民国家像と結びついています。
通信や流通・移動手段の高度化による「場」の喪失がもたらすのは、そのような予測可能な秩序ではなく、ローカルと別のローカル、ローカルと「中心」とが予測不能な接触・衝突を起こすという事態です。
トランスナショナルな国家の構築の必要性
ベックも指摘しているように、このように「上」も「下」もグローバル化の流れに沿って、「国家」「首都」とは無縁な「中心」とつながりながら行動するように強いられています。
同時に、もはや国民国家という境界内で成立する資本-労働との対立という枠組みは崩壊していきます。階級闘争というものは国家が付与できる権利の獲得を巡る闘争であるがゆえに、「国家」に縛られない行動が可能になった大企業にとっては、もはや「労働者」と交渉のテーブルに就く必要性はなくなりました。
派遣労働の増加を見ても分かるように、現代でも低賃金にあえぐ人々は多数いるのですが、生産・事業の場所を容易に世界各地に転換できる体制になった企業は、団体として圧力をかけてくる「労働者」と向き合う必要がありません。「労働者」は依然として場に拘束された生活を強いられる中で、大企業はその場から逃避することで、階級闘争を回避することができます。こうしてグローバル化においては、「上」と「下」とが接触せずにいることが容易になっていきます。
こうした状況から、立場の弱い人は大量に存在しながら、彼らが団結することも不可能になり、見えない無数の失業者・貧困者へとなっていきます(「失業・貧困の個人化」)。
ベックは、現代において要請されているのは、国家という制度を失うことで基本的人権・市民権を失いがちな人々の権利を守るためのトランスナショナルな権利・制度であると指摘します。それには国境を越えて行動する超国籍企業の行動を拘束する規定も含まれます。彼はそのために必要な条件に関して、次のハーバーマスの言葉に自分の主張を代弁させます。
トランスナショナルな権利・制度を作るためには、諸国民国家が共同しなければならない。そのためには「〔トランスナショナルな〕内政として認識できるように、拘束力ある協同の手続きで結束しなければならない。そのさい、そうした協同の手続きは、コスモポリタンたる義務を負う諸国家の共同体によって取り決められる。肝心な問題は、広い範囲にわたって一体となった複数のレジームの市民社会と政治的公共圏において、コスモポリタンとして強制力をもちつつ連帯しようとする意識が芽生えうるかどうかである。市民の意識状態が内政に影響を及ぼすように変化したことによるこうした圧力の下で初めて、グローバルな行為能力をもったアクターの自己了解も変化し、選択の余地なく協同して互いの利害を尊重しなくてはならない共同体のメンバーとしてみずからをよりいっそう理解できるようになるのである」
その後でベックは自分の言葉で次のように述べます。「そのつどの公共圏において、国際関係からトランスナショナルな内政へのこうしたパースペクティブの転換に、国家の垣根を越える仕方で注意が払われず、住民グループ自体が自分たちの利害関心からしてこの転換に賛同することがないならば、政府側のエリートにそうしたパースペクティブの転換を果たさせることなど期待できはしない。別の言い方をするならば、トランスナショナルな国家は、トランスナショナルな国家についての意識があり、そうした国家を意識するようになることによって、はじめて可能になる」(p.211)。
ベックは、このトランスナショナルな国家と旧来の国民国家との違いについて、後者が「国境の画定とナショナルな対立」を軸にしているのに対し、前者は「グローバル化とローカル化」という軸をもっていると述べます。
このトランスナショナルな国家(諸国家による協同構築物)は、旧来の国民国家のように言語・民族の統一性を排他的に確保するためではなく、むしろあらゆる属性を持つ個人の権利を保護するためのものであり、国境・民族を越えて差異を保証するための制度です。ベックは次のように述べます。すなわち、「エミール・デュルケムが行った〔機械的連帯と有機的連帯という〕区別」を引き合いにして、異質な国家どうしが協同することで「有機的な主権」を産出するのだ、と。彼は旧来の国家が有していた権限に由来する権利を「排他的主権」と呼び、それに対してトランスナショナルな国家が生み出す権利を「有機的な主権」あるいは「包容的主権」(すべての者を包括するような権利)と呼びます(p.252)。
こうした「国境を越える」視点をもつからこそ、「グローバル化」と経済成長至上主義とをベックは区別することができるのだと思います。少なくとも現在の日本で「グローバル化」が論じられる際、その多くは「日本はそれに対してどう対応すべきか?」という問いと結び付けられ、「いかに競争力を高めるべきか?」という問いへと自動的に転換されていきます。
しかしベックにとってグローバル化とは、旧来の主権国家がその支配能力を失う中で、巨大組織に依存することのできない大部分の人々の権利はどのように維持されるべきかという問いと結びつきます。
それゆえに、経済成長至上主義は、必然的に他国の貿易赤字を招くこと、あるいはコスト切り詰めのために賃金の低下を招くことが、ベックにとっては当たり前として「問題」にされます。
おそらく日本のアカデミズムでもこうした議論は行われてきたのでしょうが、一般の人々に届く議論はどうしても、グローバル化と経済競争という問題に絞られ、「日本はどうすべきか」という視点だけで論じられます。そこからは必然的に、他国に生きる人々の生活を犠牲にすることへの配慮のない、経済成長戦略だけが論じられることになります。
最初に述べたように、この本が出版されたのは1997年であり、またこの本で扱っている内容は多くの人がどこかで聞いた話でしょう。にもかかわらずこの本の内容がアクチュアリティを失っていないのは、グローバル化という現状認識を行いながら、そこから「国家」という枠組みが失効していることと、グローバル化と成長至上主義とを短絡的に結び付けていない点にあります。むしろ、グローバル化による経済競争の激化によって被害を受ける人々の間には、国境を越えた共通点があることをも指摘します。
そう書くとまるで「万国の労働者よ、…」という議論を想像してしまいますし、ベック自身はマルクス主義を否定するにしても、どこか理想主義的に見える部分もこの本にはあるのですが、しかし私には成長至上主義に陥ることを防ぐきっかけとして、それは大切な視点ではないかと思います。