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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『グローバル化の社会学』ウルリッヒ・ベック 『ウェブ進化論』梅田望夫

2007年06月24日 | Book
昨日紹介した『グローバル化の社会学』の中で、ウルリッヒ・ベックは現代の新しい倫理の特徴を「個人化」という言葉の下で理解しています。

「個人化」とは英語の Individualisierung(ドイツ語で Individualitaet) ですが、訳としては「個性化」という言葉の方がその意味合いをよく伝えているかもしれません。簡単に言えば(複雑に言うこともできませんが)、大量生産・大量消費社会の次の段階に至った社会において、経済的キャリアを上昇する以外の生き方を模索する個々人の生活態度を指しています。

ベックは次のように言います。「とりわけ個人化は、リスクを喜んで引き受けリスクから創造性を引き出すための文化的源泉が生まれてきたことを意味している」(p.278)。

大量生産・大量消費社会段階においては、100%の完全雇用が理想とされ、また社会全体がいずれそれは実現される目標だと考えていました。また働く人たちは、フルタイムワーカーとして雇用が制度的に保証されることを望んでいました。

しかし90年代以降、日本でも、また欧米でも、もはや経済全体にそのような余裕がないことがハッキリしてきました。一部の中産階級は雇用が保証されても、それ以外の層はつねにレイオフの危険にさらされる雇用形態を選択せざるをえないようになったのです。日本ではそれは「派遣」という形態を採りました。大卒の大企業社員は90年代の「失われた10年」においても解雇に直面する人はほとんどなかったのに対し(『仕事のなかの曖昧な不安』玄田有史 )、「就職氷河期」世代の若者や女性たちは派遣・フリーターとして、企業のコスト調整の対象とされてきました。

しかし私は、フリーター・派遣の増加は、単に企業の側の都合で増えたのだろうか?という疑問を持っています。もちろんそういう面は決して無視されてはいけませんし、被雇用者の生活を顧みない企業の雇用姿勢は改められるべきだとも思います。働きたい人にチャンスすら与えないのですから。

ただ同時に、若い人たちの間には、頭では「正社員」として働くことが合理的であることが分かりすぎるくらい分かっていながら、それでもそういう道を選択できない人が増えてきたのではないか、という推測も私はしています。

ある雑誌の「派遣で働く30代シングル女性たち」という最近の特集では、派遣で働く女性たちが、契約を更新してもらえるかどうか分からないという不安を抱えながら働く状況がリポートされています(『BIG ISSUE』72号)。そこでは、年数は長く働きながらも、新卒新入社員よりも社内の序列では最下位に置かれる派遣の待遇に対する不満が述べられています。

ただ同時に、興味深いのは、取材されている女性たちのすべては、一度正社員を経験しているということ。何人かの女性は、正社員の仕事が恐ろしく単調で退屈であったり、また長時間拘束されることのつらさから、正社員を辞め派遣を選択したと言います。ある女性は正社員をやめ派遣で働き始めたとき、「雲の上への階段を上っているような、お花畑を歩いていくような気分だった」と述べています。

それでも30代になってずっと派遣で働くことには言いようのない不安がつきまといます。ただそれでは、単に彼女たちは選択を誤ったのでしょうか?

物事を表面的にだけ見ると、正社員をやめて派遣を選らんだ人たちは、単にキャリア形成を上手に考えなかった人たち、ということになります。しかし、一部の人々の行動をも私たち社会全体の意識の表れとみると、様相は少し違ってきます。

人間というのは、100%戦略的に合理的に考えることはできても、それをそのまま行動に移すことのできない人間です。おそらくフリーターや派遣という選択を一定の数の人たちが選んでいるのは、社会全体が表面意識では合理的・戦略的に生きようとしながら、その合理性の間さに耐え切れない意識が社会に存在していることの表れのように思うのです。

簡単に言えば(複雑に言うこともできませんが)、社会の多くの人が合理性一辺倒で行動すればするほど、その合理性に耐え切れない一定数の人たちが出てきます。そいういう人たちは、「正社員」という労働形態からの解放を目指して、フリーターになったり、派遣を選んだりします。「お花畑を歩いていくような気分」という表現は、その解放感にぴったりくる言葉です。

しかし、そうした選択が企業社会の合理性に対する反動にすぎなければ、そこから創造的な道が生まれることもないような気がします。派遣やフリーターを長い間選んできた人たちが、30代後半になって不安の気持ちだけをもつというのは、合理性に対する反動だけで生きてきたからなのではないか、という想像を私はしています。

もちろん、だからと言って、派遣やフリーターを選んだことが間違っているということではないのだと思います。また、今まで間違ってきたから、明日からは「戦略的に」「賢く」キャリア形成を考えようとしても(そう説く人は大勢いますが)、そう上手く行かないのではないかと私は想像しています。

既存の企業社会に耐えられなくなったということは、その人にはきっと常識的な社会慣習に収まらない衝動的(創造的)なものがあることを意味するのだと思います(創造性と言っても、別に芸術だけを意味しているのではありません)。ただ、そのような創造性を実際の生き方に生かすための方法には、便利なマニュアルは存在しません。マニュアルになった途端、そこには創造性は存在しないでしょう。

そのような衝動的な心の動きに適切な居場所を見つけることは、簡単ではないし、最終的にはそれは自分だけが見つけることのできる答えです。人類において、社会の無視できない一定の層が、常識から離れて自分で自分の生き方を見つけていくということを強いられているのは、おそらく現在の先進国が初めての社会でしょうし、日本はその中でも最先端を進んでいる社会です。派遣なりフリーターを選んできた人たちというのは、そのような人類史上の難問に、言わば社会を代表して立たされているのですし、それだけに苦悩も深いのだと思います。

派遣やフリーターの人たちというのは(ここに引きこもり・ニートを加えてもいいでしょう)、自分の将来に対する不安をもろに被りやすい生き方を選んでいます。そこに立たされている人たちは、人類全体にそのような問題に対処するノウハウがないのですから、自分で自分の生き方を構築するという問題に直面していかざるを得ません。

最初に紹介したように、ウルリッヒ・ベックは、しかしこのような状況からこそ、新しい倫理が現在先進国で生まれているのだと述べます。それは、リスクから創造性を引き出すという新しい生活態度です。

そこから、つまりリスクから、不安を乗り越えるような生活態度が生まれるとすれば、どのようなものなのか。ベックは次のように述べます。

「自己自身の生活における自己自身の生活の芸術家は、彼の独自性を守ることで創造的となるだけではない。彼は、互いに対立はするがしかし自律的である生活諸形態を調和させる習練を、不断に積んでいもいる。そして、彼ら自身と彼らの生活とを美的な生産物として創造し、演出している。ここでは、自身のための労働と他人のための労働との直接の関係の中で生活が行われ、物事が考えられ、事物が作られるから、そこに生じてくる市場は、大量消費財市場ではなくニッチ市場である。だがしかし、この特殊な市場は必ずつねに小規模の市場にとどまらざるをえないと言うのは偏見である。その逆こそが正しい。グローバルなローカリティの時代では、ニッチの特殊な市場文化が創意に富んだ生活空間となり、この生活空間から(…)世界市場向け製品のチーフデザイナーがヒントを盗む(…)のである」

「自己発展の動機は自己利用〔搾取〕の動機として働く。まさに経済的利益なるものが個人主義によって意味を失い、まったく逆の評価が下されるようになるから、人は進んでごくわずかのお金のために極めて多くのことをする気になる。ある活動が自己実現とアイデンティティ形成に資するうえでより高い価値をもつならば、それはわずかの稼ぎをも埋め合わせることになるし、わずかな収入を高貴なものにさえするのである」(p.282)。

この記述において、ベックの中で「個人化」という新しい生活態度・倫理と、グローバル化とが結びつきます。

端的に言えば、このような「自己自身の生活の芸術家」たちが世界とつながることを容易にしているのが、インターネットの世界です。「個人化」という倫理自体は、おそらく80年代以降から顕著になっている現象ですが、インターネットの出現はそのような生活態度を爆発的に普及させてきました。

梅田望夫さんの『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 』は、上記のようなベックの洞察を一冊使ってより詳しく述べた本だと見ることもできます。

『ウェブ進化論』は、「オープンソース」「グーグル」「ブログ」「ウィキペディア」「アマゾン」「ロングテール」といったキーワードをわかりやすく解説している本です。そこで述べられている「説明」自体は、おそらく出版された当時ですら、ネットに親しむ人の多くにとっては目新しいことではなかったでしょう。

実際ここで梅田さんが述べているような、無限多数の表現者が生まれるという洞察は、何も「ブログ」や「グーグル」の出現を待たなくても、上でベックがしているように、十分予想できる事態だったのではと思います。ただ、そうした流れが、上記のキーワードに代表されるような新しいテクノロジーの出現によって爆発的に加速されているのも事実だと思います。

インターネットが普及し始めた1990年代後半には、少なくとも私には、ネットが社会を変えるという議論にリアリティは感じませんでした。それは、単に新しい通信手段が増えたということ以上の意味を見出せなかったのです。

しかし、巨大メディア(例えばヤフーなど)を介さずに一般の人同士がコミュニケーションをする流れは、その個人同士を媒介する仕組みが完全にテクノロジーに委譲されるグーグルやウェブログの出現によって加速され、また私たちにその流れを実感させるものになっています。

梅田さんは「ウェブ2.0」の動きによって無数の表現者が表現手段を生むという事態を予想しています。多くの人はそこで、そんな普通の人が「アーティスト」になれるのか?という疑問を持ちます。インターネットはゴミのような情報をふやしているだけではないのか?と。

おそらく、「ウェブ2.0」によっても、これまで一般市民だった人がいきなりプロとしてアーティストになるという事例は少ないままなのではないかと私は考えています。そういう人の数は増えるかもしれませんが、割合がドラスティックに増えるのかどうかはわかりません。

しかし、それは「儲け」「稼ぎ」という視点だけで見るからであって、おそらく「自己表現する」という習慣をもつ人が人口の大部分を占めるようになる今の流れは、少しずつでも人々の生き方に影響をもたらすのではないかと思います。たとえば表面上の生活は変わらなくても、既存の常識から一歩距離をとるメンタリティは確実に人々の間に浸透しているのだと思います。

ある人は次のように述べています。

「梅田望夫さんの講演、「ウェブ社会『大変化』への正しい対応・間違った対応」(フォーサイトクラブ・セミナー)の速記録を読んだ。これは秀逸ですね。
インターネットの本質が「不特定多数無限大と(を)同時に○○するコストがゼロに近づいていくこと」というのはまさしくそうだと思うし、自分たちがEコマースを行う際もそのことを常に基本に考えているが、そこから先の世界に関しても示唆に富んでいる。
 特に印象に残ったのが、「オープンにすれば何か生まれる」と「若い人に教わることを忌避するな」という部分。どうしても僕の世代や僕よりも上の世代になると、クローズにしたい誘惑に駆られてしまう。僕は意思決定する際に、できるだけオープンな方を選択しようとしているが、あくまでも体で覚えているわけではなく、頭で考えて意識的な選択をしているに過ぎない。インターネットが出現したのが20歳代後半だったので、その存在を頭で理解しながら使いこなそう、利用しようとしてきたので、どうしてもそのような使い方になってしまう。一方、若い世代では高校や大学に入ったときからインターネットが常識だった人も多い。あと数年すると、物心ついたときからウェブが当たり前にあった人たちが出てくる。彼らの中には思いもよらないウェブへの接し方をする人もいる。このような人たちの考え方には耳を傾けなければならない。」(「Web社会の変化への対応 2005/09/24」)『健康とECのBlog』

ベックの言う「個人化」が「生活を美的な生産物として創造する」とは、狭い意味での「アート」を行う人が増えるという意味に解するのは適切ではないでしょう。それよりはむしろ、文章でもそれ以外でも、表現行為を行うことで、自分の無意識に触れる人が爆発的に増えることを意味します。

表現行為というのは、それまで自分でも気づかなかった自分の一部を発見することだし、それは必然的に表面的な常識とは離れたものになります。またそれを他者と分かちあうというのは、そのような常識から離れた考え方・態度を他人と共有していくことを意味します。それはブログの文章でも他の芸術でも同じことです。

そのような習慣を生まれてから死ぬまで人々が持ち続けるということは、それは「社会常識」というものが刷新されていくスピードが爆発的に上昇されることを意味します。

例えば、インターネットに親しむ人の多くは、全国紙の新聞の見方を相対化する情報を容易にウェブ上で拾うことが可能になっています。

ウェブ上の表現行為で身を立てる人が増えるかどうかは分かりませんし、それによって「こちら側」の表現者の生活の糧が脅かされるようになるのかどうかもわかりません。しかし、それとは次元の違う側面で、やはり「ウェブ2.0」は多大なインパクトを社会に与え続けるのではと思います。

「個人化」と「ウェブ2.0」は、どちらかがどちらかを産んだという因果関係にはありません。しかしその二つが限りなく相互に親縁的であり、それまでの官僚制社会とは違う傾向を自己の中に見出すよう個々人に強いているのは確かだと思います。