作家の中島らもさんが亡くなって、この夏で丸3年になります。
3年が長いのか短いのか。ともかく、中島らもという人がこの世にいないという事実には、私ももう慣れています。
彼が階段から落ちて亡くなったと聞いたとき、彼の著作に親しんできた人たちは、それは事故ではなく自殺ではないか?と疑ったのではないでしょうか。少なくとも僕はそう思いました。
中島らもさんは、子供の頃は灘中学の試験に一桁台の順番で合格するほどの秀才でした。その後も高校一年ごろまでは灘高で中盤あたりの成績に踏ん張っていたそうです。
それが、学園紛争で学校の授業が中断したり、服装や髪型についての規制が自由になったりしたことがきっかけで、一気に勉強する気が失せたと著書の中で語っていました。
彼の自伝的エッセイを読むと、10代後半から20代に非常に苦しみに苛まれていたことが分かります。親に対して、社会に対して、そして周りの友人たちに対しても、どこか激しい怒りを感じていたように思います。のではないでしょうか。そのような感情が、外面的にはアルコール中毒という形で表れたのでしょう。
彼がエッセイストとして知られるようになったのは、30代になってからです。そのときのエッセイを読むと、波乱に満ちた10代から20代を駆け抜け、苦しみをくぐり抜き、30代になって濁った汚れが落ちたような地点に到達した趣を感じます。世の中に馴染めず怒りを感じながらも、もう周りに期待をするのをやめ、自分の人生を歩んでいこうとするような、達観した雰囲気を文章から感じました。どれだけ苦しんでも世の中が変わるわけじゃないのだから、もう笑うしかないじゃないか。そう考える所にまで到達したような感じです。
だから、彼が大麻所持で逮捕されたと聞いたときは、少し驚きました。もうそのように社会に反抗することは諦めたように私は思っていたからです。
ということは、悟りを開いているようなエッセイを書いているときにも、世の中に対する怒りはずっとずっとらもさんの中にくすぶり続けていたということになります。それを長い間ずっと見せないようにしていながら。
このことは、彼の中には決して簡単には消えない社会への怒りがあったのではないかと想像してしまいます。
そう考えると、階段を踏みはずして事故で亡くなったと聞いても、それをそのまま信じることはできないのです。
中島らもさんがいない関西というのは、やはり少し寂しい。
「中島らもさん死去」に思う joy - a day of my life -