joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

『竹岡広信の英作文〈原則編〉が面白いほど書ける本 』

2007年06月16日 | 語学
『竹岡広信の英作文〈原則編〉が面白いほど書ける本 』という本をしてみました。著者の竹岡広信さんは、『ドラゴン桜』の教師のモデルにもなったそうです。

私は英語のアウトプットに自信がなかったので、今回鍛えるべくやってみました。去年の夏から始めて、二回通してしてみました。一年かかったわけです。

この本の特色は、模範解答をできるだけ平易な英語を使って作っていること。難関大学の英作文の問題も扱っていますが、単語はおそらく中学生でもわかるようなものを使っています。

著者の竹岡さんは、ネイティブでなければ書けないような英語を学ぶのではなく、知っている単語を使って言いたいことの50%でも表現できるような、そういうトレーニングを与えることをこの本で目指したそうです。

簡単な英語を使って作文するというのは、日本語を英語に翻訳する際に、できるだけ英語の論理に置きなおすということを意味します。日本語の問題文につられて、そのまま当て嵌まるような英単語を探すのではなく、知っている簡単な英単語でも実は日本語で考えていることを英語で表現できるということを学ぶわけです。

だから、使われている単語自体は簡単でも、英語の発想を学ぶという点ではとても有益な本なのではと思います。

例えば、「一つ一つの文化財は、それを維持するために尽くしてきた数多くの人たちの多年の努力の結晶である」という文章を英語にしようとすると、「AはBである
」という文章の構造になっているので、私たちは A is B という文章で英作しようとします。この文章で言えば、「文化財+is+結晶」という文を作ろうとします。

しかしそのような発想は竹岡さんによれば英語の論理とは違うとのこと。彼の模範解答によれば、例えば

we should not forget that a lot of people who have been maiking great efforts to preserve many traditional buildings around us for a long time

という形がより英語の発想から見て適しているとのことです。

これは一例で、英語の形としてより適切な表現を作るための情報が、この本にはぎっしり詰まっています。あまりにも情報が多すぎて、真面目な受験生が一からこの本を読もうとすると途中で倒れてしまうのではないかと思います。それとも、若さでこの本を全部吸収してしまうのだろうか?

私は二回通して問題を解いてみましたが、それでも模範解答以外の情報にはあまり目を通しませんでした。受験生が書いてしまいがちな誤答の例も問題文ごとに書かれているのですが、そこまでも読んでいられませんでした。

この本がどれぐらい私の身につき、またどれくらい役に立つのかはまだ分かりません。とりあえず通してやってみて、それでもまた見直してみないと身につかないのではないかと思うぐらい、情報が詰まっているのです。

ただ、竹岡さんの意図とは違うのでしょうが、私自身は、この本は、細かな情報で止まらずに、模範解答をどんどん読んで、自分なりに英語になれるというようにすればいいのではないかと思います。

受験生であれば「間違い」に気をつけなければなりませんが、私たちの多くはすでにそれから解放されているわけですから、「間違い」を気にせずに、自分で英文を作ってみて、竹岡さんの模範解答を見て、自分の知識・感覚にフィットする回答を自分なりに作っていって、またそれを英語を使う場面で使ってみるというようにすればいいのではないかと思います。

書籍 『職場はなぜ壊れるのか』 新井千暁(著)

2007年06月16日 | Book
『職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理』(ちくま新書)という本を読みました。著者は精神科医の新井千暁さんという方。

たまたま図書館で見かけて借りた本ですが、今年の2月に出版された本で、アマゾンに26件ものレビューが書き込まれています。ベストセラーだったんですね。

内容は、産業医として某企業で働く著者の視点で、成果主義という制度が職場で働く人を心理的に追い詰めていく状況が記録されています。

経営学者の大野正和さんは、『過労死・過労自殺の心理と職場』で、日本の企業で過労死が起きる原因を次のように指摘していました。

すなわち、日本で過労死が90年代以降に増加しているのは、必ずしも日本人全体が働き過ぎであったり、働くように追い詰められているからではありません。むしろ日本経済の世界的地位がピークに達した80年代以降から、集団・和を尊ぶ精神が日本人から失われていき、それゆえに一部の旧来のメンタリティをそなえた人に残った仕事の皺寄せが行き、そこから過労死が生まれているのです。

つまり、以前には団結して協力し合うというモラルが日本の労働者に合ったのに対し、そのようなモラルが崩れ、責任を他人に押し付け自分だけのことを考えるというメンタリティを多くの人が身につけるようになったために、一部の真面目で責任を自分で背負い込みやすい人が追い詰められていっているのです。

この新井千暁さんの著書を読むと、そのような大野さんの仮説が十分に検証に耐えうるのではないかと思わせてくれました。

著者は成果主義が浸透して行った90年代以降の日本企業をまじかで見て、その弊害がどのように職場に現れていたかを報告します。

まず、成果主義は本来チームとして初めて機能するはずの組織から集団を尊重するモラルを失わせ、個人本位の行動・メンタリティを社員に植え付け、それゆえに組織が機能不全に陥るということ。

成果主義を導入したある大手電機メーカーの社員からは、「自分の目標達成しか眼中にないから、問題が起きても他人に押し付けてしまう」という声も出ていました。また社員は自分の評価がつねに短期的に下されることに敏感になり、誰もが失敗を恐れて「挑戦」を回避するようになり、ヒット商品が生まれなくなったとのこと。さらに、おそらく評価に直接つながらないからでしょうが、アフターケアやメンテナンスといった顧客へのフォローがおろそかになり、トラブルが続出したとのことです。

そのような状態に陥っていた会社で28歳の男性システムエンジニアが自殺するという事件が起きました。元同僚の証言によれば、その自殺した社員は単にノルマのプレッシャーに押しつぶされたのではなく、むしろ職場のモラルの崩壊によって追い詰められていったことを指摘します。

大きなプロジェクトに取り組み必死に仕事をする彼は、その期にどのような評価になるかは他の社員にも分かります。学校のテストの成績が他の子にも知れ渡るようなものです。その彼に対する妬みから、別の社員は細かな雑事を彼に押しつけ、彼が自分の評価に関わる仕事に取り組むことができたのは、夜になってからでした。

自分の評価につながらない他人からの任され仕事に追われ、結局自分の仕事は、評価が下される期限までには間に合いそうにありません。そうした中で彼は自殺へと追い込まれていったことが推測されるということです。

組織が組織であることの強みは、集団で行動することで一人ではできないことができる点にあるのですが、そこに一人ひとりの能力を数字で査定する制度が持ち込まれると、そのような集団の長所が失われていくことになります。

例えば上記の例で言えば、「雑事」も、それが行われなければ組織が機能しないがゆえに、自殺した「彼」はやらざるをえなかったわけです。だとすれば、それも組織に十分に貢献している仕事なのですが、すべての雑事を数字で評価するということはおそらく不可能でしょう。

著者が指摘していることの一つは、成果主義が導入されることで、職場に新しく配置される人への教育がまったくなされなくなること。

おそらく「新人研修」といったことはどの企業でも行われているのでしょうが、具体的な現場に来た新人に対して、つまり何をやればいいのか分からない人に対して何をすればいいのかを教えるという当たり前のことをする習慣が、社員に根付かなくなっているのです。

これは上で紹介した大野さんも指摘していた点ですが、日本の企業の一部では、新人が職場で何をするかを教えず、そのために職場で右往左往する新人を叱り飛ばすということが常態になっています。

「先輩」社員からすれば仕事は自分で覚えろ(俺もそうしたのだから)ということなのですが、視点を変えれば単に社員教育を疎かにしているだけです。

新人や後輩を育てるということは、本来であれば、善意でやるようなことでもないでしょう。働いてもらわなければならない社員に働いてもらわなくては、結果的に損をするのは組織です。右往左往する新人を横目で見ている「先輩」も、その新人が上手く働けるようにならなければ組織の利益が減り、結果的に自分の損になるはずです。

これが、成果主義が会社に持ち込まれると、自分のノルマの達成が主眼になるので、まして社員への評価が(学校の通信簿のように)相対評価で行われるようになると、他人の低評価が自分の高評価につながるため、新人や他の社員への知識の伝達・教育が上手く行かなくなります。

それが結果的には自分の利益の損失にもつながることは、会社は集団であるということを考えれば火を見るよりも明らかなのですが、成果主義はそのような合理的な思考をできなくなるようにさせ、個人の目先の利益だけを社員に追わせるようになります。


こう考えていて、思ったのは、学校という組織で子供たちに成績がつけられていくことの弊害。学校という組織は、一見集団を重んじているようですが、周りの困っている友達を助けようということは、教師は子供に教えません。少なくとも、英語や数学を教えるほどしつこく教えたりはしません。

学校という場所は、子供たちに集団におけるモラルを身につけさせない場所なのではないか、とふと思いました。

学校という場所は、何か目標を持って進んでいる組織ではありません。たしかに学校の経営者や教員は、進学実績を上げて学校の名前を売り生徒を獲得するという目標を共有しているかもしれません。しかしだからと言って子供たちに「この学校を有名にするために、君たちも頑張って成績を上げよう」と言う教師はいないでしょう。

学校という場所では、子供はとりあえず集団行動をさせられながら、周りの子供とチームとして協力し合い一つの目標を追求するという経験はさせられずに、自分の成績を上げることだけを要請されます(もっとも、部活動が前者のような経験をする機会を提供しているとは言えるかもしれません)。

そのために、学校という組織は、集団行動をしながら、個人個人の感情はバラバラという、よく考えればヘンテコリンな組織になっています。

成果主義は、会社という組織を、限りなく学校に近づけるものと言うことができます。個々人は自分の成績を気にして、チームとして機能することが二次的な問題になるため、集団として同じ場所・同じ時間にいながら、気持ちはバラバラなのです。