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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

映画 『ゾディアック』

2007年06月26日 | 映画・ドラマ
今月から公開されている映画『ゾディアック』を観ました。これは、1960年代後半に起きた実在の連続殺人事件を扱った映画。

この事件では、犯人は連続的に殺人を犯すと同時に、犯人しか知りえない情報や暗号を新聞社に送りつけ、それを新聞紙面で公開しなければさらに殺人を犯すと警察を脅しました。これは当時のアメリカ社会に一大センセーションを巻き起こしたそうです。劇場型犯罪の走りだったわけです。

映画は、当時の殺害現場を再現するだけでなく、新聞記者や警察の関係者のこの事件に対する関わりを描写していきます。

この連続殺人事件はたしかにショッキングなものです。犯人は当初は殺害に動機を抱えていたものの、その後は無差別に市民を殺害していきます。また、それに関する手紙を新聞社・メディアに送り、世の中が自分の事件に右往左往しているのを楽しみます。

ただこの映画の焦点は、この殺人鬼の生体を描写することではなく、その犯人と事件に関わっていく中で神経をすり減らしていく新聞記者や刑事たちを追うことにあります。

この記者や刑事たちも実在の人物だそうですが、彼らは犯人が送りつける暗号の解読に没頭したり、犯人の正体を暴くことに専念するうちに、自らの生活を犠牲にしていき、心理のバランスをも欠いていくようになります。

今から見れば、この犯人は確かに残酷ですが、これ以上に残忍な殺人鬼は存在するのでしょう。だからこの映画の主眼は、いかにこの犯人が異常であるかを伝えることにあるのではありません(その点は同じ監督の『セブン』との違いです)。そうではなく、この事件に関わっていくうちに、消耗と恐怖に取り込まれていく関係者たちの状態を描くことこそ、この映画が目的としていることです。

事件そのものの残忍性以上に、記者や警察たちの事件への関わりを通して、観客はこの事件に対する恐怖や消耗感を再体験していくことになります。

この事件よりも残忍な事件はあると書きましたが、しかし監督は、この事件がいかに当事者たちにとって恐怖に満ちたものであるかを、観客に伝えます。

私たちは、メディアの報道を通じて日々殺人事件に遭遇します。また映画やドラマではつねに誰かが誰かに殺されています。それを通じて私たちは、殺人事件に驚いたりしなくなっています。

しかし、映画は、この犯人が「不意打ち」とでもいうべき仕方で市民を襲っていく殺人の怖さを、限りなくリアルな描写で伝えます。

私は、今この映画の殺害シーンを思い出しながらキーボードを打っていますが、それを思い出すと今でも胸が恐怖で冷たくなります。そして思います。日々あふれている殺人事件では、私がこの映画で感じている恐怖とは比べようもないほどの恐怖を、被害者は感じているのだということを。

ビートたけしの『その男凶暴につき』は、暴力の生々しさを私たちに伝えるために撮られた映画だということです。暴力の氾濫で麻痺した私たちの感覚に、暴力とは同いうものかをもう一度思い出させようとした、と監督は語っていました。

毛色は違いますが、この『ゾディアック』は、殺人というものがいかに恐怖に満ちたものかを、私たちに思い出させてくれます。

この事件の犯人よりも「残忍」な殺害描写は多くの映画で描写されています。しかしそれらはすべてエンターテイメントとなり、私たちはそこに殺人の生々しさを感じなくなっています。

『ゾディアック』は、そうした多くの映画とは異なり、殺人事件とはどういうものか、それに関わることはどういうものか、ということを、私たちに思い出させてくれるのです。

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