joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

あ!

2007年05月10日 | 日記



背中の痛みが少しやわらいでいる。イメージ療法のおかげか? それとも、時間が経って自然に治癒しているだけなのか? あるいは、シップの効果か。ともかく、この調子で治ってくれたら。

そういえば、首の痛みも以前に比べればやわらいでいます。調子に乗って曲げるとグキッという痛みが走りますが、普通にしていれば気にならないくらいだし、朝起きて体を起こそうとして痛いということもなくなりました。

2007年05月10日 | 日記
かなり前ですが、学習塾で採点のアルバイトをしていたことがあります。

そこでは子供たちの解く問題を採点しながら私は、「これはどれくらい効果があるのかな」と思っていました。

子供たちの(親の)多くは、その塾に1万円以上の月謝を払っているのですが、それに見合うものを提供しているかというと、私には分かりませんでした。

ただ、私はただの採点係だったので、実際にどれほどの効果があったのかは分かりません。

それでも、多くの子供がつまらなさそうな、あるいは疲れた顔をしながらプリントを解く姿をみて、少しかわいそうにも思いました。


多くの人が言うように、塾の先生がどれほど素晴らしくても、子ども自身にやる気がでなければ、成績は上がりません。先生は努力の仕方を教えることはできても、努力させることまではできないからです。

でも、努力の仕方というのは、教えることができるのだろうか?それとも、ある資質を持った子供(人)しか、努力の仕方はわからないのだろうか?


とりとめのない文章しか今は書けませんが、アルバイトをしているときに思ったのは、一番いいのは、親が(も)子供に解き方を教えてあげればいいのではないかということ。

小学校まで、できれば中学校まででも、親が(も)勉強の面倒を見てあげるのです。何をどう勉強すればいいか、親自身も子供と一緒に勉強して、教えてあげる。

一番いいのは、親が心に余裕と忍耐を持って、子供に勉強を教えてあげることができればいいのですが。その過程で、勉強がいかに難しいかを親自身も噛みしめながら。

でも難しいでしょうね。私は人の子ではないので親御さんの気持ちはわからないのですが、多くの親は勉強のできない我が子を見て、怒鳴ったり、叩いたりしてしまうでしょう。私が親になっても、同じことをしてしまう可能性は高いのだと思います。

ただ、勉強を見てあげることはできなくても、「塾に行かせておけば安心だろう」とは思わずに、自分は気にしているというサインを子供に送り続けることは、とてもいいことなんじゃないかと思います。

4分の1

2007年05月09日 | 家電製品にかかわること

携帯加入者数が9000万人を超えたと聞いて少しびっくり。まぁ一人で二台以上もっている人も多いのだろうけど。現在の総人口が1億2千万人らしいので、4分の3が携帯を持っていることになります。

ん?4分の3? 4ぶんそう聞くと、まだまだ携帯を持っていない人は多い気もする。

僕は4分の1のマイノリティだ。

今僕は外出するときは、カメラとMDプレーヤーを同時に持ち歩くのですが、それだけでもポケットに入れて歩いていると、ガサガサして重たい。これに携帯まで持ったらうっとおしくて仕方ない気がする。

高性能のデジカメとデジタル・オーディオと携帯が一つになればいいんですけどね。それとも、すでにそういう製品があるのか?

と思って検索してみたら、もう数年前からそんな機能は当たり前なんですね。ハイ、すんません。

I have a heavy backache.

2007年05月08日 | 日記

昨日は重たい本を持って歩いていたのですが、そうするともう背中にズキンズキンと激痛が走ります。なんでこんなに痛いんでしょ?

本屋でチャック・スペザーノさんの『こころを癒すと、カラダが癒される』の「背中」の項をみてみました。

チャックさんによると、「背中」の痛みとは、過去のことを意識が引きずっており、前に進むことを妨げようとしているとのことです。過去の痛みが癒されていないので、それを顧みずに表面意識では前に進もうとしても、その痛みがひきとめようとしている、ということかな。

うーん、自分ではそういうつもりはないのですが。


背中痛

2007年05月07日 | 日記

おとついから背中の筋肉に痛みが走っています。

屋根裏にある本を詰めたダンボールを整理しているときに、痛くなった。

これが昨日になって痛みが増してきました。それは、くしゃみをすると痛くなるほど。体を横に曲げることも簡単じゃありません。

私は去年から首の痛みに悩まされているのですが、背中もこのまま痛むのかなぁ。うぅぅ。

一応おまじないで痛みが背中から引き剥がされるところを想像したのですが。そう言えば首の痛みが首から飛んでいるところをイメージしたことはなかったなぁ。背中の痛みが治まったら、首にも試してみよう。

アルバム 『アイム・ウィズ・ステューピッド 』 エイミー・マン

2007年05月06日 | Music

アメリカのシンガー&ソングライターエイミー・マンによる1996年のアルバム『I'm with stupid』を聴きました。

エイミー・マンについては、『マグノリア』のCDを持っていて、これはとくにお気に入りのCDだった。でも、なぜか彼女の別のアルバムを探すということはこれまでしてきませんでした。

それが、最近聞いたボニー・ピンクの“REMINISCENCE” にエイミー・マンの曲That's Just What You Areが入っていて、これもとてもいい曲だったので、そのThat's Just What You Areが入っているアルバム“I'm with stupid”を聴こうと思ったわけです。

この“I'm with stupid”もやっぱり素晴らしかった。彼女のソングライティングの質の高さには驚かされます。どの曲にも安易な派手な展開はなく、一つ一つのメロディ・展開は地味ですが、それら一つ一つの音がつながりによって聴く者に高揚を促すような佳曲ぞろいです。

聴いてよかった。他のアルバムもぜひ聴いてみたい。


絵本 『うさぎ』 ジョン・バーニンガム(作)

2007年05月05日 | 絵本・写真集・画集



イギリスの絵本作家ジョン・バーニンガムの手による「うさぎ」を読みました。

絵にとても動きがあって、うさぎが本当に走っているようです。うさぎが色々なところを走り回り、その周りを愛情が包んでいるようです。

男の子が言葉を語っています。本当にうさぎを飼っている男の子が、うさぎについて呟く声を聴いているみたいです。

それは、大人が子供を想像して作った声ではありません。

でも、子供にこんな言葉を出せるのかどうかも分かりません。子供ってやさしくないから。

大人でも子供でもない。でも神でもない。

誰が語っているのかわかりません。

“誰”かなどどうでもいいとも思います。

誰もが気づくことのない、表面的なもののずっと奥にある、真実の声です。

映画 『スイミング・プール』

2007年05月05日 | 映画・ドラマ
映画『スイミング・プール』を観ました。2003年のフランス映画。監督は『8人の女』のフランソワ・オゾン。この映画は公開当時にとても評判を呼んだので、いつか観よう観ようと思っていました。

一応、ミステリーです。ただ、恥ずかしいことに、私はこの監督が用意したラストを理解できなかった。つまり、種明かしの意味が分からなかったということ。観た人の多くは理解できなかったのかな。

私にとって印象的だったのは、映画全編に漂う嫉妬・不機嫌といった微妙なイライラ感です。

主役の作家の女性は、ロンドンから旅行で南フランスの避暑地に来ます。この南仏に来た当初の開放感がいい。ロンドンの喧騒から陽射しのきつい黄色の風景をもつ南仏に来ると、観客も一緒にゆったりしてきます。気位は高いけど心に不満を持つ作家が一時的に解放されているのも手に取るように分かります。

しかし、その静けさが別の厄介ごとに破られるであろうことも、観ていて容易に予想がつきます。

避暑地の別荘で執筆を再開する作家の所に、その別荘の持ち主である男の娘がやって来ます。彼女の母親と父親はだいぶ前に別れたみたい。

その娘はしょっちゅう男を連れ込んではお酒とセックスを貪り、静寂に心を落ち着かせていた作家はイライラします。

ただそのイライラは、単に静けさが破られたというだけではなく、女性である作家の、その若い娘への嫉妬も含んでいることを、観客は否応なく感じさせられます。

娘役のリュディヴィーヌ・サニエは、撮影当時20歳前後だったのですが、男から見てだけではなく、おそらく女から見ても、理想のプロポーションをヌードという形でみせます。そのスタイルの良さは、最初本当にビックリします。

監督は、意図的にリュディヴィーヌ・サニエの肌を直接的に描写し、その若い女性の肌にイライラと戸惑いを見せる中年の女性の感情も描写します。

作家は娘に対して嫉妬すると同時に、どこかで惹かれるものを感じます。嫉妬とは、そのうらやましいという感情を素直に出せないがゆえの感情であって、何かのきっかけで相手への好意が出ることがあります。

この映画で監督は一番描きたかったことが何かはよくわかりませんが、この作家と若い娘との感情の距離・駆け引きはとても印象に残りました。

ダイエット

2007年05月04日 | 日記

地方のケーブルテレビの深夜帯では、今、ブートキャンプという集中ダイエットの広告がずっと流されています。値段は1万5千円ぐらい。

でも、たしか、去年の今頃はずっとサイドステッパーの広告をやってたはず。

サイドステッパーの楽天でのページには、「これなら続けられる!」というレビューがたくさんあったけど、1年経ってサイドステッパーを続けている人はどれぐらいいるんでしょう?サイドステッパーの値段も1万円過ぎ。

ブートキャンプの広告を見ていると、ハリウッド俳優が撮影前に実践しているという紹介がされていたけれど、俳優たちがダイエットにかける(死活問題なので)意気込みが一般の人とはまったく違うと思うのだけど。

ところで、僕はダイエットすべきなのだろうか?

もっと腰周りがすっきりすれば、ズボンを穿いていてもラクだろうなとは思います。

でも、そのために一生懸命何かをするというモチベイションも湧きません。

一番いいのは、楽しく続けられるスポーツをすることかな?でもスポーツなんてもう何年もやっていない。というか、スポーツって、学校時代にやってた野球ぐらいしか知らない。一人で野球やっても痩せないと思う。

ジョギングはしんどい。

ジムはお金がかかるし。

Wiiとか買えば運動になるんですかね。こんな記事もあります。

「Wiiリモコンでゲームプレイ、運動効果大と判明! カロリー燃焼のダイエットOK」

でも僕にとっては高いし。

どうしよう。

疲れ気味

2007年05月04日 | 日記


ちょっと疲れ気味。昨日は電車に乗って海岸のある駅に行って写真を撮ろうとしましたが、そこに行った時点で疲れたので、少し歩いて帰路につきました。

家に帰ってからも、そして今日も、ずっと疲れが残って何もする気が起きない状態です。

一体なにに疲れるんでしょ?

勉強と学校

2007年05月03日 | ちょっと言ってみました
先日、勝間和代さんが書かれた『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』の感想をエントリーしましたが、個々のページ毎の閲覧数としては(このブログの他のエントリーに比べて)かなり多い人に読んでもらいました。この書籍は今アマゾンでもずっと売り上げランキングで一桁台なので、とても大きな人が関心をもっているのでしょう。

勉強ブームが言われて久しいですが、それは衰える気配はありません。社会人向け大学院に通う人や、速読を学ぶ人や、専門学校などに通う人はとても多い。

多くの子供にとって勉強が苦痛なのにもかかわらず、なぜ大人がかくもこんなに勉強熱心なのか?

一つには、大人になって、ある程度の年数を生きていると、世の中の仕組み・動きを以前より知っているので、“勉強”という抽象度の高い活動でも、その抽象的概念を具体的な社会の動きと関連させることが容易になっているのだと思います。

英語にしても簿記にしても、働く上での活用のイメージを持ちやすいでしょう。また働くなどの実践的な場面から離れても、英語学習であれば、言葉(例え母国語でも)が実際に使われる仕方について大人のほうが経験が豊かな分だけ、イメージを持ちやすいでしょう。また簿記にしても法律にしても、大人になってから勉強すれば、それを具体的に自分がどう用いるかイメージしやすいし、また世の中の仕組みも大人のほうが身をもって実感しているので、専門的用語が現実では何を指すのかも容易に類推できるのだと思います。

また大学という、理論的な事柄を学ぶ場に大人が行きたがるのも、そのような抽象度の高い考えでも現実と関わりがあることを以前よりも容易にイメージでき、同時に理論的な考察が現実への理解をより深めることを実感しやすくなっているのでしょう。これは経済・法律系の学問に限らないと思います。

それに対して子供が勉強嫌いなのは、社会の仕組みや人間関係、あるいは自分自身への省察などをそれほどしたことがないため、抽象度の高い概念について具体的なイメージをもつことができないためです。要するに「なんのためにやるのかわからない」のですね。

「ゆとり教育の弊害」ということが言われますが、以前と同じように、子供に抽象的概念と現実との関わりをイメージさせる努力をせずに、ただ「学力」を上げさせるようにしても、多くの子供は受験勉強で疲れ果て、大学で自分から学ぶという気力を失うのではないでしょうか。結局同じことを繰返すだけになります。

例え学力があったとしても、昔から日本の大学では学生は勉強しないのが当たり前でした。卒業時には受験で覚えたことのほとんどを忘れていたのですから。「ゆとり教育」が本当に悪かったのか、まだまだ答えはわからないと思う。

どうすれば子供たちに、教科書の内容に具体的なイメージをもたせることができるのか?

例えば大前研一さんは、子供たちにより社会の現実を教えるために次のように提案されています。

「職業教師に任せるのではなく、社会全体が「面」として教育に参加し、各論としての教育を展開するべきだろう。

例えば、5人の子育てを経験した母親が、子育てについて話をしたり、消防士の人がたばこによる火事の実情を話すのだ。

このような社会の中の実体験に基づいた教育であれば、教育効果は期待できるだろう」(職業教師ではなく、社会全体で教育の担い手になるべき


他の例では、吉本隆明さんは、学問のその道の「大家」に学校で話をしてもらうべきと言っていました。

「学者」と言うと現実音痴の代表のように思われていますが、ある分野で最も優れている人ほどになると、その分野と現実との接点をよく知っており、また知っているからこそその道の「大家」になれたのだ、という趣旨で吉本さんはそう言われたのだと思います。


ただ、自分のことを振り返ると、こうした方法でどれほど子供たちが「社会」「現実」「学問」に目覚めるのか、よくわかりません。

一部の優秀な子供は目覚めるでしょう。「頭のいい」子というのは、教科書の抽象的概念をより具体的に豊かにイメージできるから勉強が楽しいのであり、そういう子は現実の社会で生きている人たちの話にも敏感に反応できるからです。

でも、大部分の子にとっては、他の多くの学校の行事と同じような意味しかもたないような気がする。

じゃあどうすればいいんだ?という最初の問いにもどるのですが、とりあえず思いつくのは、“学校”という場を、強制収容所のような秩序が支配する場からなるべく遠ざけることかな。そのためには、できるだけ教師の数を増やして、一人の教師の負担を減らすことが必要のように思う。

今、日本の学校では一クラス平均何人なのかネットで調べようとしても、なかなか分からない。そんな単純なことがなぜすぐに検索できないのか。どんな検索ワードなら分かるのか?

ともかく、教師一人当たり10人ぐらいにまでなれば、教師の人たちのストレスも相当に減るのじゃないだろうか。野獣のような思春期の子供たちを相手にするには、それぐらいの人数が限度だと思う。

たしかに人件費の問題があります。でも、最近の医療崩壊問題で医師の人が言うには、医師が本当に欲しているのはお金でも休みでもなく、自分の仕事への誇りだ、ということです( つきつめれば、誇りがもてなくなってきたのだと思う。 『女医の愚痴』)。すべてとは言わなくても、過酷な労働を強いられている勤務医の多くはそう思うでしょう。

教師の人たちの多くも、出世云々よりも、もっと余裕をもって生徒と接することが本当に望んでいることじゃないだろうか。



参考:「ゆとり教育で学力が向上した ~逆風を追い風に変えた京都の教育改革」 NBOnline

“The West Wing”でお勉強

2007年05月02日 | 語学


最近は少しずつ“The West Wing”(「ザ・ホワイトハウス」)のビデオを借りてみているのですが、こういうのを観ると字幕を作成している人たちの英語力ってとんでもないなぁと思わされます。

単語だけでなく、言葉の言い回しが、日本で本を買って英語を勉強している程度ではまるで追いつかないような表現ばかりなのです。

このDVDを観るときは、最初に英語の字幕で観て、次に字幕なしで観ます(内容は『ザ・ホワイトハウス ファンページ』でチェック)。

しかし英語の字幕を見ていると、「こりゅあ、聴き取れんわ」という単語・表現のオンパレード。帰国子女か4、5年海外留学しないとしたら、どうやってこれらの言葉をマスターするのだろう?

字幕製作者の人たちってすごい。

絵本 『ブルッキーのひつじ』 M・B・ゴフスタイン

2007年05月01日 | 絵本・写真集・画集



M・B・ゴフスタインの絵本『ブルッキーのひつじ』(“Brookie and her lamb”)を読みました。

本の冒頭に、“To my husband”と書かれています。

この言葉にどういう背景があるかは分からない。

でも、この本は、僕が今まで接したどの語りよりも、人を愛するということの一つの形を教えてくれます。

絵本 『おんがくねずみ ジェラルディン』 レオ=レオニ

2007年05月01日 | 絵本・写真集・画集



レオ=レオニの絵本『おんがくねずみ ジェラルディン』を読みました。

この絵本ではねずみの顔がとても印象的。意地悪かったり純粋だったり、時間によってねずみたちの顔がころころと変わります。

そのネズミたちの集団のハーモニーがいい。意見が違っても、また一致団結する。

音楽とかチーズよりも、このねずみという集団の愛らしさのほうが胸に残ります。