左は森鴎外の「雁」の一部で総ルビ、右は芥川龍之介の「藪の中」の一部でパラルビです。
かつては総ルビの本というもののおかげで、漢字をあまり知らなくてもすらすら読めただけでなく、自然と漢字を覚えたものだなどといわれます。
しかし今になって改めて総ルビの本を読んでみると、これは眼を悪くするのは無理もないなと思います。
子どもなど漢字をあまり知らない人間が、漢字の多い総ルビの本を読むということになれば、細かいルビの部分をたくさん読み取らなければなりません。
カナが振ってあるから簡単に読めるとかいっても、細字を眼を凝らして読み続けるということになるのですから当然近眼は増えたでしょう。
縦書きの文字を横にして読むようになったから近眼が増えたなどいうのは間違いで、ルビに頼って本を読むほうが近眼の原因だろうと思います。
右側のように部分的にルビの振ってあるパラルビの文のほうがすらすら読めますが、これはルビだけの問題でなく、文章中の漢字の割合が少ないためでもあります。
左の例のように漢字が多くすべてにルビが振ってあると、いちいちルビを読む必要がなくても眼が疲れ、読むスピードは落ちます。
いわゆるつかみ読みをしようとしても、ルビが邪魔をしてやりにくいのです。
これはいわゆる混雑効果というもので、ルビがうるさく振ってあるため混雑して、本分のほうを素早く認識することが難しくなっています。
山本有三はルビは虫のようで目障りだとして、ルビ廃止論を唱えたそうですが、たしかに総ルビは文章を読む妨げになります。
世界でも珍しい総ルビというものがあるのは、漢字の数が多いだけでなく、日本では一つの漢字について読み方が何種類もあるため、極端に読み方が難しいためです。
ルビをやめたために漢字を読む力が落ちているというようにいわれても、いまさら総ルビにもどっても眼を悪くするだけでなく、読むスピードを落とすことになるので、時代に逆行しています。
ルビが振ってあればともかく読むことは出来るのですが、そのため読み方は知っていても意味は分からないという場合もあります。
意味が分からなくてもともかく読むことが出来ればそのままにしてしまい。意味が分からないことに対しての引っ掛かりを感じにくくさせるてしまうのです。
漢字を少なくしたり、ルビを少なくしたりするのは合理的な選択ではあるのです。