図は中川正之「漢語からみえる世界と世間」からのもので、外国人留学生と日本人学生に描いてもらった花の絵の例です。
日本人学生は、7人のうち6人が、ほぼここにあるのと同じような絵を描いたのですが、中国語話者5人はこのようにそれぞれ違ったイメージで描いています。
著者によれば日本人の絵は驚くほど均質性があるというのですが、あくまでもがく誠意についての問題で、日本人一般に当てはめるのは危険だと思います。
日本人学生の絵というのを見ると、よくあるイラストのカットがイメージの基礎になっているように思われます。
日本では昔なら花といえば桜か梅、現代ならバラとか蘭を思い浮かべるのでしょうが、これは何の花か分かりません。
実際の花がイメージの基礎になっているのではなく、マンガやイラストなどに出てくるカットの影響を受けてしまっているようです。
そのために均質化しているという風に評価されているのでしょうが、学生の場合は花というものが生活と関わりのないものになっているのかもしれません。
中国語話者のほうは特定のパターンが共有されているわけではないので、自分なりのイメージから描こうとしているように見えます。
花というから花の部分だけを描いたという、頭が硬いというか左脳的な留学生もいるようですが、ほかは常識的にある種の草花をイメージしているようです。
しかしこれらの花の絵も、何か戸惑いがあるように感じられるのは、花というのが漠然としてりるからかもしれません。
ユリの花とかチューリップの花を描けというなら、ある程度具体的なイメージがわくのでしょうが、ただ花といわれればどう描いていいかわからないのかもしれません。
日本の学生の絵がイラストっぽいのも、花といえば桜で代表するような感覚がなくなって来たため、既成のイラストのようなものを借りて間に合わせるという点で、日本人の学生のほうがスマートなのかもしれません。
犬の絵でも、昔なら柴犬とそうばがきまっていたのに、今ではいろんな犬がペットとなっているので、犬の絵もどの種類の犬か分からないような例があります。
現代のようにものの種類が増えてくれば、名前と視覚イメージを対応させることが難しくなるのです。
子どもに漢字やことばを教えるとき、絵や写真を一緒に見せ、イメージと結びつけて覚えさせると良いと信じられていますが、現代ではそう簡単にはいきません。
ものの種類が増えてしまうと、代表的なイメージを選ぶのが難しいからです。
ことばに特定の視覚的イメージを貼り付けてしまっても、言葉の意味が変化してしまったり、広がってしまったりすると困るのです。
日本人学生の描いたような絵は、ものの視覚的イメージというより、記号のようなもので、文字に近づいてしまっているのです。